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読書メモ ローナ・ウイング著、久保ら訳 自閉症スペクトラム 東京書籍 1998 その6

2020-04-02 12:44:56 | あれこれ
第四章 自閉症スペクトラム障害をもつ子どもの行動(続き)

(5)その他の行動特徴
1.運動
・以下はよく見られる行動ではあるが、診断に不可欠ということではない。
(ⅰ) 常同運動:手をひらひらさせる。腕や手をバタバタさせる。上下に飛び跳ねる。頭をくるくる回す。
       身体を前後に揺らす。つま先歩き。
   →・原因は不明。
    ・いくつかは、感覚刺激を得るため。
   ・興奮が広がって身体全体にまで及んだもの。
(ⅱ)歩行と姿勢の異常
・時に鋭敏なバランス運動感覚を持った子がいる。
・しかし、ほとんどの場合は動作が未熟。
・微細運動については、興味のあることには器用にやる傾向があるが、多くの場合はぎこちない。
・団体競技は総じて苦手。
(ⅲ)運動の模倣
 ・ASDの子ども達は、まねをするのが遅れ、最も重い場合はまねをしない。
 ・人のことばのオーム返しはよく見られるのに、運動のまねに問題が多いのは謎。
 ・エコプラクシア(反響動作):まねするようになっても、正確であっても無目的にまねることが多い。
2.感覚刺激への反応
(ⅰ) 音への反応
 ・音への奇異な反応:自分のたてる音には敏感でないよう。
ある種の音を無視し、他の音に魅せられ、また別の音を極端に嫌う。
(ⅱ)視覚刺激への反応
 ・音に対するのと同様、視覚刺激に魅せられ、無視し、あるいは落ち込むことがある。
 ・彼らは人や物をその外観の細部でよりも全体的な輪郭で識別するようだ。
→ 細部に対応する視野の中心部より、動きや輪郭に対応する網膜の周辺部分を最も利用しているかもしれない。
*目の運動探知部分は、主に細部の観察ができないほぼ暗黒状態のときに使われる。
 ・視覚刺激への反応の特徴は、成長するにつれて薄らいでいく。
(ⅲ)近位感覚への反応
 ・近位感覚:触覚、味覚、嗅覚、振動、苦痛、温度など直接にからだが関わる感覚すべて
 ・その反応は、魅了や落ち込みや無関心となることがある。
 ・子ども達は、この感覚を通じてこの世界を探検しているようだ。
(ⅳ)空腹と喉の渇き
 ・限定された食べ物へのこだわり:変化への抵抗の一型。
 ・空腹感覚のもつ意味がわかっていないような場合がある。
 ・飲み物の取り過ぎもまれならず見られる。
3.不安と特定のものへの恐怖
○ASDの人の中には、いつも高いレベルの不安を抱えていると思われる人がいる
 → ・自閉的行動は、幼少期からの重度の不安の結果とは言えない
・理解できない状況の中で困惑したり悩んだりするからである。
・ASDの人はほんとうに危険なことがわからないでいて、平気でいることがよくある。
4.注意力と動機
・自分が興味をもつ活動ならば注意は持続される。
・興味の範囲外の活動や課題への注意力の持続ははるかに短時間か、つかの間も持たないこともある。
・問題の根底に、特別に関心のあること以外のことには関わろうとする動機がなくなること 
・自立的になろうとする動機を持たないような子どもは、日常的な着衣や食べることも親にしてもらうことを喜ぶ。
 日々の忙しい暮らしの中では、親はすぐに手を出して子どもの自立性をどうしても奪ってしまいがち。
5.特殊なスキル
・ASDでは、様々なスキルに関わる心理検査で示される能力の水準間には著しい不均衡がある。
 最もよく見られるのは、ジグソーパズルなど言葉に関係のない視空間スキルが上手に行われること。
・ASDの10人に一人くらいは、人より何か秀でた特別なスキルがある。
・ASDのアーティストが、小さな時から遠近感を正確に描いたりすることがある。
6.不適切な行動
・原因は、慣れない状況に対する困惑や恐れ、反復的ルーチンが妨げられること、社会の決まりが理解できないこと、
 出来事に対処しようとする不適切な試み、大きな音の感覚的入力に対する過敏さ、輝く光、人混み、結果を考えな
 いで好きなことをしてしまうことなど。
・ASDの子ども達は全く自己中心的だが、それは意図的に自分本位だからではなく、他人に思考や感情があるという
 考えが彼らにはないから。
(6)てんかん発作
・てんかんは行動ではないが、ASDにはよく見られる臨床像。
・1/3から1/4位が、成人期に至るまでにてんかん発作を少なくとも1回は経験している。
成人期になって始まることもある。
・どんなタイプのてんかん発作もASDの人たちには起こりえる。
(7)成長に伴う変化
・自閉的行動は、2歳から5歳にかけてが最も顕著
→ 5,6歳頃に変化が生じる。自閉的行動が目立たなくなったり、いくつかの人間関係の軽微な徴候以外には
  典型的な異常がすべてなくなってしまうように思える子ども達もいる。
 一部では、臨床像は、在ったとしてもごくわずかの自閉的行動を伴った純粋の言語発達障害になる。
・能力が高く言語発達にほとんど問題をもたない子ども達は、学校に行くようになって教室や校庭での活動や
 運動に溶け込むのを拒絶したり、褒美や制裁に無関心に見えることから明らかになる
・どの子どもでも変わるのが青年期。特に問題なくまた時に著しい成長をして通過する人がいる。
 それ以外の人たちは、幼児期に見られたてんかん発作や攻撃性やその他の不適切な行動の再発がある。
・成人期までに、自閉的行動の表れは多様になる。
 最も障害の重い人たちは、全生活を他人に依存し、児童期に見られた自閉的特徴を見せる。
 反対側には、能力の最も高い人たちが自立して働き、結婚して子どものいる人もいる。
       残っている問題は、社会的相互作用とコミュニケーションの少しの障害。
・追跡研究→知的発達の程度を決定する最も重要な要素は、能力の全体的水準である
・これらは、児童期の言語性と視空間スキルの心理テストによって測定できる
 5歳以降にテストされる場合、最も信頼できる指針となりそうである。
      児童期に経験した教育とケアは「行動」に影響を与え、その子の潜在的スキルの発達をより早く支援できる。
     しかし、最高水準においてはさほど重要な違いはもたらさない。
       ☆現実生活を適切に生きやすくすることができるが、能力そのものの発達にはつながらないということか?
一番自立しそうなのは、穏やかな気質をもち、雇用に役立つ何らかの特殊なスキルと興味があって、
   世の中で成功したいという強い欲求をもった人たち。

