ロールシャッハ検査法の解釈に取り組む時に、いつも戸惑っていたことがあった。
それは、この検査方の課題教示である
「これは、何に見えますか?」
という問いと、それへの答え方の基本である
「これは、~に見えます」
という文についての、主語と述語の問題である。
どう考えたらいいのだろうかと思いながら、特に正面から謎解きに
取り組むこともなく、折りに触れて生じるこの謎に戸惑っていた。
そして、先日、あるプロトコールの解釈に取り組む際に
一度この謎について調べてみようとネットで検索してみた。
すると、明快に次のように説明されていた。
象は、鼻が長い。
であれば、「象」は主題。
「鼻が」は、主語。
「長い」は、述語。
“主題”という捉え方に、パッと目が見開かされた。
主題と主語は違うのだ。この見方で、教示を見て行くと
「これは」は、主題。
「~に」は、主語。
「見えますか?」述語。
となる。図版を主題にして、それが何に見えるかを問う構造が
文法的に明確に見えてくるようだ。
これをもう少し丁寧に追うと、教示は
「これは=この図版」」は、
「あなたには」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「何に」
「見えますか?」
となり、「あなたには」がどうい位置を占めるのかが問題になる。
教示を受ける被験者の立場に立てば、この教示の問いかけには、
「これは=この図版」」は、
「私には」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「~に」(この部分は単語、修飾語・文が付加された体言止めの形、文の形などがあり得る)
「見えます」
と答えることが最も対応がよくなる。この最も対応の良い答え方を文法構造的に見ると、
「これは=この図版」は、主題、
「~に」は、主語
「見えます」述語
では、「私には」はどうなるのだろう?学校文法で習ってきたうろ覚えの知識で言うと、
修飾語となるのかもしれない。しかし、修飾語という、どうもあってもなくても本質には
関わりはないというニュアンスでとらえられるような位置には、この「私には」という
隠された文節にはない。もっと本質的に重要な位置を持っていると思われる。
思うに、これは「主体」を提示しているのではないだろうか?
「~に見える」という営みをしている主体である。
主題に取り組んでいる自分という主体である。
この理解が適切であれば、教示の問いかけに最も対応のよい返答の文法的構造は、
次のようになる。
「これは=この図版」は、主題、
「私には」は、主体
「~に」は、主語
「見えます」述語
この文法的構造理解をもってすれば、この観点からする事例=被験者の体験構造が、
より一層明確に把握していけるかもしれない。そう思って、今回であったプロトコールを
読み解いていけば、その可能性が高いということを実感できた。さらに、事例検討を
重ねていきたいと思う。
ただ、また新たな謎。
この文法的理解は、どうも三上文法というものに依っているらしい。
三上文法は学校文法とは相対立する面が多い文法理論だそうであり、
例えば、学校文法では、日本語には主語があるという立場であるが、
三上文法ではそれは否定されている。主語はなく、主題があり主格が
あるのであり、学校文法でいずれも主語とされる「が」と「は」は
全く働きが違うとされているそうだ。
とすれば、上記の検討で、主語という用語があるのはおかしくなる
ということになる。
さて、どう考えて行けばよいのだろうか?
願いは、事例のプロトコールからその体験構造を読み解いていくことで
あるが、この文法的構造からの取り組みはどうなっていくだろうか?
文法論の勉強、特に三上文法の勉強もしていければとは思うが。
それは、この検査方の課題教示である
「これは、何に見えますか?」
という問いと、それへの答え方の基本である
「これは、~に見えます」
という文についての、主語と述語の問題である。
どう考えたらいいのだろうかと思いながら、特に正面から謎解きに
取り組むこともなく、折りに触れて生じるこの謎に戸惑っていた。
そして、先日、あるプロトコールの解釈に取り組む際に
一度この謎について調べてみようとネットで検索してみた。
すると、明快に次のように説明されていた。
象は、鼻が長い。
であれば、「象」は主題。
「鼻が」は、主語。
「長い」は、述語。
“主題”という捉え方に、パッと目が見開かされた。
主題と主語は違うのだ。この見方で、教示を見て行くと
「これは」は、主題。
「~に」は、主語。
「見えますか?」述語。
となる。図版を主題にして、それが何に見えるかを問う構造が
文法的に明確に見えてくるようだ。
これをもう少し丁寧に追うと、教示は
「これは=この図版」」は、
「あなたには」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「何に」
「見えますか?」
となり、「あなたには」がどうい位置を占めるのかが問題になる。
教示を受ける被験者の立場に立てば、この教示の問いかけには、
「これは=この図版」」は、
「私には」(この文節は日本語教示では、前面にでてこない)
「~に」(この部分は単語、修飾語・文が付加された体言止めの形、文の形などがあり得る)
「見えます」
と答えることが最も対応がよくなる。この最も対応の良い答え方を文法構造的に見ると、
「これは=この図版」は、主題、
「~に」は、主語
「見えます」述語
では、「私には」はどうなるのだろう?学校文法で習ってきたうろ覚えの知識で言うと、
修飾語となるのかもしれない。しかし、修飾語という、どうもあってもなくても本質には
関わりはないというニュアンスでとらえられるような位置には、この「私には」という
隠された文節にはない。もっと本質的に重要な位置を持っていると思われる。
思うに、これは「主体」を提示しているのではないだろうか?
「~に見える」という営みをしている主体である。
主題に取り組んでいる自分という主体である。
この理解が適切であれば、教示の問いかけに最も対応のよい返答の文法的構造は、
次のようになる。
「これは=この図版」は、主題、
「私には」は、主体
「~に」は、主語
「見えます」述語
この文法的構造理解をもってすれば、この観点からする事例=被験者の体験構造が、
より一層明確に把握していけるかもしれない。そう思って、今回であったプロトコールを
読み解いていけば、その可能性が高いということを実感できた。さらに、事例検討を
重ねていきたいと思う。
ただ、また新たな謎。
この文法的理解は、どうも三上文法というものに依っているらしい。
三上文法は学校文法とは相対立する面が多い文法理論だそうであり、
例えば、学校文法では、日本語には主語があるという立場であるが、
三上文法ではそれは否定されている。主語はなく、主題があり主格が
あるのであり、学校文法でいずれも主語とされる「が」と「は」は
全く働きが違うとされているそうだ。
とすれば、上記の検討で、主語という用語があるのはおかしくなる
ということになる。
さて、どう考えて行けばよいのだろうか?
願いは、事例のプロトコールからその体験構造を読み解いていくことで
あるが、この文法的構造からの取り組みはどうなっていくだろうか?
文法論の勉強、特に三上文法の勉強もしていければとは思うが。