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湊川神社の楠の春

2015-03-30 23:24:30 | あれこれ
このところ、湊川神社の空がやけに広い。
楠がかなり落葉して、
その梳いたところに空が広がっているのだ。
楠は落葉することもあるとは聞いていた。
今日見れば、紅葉さえしている。
とても美しいとは言えないが。
神社の楠がいっせいにその様子なので、
病気なのかと心配にもなる。
楠の歴史を思うと、そんなにたやすく
病むことはないとは思うが。

その中に濃いピンクの桜が見事に咲いている。
ただ、ソメイヨシノのように、
風に吹かれればすぐにも散ってしまいそうな
そんなはかなげな風情はない。
ソメイヨシノの美しさは、
そのはかなさの風情にもあるのかと
思われた。


“実”を巡って

2015-03-30 12:11:23 | あれこれ
“実”について、以後思い浮かんだことを綴ってみる。

自分の外側にある、多くは目に見える“実”は「現実」と呼ばれている。
これに対して、自分の内側にある、目に見えない、
しかし、強い実感を伴う“実”を「真実」と呼んでいこう。
広義の「現実」は、前者と後者を含み込んだもので、
前者を指すときは「外的現実」、
後者を指すときは「内的現実」と呼ばれる。
外的現実世界は客観世界とも呼ばれ、内的現実は主観世界とも呼ばれる。

現実は、人々と客観的に共有でき、
真実は、共感と了解をもって共有される。

いずれも“実”で、無視することはできない。
現実と真実を、そして、それに向かい合いながら、
私たちは生きている。


実数と虚数

2015-03-18 11:36:57 | あれこれ
昨夜、録画でNHK「こころの時代」を見る。
永尾雄二郎さんという精神科医へのインタビュー。
静岡県掛川市で、老人介護施設を運営されている。
大正14年生まれで、88歳と言われていた。
肌つやの生き生きとして気品が滲み出ている方であった。

最初、精神医学や治療のお話かと思って聴き始めたのだが、
そうではなかった。
医学とは別に、仏教それもどうも浄土真宗について
学びを深めてこられた、そちらの方のお話であった。
その中で、円について語られ、円は無限と話される。

そして、大きく描いた円の中に、
数について整理された図を描かれた。
数は、まず整数があり、
そこには正数と負数がある。
整数に対して、次に分数がある。
次に有理数と無理数がある。
さらに、実数と虚数がある。
その全てを合わせて「数」なのだと。
それを完全数complete numberという。
虚数があって初めて実数もあるのだ。
ないとされるものがあって、
それはあるのだと。
さらに、整数が生であり、分数が老であり、
無理数が病であり、虚数が死に対応していると。
そして、虚数から実数を見ていくことで、
初めて見えてくるものがあるのだと。
大悲もそこから生まれてくるのだと語られる。

このお話を聴いていて、虚について語られたところで
僕はハッとした。
僕のこの一ヶ月は、
虚の世界を生きていたのだと気づいたのだ。
虚には気づかぬままにネガティブな思いがくっついてくる。
気づかぬままにずっと僕はネガティヴだったのだと
そして、それにはやはり意味があったのだと
あらためて、気づかされる。
救われる思いがした。



年ごとのイメージ

2015-03-16 17:30:13 | あれこれ
この十年来、年末年始にかけて新たな年の1年を
どう生きていくのかのイメージが浮かぶという体験を重ねてきた。
ところが今年についてはまるで浮かんでこなかったのが不思議であった。
すると三月に入ってようやくイメージが生まれてきた。
歩んできた山道や高原の道、立ち止まって大地を耕したり、
コツコツと二年に渡って鑿で穴を穿っていた洞窟や
そこを突き抜けて出会った三龍(空と大地と海の龍)の姿や、
その横を通り過ぎてまた大地を歩き始めた姿、
そんな風景や生きてきた自分の姿をすべて描き詰めた壁に掛けられた一枚の描画を
椅子に座って眺めている自分が、去年のイメージだった。
今年はイメージが浮かんでこずどうしたのかなあって思っていた。
あまり、イメージが浮かんでこないので、
自分からもう一度この絵の世界に飛び込んで
そこに生きてみようかとも思って飛び込んでも見た。
これがユングの言うアクティブ・イメージというのかなと思いながら。
そうすると確かに三龍の世界を後にして歩く自分と自分が重なった。
でも違うのだ。
それも含めて、椅子に座って絵を眺める自分は自分として変わらずにいた。
三龍を後にしてとも言ったけど
三龍の姿や世界が消えるわけでもなかった。
変わらずにその全てを見ている僕がいた。
で、それはあまり面白くなかったのだ。
現実世界は生きやすくなっているのに、
こころはそれなりの手応え感や充実感はありつつ、
でも、面白くないのだ。
だから、また、絵の中に飛び込もうともしたのだ。
2月になって、ふと椅子から立ち上がる自分がいた。
その頃腰痛に悩まされ出していた。
でもイメージは、椅子から立ち上がって絵の壁とは反対側に歩き出したのだ。
薄闇と呼んでいいのかな、
グレーの淡い闇。
何も見えない。
見えないけど怖くはない。
そこへ向けて、
その中を歩いていくのだ。
それが今。

境内の楠、ケヤキ、そしてオリーブ

2015-03-14 22:20:37 | あれこれ
これは、昨秋に記したもの・・・

職場への道筋を少しだけ遠回りして、
湊川神社の境内を通る。
湊川神社の南門をくぐると、
クスノキの樹々の間を明るいトンネルのようにして
参道が正まで真っ直ぐに伸びている。

夏は蝉の声をシャワーのように浴びながらその道を歩く。
辛い思いを抱いているときにはその下でしばし佇んでいると、
命震わせた声のシャワーが
心の厚い黒雲も洗い流してくれるようで救われる思いがする。
今は秋。常緑樹の楠の林の中に色づく木々が重なって美しい。
南門のすぐ右手と参道奥左手に銀杏の木が黄葉している。
赤く染まっているのはケヤキの樹だ。
楠の枝ぶりは、あたかも何ものかを掴み取ろうとするかのようにぐるぐるとしている。
その枝先をこんもりとした雲形にたくさんの葉をつけた小枝が広がっている。
片やケヤキは、直線的な幹であり枝ぶりだ。
僕は、これまで圧倒的にケヤキファンであった。しかし、
より身近な楠について調べてみると大きな驚きを覚えた。
僕の大好きな中宮寺の弥勒菩薩は、楠で作られていると言うのだ。
無知な僕には衝撃であった。
七世紀までの日本の仏像はほとんど楠から作られていることも知った。
しかし、このことは後で記そう。
もう少し境内を進んでみる。左手に桜が紅葉している。
ソメイヨシノではないと思われる桜だ。横筋ぶつぶつのある樹幹を見てそれとわかる。
ゆっくり参道を歩んでいくと奥右手に濃い紅色に染まる楓が飛び込んでくる。
小ぶりの葉が気品が醸し出している。
イロハモミジとすると羽振りが小さいような気もするが、どうなのだろう。

ある日正門をくぐって左手をふと見ると、
なじみのない薄い緑の小さな葉の木がある。
近づいてみると、案内板にオリーブとあった。
日本で最も古く植樹されたオリーブだという。貴重な木なのだ。
ほぼ毎日この門をくぐりながらまるで気づいていなかったのだ。
面白いものだと思う。
『暮らし』の脚もとを見直してみると、
そんな風景が至る所にあるのだろうなと思う。