瀬川拓郎著 アイヌ学入門 講談社現代新書 2016

2020-03-14 20:38:08 | あれこれ
本書を手に取ったのは、数年前に母の米寿祝いに母と妹と三人で北海道旅行を
計画したときであった。自分の無知さ加減に衝撃を受けた本である。自分が持っ
ていた、あるいは持たされたアイヌのイメージとは全く違うアイヌと姿がそこに
は描かれていたのだ。自分の持っていたイメージは、アイヌの人たちへの差別的
にも繋がるものだ。それはやはり、ショックであった。
たまたまではあるが、今夕大江健三郎氏の出演したラジオ番組の録画を聞いた。
そこで語られていた、unlearnig そして unteaching ということばが、今胸に響き
渡っている。僕がアイヌについて教えられたこと、与えられたイメージについて、
unteachingし、unlearningしようとしているのだという思いは、僕をネガティブに
吹く心の風を包み返すように方向付けてくれる。これは論語の「過ちて改めざる、
これを過ちという」ということばと繋がってくる。また、安冨歩氏のいう学び=
魂の植民地化とその脱植民地化という思想と重なってもくる。
     ※学習の“学=learning”は、魂の植民地化の面を持っている。すると習
      がunlearnigにあたるのであろうか?疑問が生じてくる。ただ、「習
      =身につける」というプロセスにおいて絶えざる自分の心の声・魂
      の声との対話が重ねられているとすれば、習=脱植民地化と言える
      だろう。
 大江健三郎氏は、この話の前段で“reread”の大切さを語ってもいた。一度目の
readは地図なし、印なしの中での読書であり、rereadはある程度の地図・印をも
っての読書となる。その営みが、unteaching そして unlearningとつながるのだ。
 僕もまた、大江氏の教えを受け止めてrereadに取り組もうと思う。

☆はじめに
 小見出しは「グローバリズムでもなく民族主義でもなく」とある。僕は知らな
いが、アイヌのミュージシャンOKIの音楽を語りながら、また、「ゴジラ」の音
楽で有名な伊福部昭の思想を引きながら、そのめざしているところを紹介してい
る。それが、この見出しに書かれているところである。これを読んですぐに僕は
「複合」という概念を連想した。複合とは、性質の違う矛盾対立しあうものを共
に重要なものとして受け止めてその両方を大切にする姿勢と力を意味する。
 著者は本書の意図を「複雑なアイヌの歴史や文化の一端を提示し、そのカオス
の中から単純な二項対立の論理を乗り越えていこうとする」点にあるとしている。
著者はそれを「相乗」と呼んでいる。複合と同じ意味合いである。
 「はじめに」で最も印象的であるのは、世界中のどの民族とも異なるアイヌの
特徴を一言であらわすとすれば、『日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人
びと』」という一文である。アイヌが縄文人と最もつながりの深い人たちである
ことを明言している。

