天気がよいので六甲山を歩いた。
山は安全だろうが、交通機関の利用ではCOVID-19は気になる。
今日は阪急六甲から登山バスで記念碑台まて。バスは朝に2本
しか出ていない。9:15発のバスを利用した。グループの若い人
たちがたくさん乗車しててきた。たくさん空いていた後部座席
に最初座っていたのだが、そこは若い人たちに譲って一番前の
先に移った。バスは登山バスらしく右に左に大きく揺れて下手
すれば酔いそうであった。
記念碑台をまず目指したのは、ビジターセンターで六甲山に
ついて勉強できると知って、一度行きたいと思っていたのだ。
記念碑台は、なぜかぼくはネガティブに感じとっていてこれま
で立ち寄ることはなかったが、行くととても気持ちの良い展望
台であった。ここならグループでゆったり弁当を広げることも
できる。
ビジターセンターもとても気持ち良い施設だった。寒かった
ので、弁当も食べることができる部屋もあってストーブもつけ
られていて助かった。朝を抜いてきたので、ここで早いお昼を
とった。図書棚もあり、興味深い本が並べられている。しかし、
ぼくは棚の本ではなく、テーブルに置かれてあった六甲山の歴
史を写真で綴っている手作りのような本を手にとってゆっくり
と見ていった。僕の中で大きく揺さぶられるものを感じた。
六甲山と人々との関わり。時代時代の変化はあっても今も変
わらない山と人との関わりがそこにはあった。
江戸時代までは、六甲山は人々にとっては生活の糧を得る場
でしかなかったようだ。それを今のように楽しみ味わう山とし
て変えるきっかけを作ったのは、ヨーロッパの人たちであった。
その新しい山との交流の仕方を学び取った上で、あらたに六甲
山との交流の仕方を作り出した人々がいた。そのあらたな流れ
に乗って、六甲山は大変な観光地ともなった。むしろ現在より
ずっと人々との交流が盛んであった時代があったことも知った。
大きな災害があり、戦争もあった。しかし、その度に六甲山と
人々の交流は再興された。
写真を見ながら、僕は大きく揺さぶられていた。写真に写っ
ていた人たちは、今の僕と同じように六甲山を楽しんだ。そし
て、今はいない。やがて何年かしたあと、僕と同じようにここ
でこうしてこの本のページをめくりながら、かって六甲山を歩
き楽しんだ人間のいたことことを感慨深く感じる人間がいる姿
が浮かんだ。その時ぼくはこの世にいない。ある点ー歴史の流
れの中のある点としての自分。そこには固有名詞のぼくはおら
ず、写真に残された自分もおらず、写真の背景にいる無数の人
々の中の一人なのだ。
流れに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、という方丈
記のことばが浮かんでくる。しかし、僕の感慨は無常感とは異
なる。不思議なのだ。写真の人たちと切れた感じはせずに、僕
もまたその一人という感じがするのだ。
ふいと、大江健三郎の「僕がほんとうに若かった頃」という
短編集の「私の魂ということはいえない」というよくわからな
詩が浮かんできて、今やっとわかった!という感じがした。