過去の自分をおさらいする。
過去の私に、今の私の背中を押してもらおうと考えたから。
2019年4月に書いた曲「渾身」をアップロードした際に自分自身で寄せたエッセイを今また、なぞってみる。今の私の感覚に合うように、過去の自分のエッセイの枝葉末節を剪定しながら。
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その人がした表現。
それについて外野は、良いだの良くないだのを言う権限を持っていない。またその人の表現は、飽きてしまったからもう要らないなどと言って忘れ去られるものでもないし、消費され捨て去られるものでもない。私にとって、その人がした表現はその人そのものであり、批評や鑑賞や消費の対象ではない。
その人が自身の人生を賭けて外に出した、或いは命を削って外に出した純粋で切実な表現。その表現に直に触れたい。触れるだけではなくて、可能ならば直に交わりたい。
表現に関わる知識、経験、技量の有無、技量の多寡は、どちらでもよい。大切なのは、それを表出した人間そのものと、その人の意志と行為。この三つを掛け値なくそのままで言祝ぎたい。
地球上の全ての人と同じく、ひとりの作曲者である私は、音楽を通して、その表現をした人の人間そのものを聴きたい。祝福したい。可能ならばその人と、音楽を使って直に交わりたい。その交わりから生まれる音楽もまた、人間が聴こえるものであってほしい。その音楽もまた批評や鑑賞や消費の対象ではない。
私が数年前につくった座右の銘「音楽はひと、ひとは音楽」は、ここまで述べてきた私の信念、私の構え、人間の表現が示す希望のこと。
自分の表現を誰かの表現を、良い/良くないと言いたい人はそうすればよいし、誰かの表現を自分の表現を消費したい人はそうすればよい。その行為を否定しない。
けれど、私はそのようにはしない。私の喜びが増さないからだ。
これは私の個別的な音楽との関わり方。地球上の人間の数と同じだけ音楽との関わり方がある。だから、私の考えに共感してもらいたい、私と同じ態度で誰かに音楽に関わって欲しい、などとは間違っても思わない。
地球上の誰かが私の考えに共感してくれる可能性は無いではない。しかしその可能性に期待することは非現実的だ。そんな共感が実際にあるかないかも分からないのだから。だから私は共感への幻想も、予断も持たない。事実こそがすべて。
事実。実際の応答。もし仮に、私への共感の応答があったとき、もしも私の個別性と誰かの個別性が出会ったとき、私に、喜びが生まれるだろう。そこから初めて、喜びを伴った相手との実際のやりとりが起動する。
起動された、相手とのやりとりの場で自在に動くための準備は常に怠らないでいたい。
思考と行為の瞬発力を練ることは常に怠らないでいたい。
私の行動原則は、私の喜びの生まれる方へ進んでいくこと。それだけ。
#自分の考えをおさらいする
#自分の曲をおさらいする
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