【序章】
(1)著者はアイヌについての自らの研究を3つのテーマから関わってきたと言う。
 それは、①変わってきたアイヌ、②変わらなかったアイヌ、③つながるアイヌ
ということである。
 ①については、アイヌが縄文人の末裔ということからアイヌ社会も縄文時代と
変わらない狩猟採集の暮らしを送ってきたと考えられがちであり、人類学者の渡
辺仁はそれを自然利用の視点から「アイヌ・エコシステム」としてモデル化して
いる。しかし、著者はそれを批判的に検討し、アイヌの自然利用は縄文時代のそ
れではなく、とりわけ日本との交易が大きな課題となった10世紀以降は、交易に
即した自然利用=猟・漁に積極的に従事してきたとしている。つまり、渡辺がア
イヌ・エコシステムと呼んだものは、縄文時代から変わらなかった自然利用や社
会のありかたではなく、アイヌが交易民として生きる中で作り上げていきた歴史
的な姿に他ならないとしている。
 著者は、「はじめに」でアイヌが縄文人と最もつながりの深い人たちであるこ
とを明言しながら、このように「かわらないアイヌ」ということにかなり批判的
である。その上で、「かわらないアイヌ」という点にも注意深く目を向けておく
必要があるとも考えており、それは第1章で述べられることになる。
(2)シカの話
 意外で面白い事実がいくつも紹介されており、それこそそのすべてをここに記
したいくらいであるが、まずのシカのことから。
 15、6世紀頃までは北海道にはシカがあふれるほどにいたようであるが、中
世以降アイヌの乱獲によって激減し、1879年の記録的な豪雪によってほぼ死に絶
えてしまったそうだ。現在また相当に増殖して食害や交通事故などの深刻な問題
が起きているが、わずかに生き残った子孫たちなのである。命の不思議が思われ
るし、アイヌに限らず人類が生物にどんなことをしていたかが強烈に印象づけら
れる。
   ※アイヌが乱獲を行ったのは、本州の和人たちとの交易のためであった。
    一方、人類がアフリカを出てすべての大陸に進出する、その都度に大型
    哺乳類が絶滅していったそうであるが、これはなぜだろう?自分たちの
    食用のためだけに絶滅をもらたすような乱獲を人類は行ったのであろう
    か?
(3)狩猟の数量的規模
 1804年のアイヌの総人口は2万3797人。内陸の上川盆地(旭川市のある盆地)
では、明治時代が始まる前後には300人、70戸ほどが暮らしていた。一戸あたり
4、5人というところか。核家族がイメージされるが、祖父母とはどうしていた
のだろう?それはさておき、その人口で移出していた狩猟品を見ると、年間キツ
ネ800枚、カワウソ200枚、イタチ1000枚、クマ150枚、そして、干鮭9万匹だ
ったという。鮭はこの時期まだ少ないそうで、最盛期には一戸あたり3000~500
0尾、上川アイヌ全体では20万~50万尾ほど出荷していた。これだけの量の狩猟
をしていたのだ。鮭は、卵を産むために川を遡上してそのまま死んでいくので、
漁獲量にあまり影響はなかったのだろうか?
 翻って現代、私たち人類はその暮らしのためにどれほどの生物を殺しまくって
いるのだろうか?人口70億ともいわれるこの時代、すさまじい量であるには違い
ないであろう。それでも生物資源は枯渇しないのであろうか?資源という言い方
も傲慢であるが、生物は死に絶えていくことはないのであろうか?
(4)縄文とアイヌの違い-ゴミ捨て場エピソードから
 縄文時代の社会の特徴は多様性にあり、10世紀以降の社会の特徴は一様性・偏
向性にある。縄文時代は、時に遺体でさえ貝塚というゴミ捨て場に捨てていた。
アイヌは、ごみにランク付けをしてそれはその捨て場の家からの距離に示されて
いた。縄文時代の貝塚は、ハエやネズミがたかり、悪臭に満ちていたと思われるが
それこそが生命や活力を意味していたのかもしれないと著者は言う。
(5)③つながるアイヌ
 アイヌ神話における神と人間の関係と、実生活におけるアイヌと和人との関係が
並行していることにアイヌ語学者の知里真志保(ちりましほ)は言及している。
 アイヌはこのように和人との交易を繰り返しを通して自らの文化を築いてきたの
である。ただこれは和人との関係だけでなく、北東アジアの人々、その人々の暮らし
に大きな影響を与えた唐~明などとも関係しあっていたこともわかってきている。
 文化は交流の中で形成され、変容するものであり、文化的なオリジナリティとは、
その混淆と変容の仕方のなかにも見出されるべきもの、と著者は訴える。
 現今の、他国を下に見ての「日本スゴイ!」「日本の伝統文化」論の風潮を思うと
貴重な指摘であると僕は思う。



 

闇と影

2017-05-02 14:40:38 | あれこれ
人のこころは闇とともにあるようだ。
人は、闇にまなざしを注ぐことをせずにいると
気づかないままに闇に支配されることになる。
こころの闇に目を向けていないと
闇はこころの外の至る所に現れでることになるようだ。
病気、事故、トラブル・・・・
しかし、一方でそれらは、
心の闇に気づいていなかった自分に気づかせ、
心の闇へとまなざしを向ける貴重な機会ともなる。
心の闇は、闇故に見えないけれども、
それでもじっとまなざしを注いでいると
闇は、やがてうっすらとシルエットを伴った影となる。
影として浮かび上がってきた闇は、
こころにおさめておける闇となる。
闇の中にすべて(のものの種)があるとすれば
影は、その種の芽吹きだ。
 ・・・今日は、ここまでのようだ。、

ティクナット・ハン師

2015-09-28 15:30:46 | あれこれ
超久々に自分のblogを開く。
樹木探索、とあった。思ってはいること。
思ってはいるが実行していない。
実行しないままに、一夏を越えてすっかり秋だ。

でも、充実した思いに満たされる夏だった。
何が、と言われると幾つか具体的なものが浮かぶが
それは山の頂上のようなもので、
裾野に広がっている日々の暮らしがそれを
支えていたのだと思われる。

麓の風景が変わっていったその一つに
ティクナット・ハン師とその教えに出会えたことがある。
このところティクナット・ハン師の動画を
折りに触れてみている。
心にしみいり、心地よくなり、
今ここに立ち返ることができ、
前を向いて生きていける。

現在の日本の政治・社会状況に暗澹となりながら、
また、激しい怒りをも覚えながら、
ベトナム戦争を仏教徒として生き抜き、
そこでの葛藤から見いだされてきた師の教えをもって
暗澹となる、また怒る自分を見て行く。
今は、それが大事なんだなあと思われる。

「人を思いやるとは、
人が間違った考えや行動をしているのを許すのではない。
思いやるのであれば、
その人を不幸にしている過考えや行動について、
気づく手助けをしていかないといけない。
時には、プレッシャーをかけることも必要になってくる」
・・・行動的仏教と呼ばれる所以だろうと思う。

今、全国でなされている、日本に暮らす人々によるデモは、
そのプレッシャーの一つであり、とても尊いものだと思う。
さて、自分は・・・

神戸・六甲の樹木探索

2015-05-25 12:39:07 | あれこれ
飛ぶように時間は過ぎていく。
前回このブログを書いてから、ずいぶんと経過してしまった。
それも込みで始めたので、それでどうということもないが、
一方で、自分の体験したことを振り返ってまとめる機会を
もつことをしなかったなとは思う。

このブログで試みたいと思うことの一つに
標記の樹木探索、というか、身近に見ている樹木を
もっと知って、名前も見分けることができるように
なりたいということがある。
そう思って、

清水孝之「子上b・六甲山の樹木ハンドブック」ほおずき書籍、2012

を購入し、それで調べてみようと思った。とてもいい本だとは
思ったのだが、僕にはそれで樹木に近づくということはできなかった。
どうしたら樹木ともっと近づけるだろうかと考えて、
そうだ、歩くコースに従ってそこで出会う木々を調べていけばいいんだ
と思った。

六甲を思ったが、しかし、すぐには難しい。
ならば、隗より始めよ、だと、
すぐ近所の湊川神社から始めようと思った。
思って、そして、思っているだけの時間がどんどん過ぎて・・・
というところだ。

今日、表門の左手の木々の写真を撮った。
これをどうアップしていいのか、
どう調べたらいいのかも、一つ一つ手探りだ。
まあ、ゆっくりいこう。
チョンチョニー、チョンチョニー、ハナシー、ハナシー、だ。

写真を撮った時に、湊川神社からの大きな案内看板を見た。
今年は楠正茂公が亡くなって680年を迎えるということで、
いろいろな企画が準備されているそうだ。
そのうちの、講座案内に興味を惹かれた。
時間が合えば行きたいと思う。