追憶
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。 召集は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。
二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球
よし、ストライク10本
そこで、ボールとグラブと”敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。
愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。
野球がやれたことは幸福であった
忠と孝を貫いた一生であった
二十四歳で死んでも悔いはない
ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。
真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。 (遺族代表 石丸藤吉)
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太平洋戦争末期の1945年5月11日午前7時前。あとたった3ヶ月ほどで、戦いが集結するのですが、この時はそんなことも知る由もなかったに違いありません。
鹿児島・鹿屋の海軍航空隊基地。朝陽を浴びながら、滑走する海軍の一機の戦闘機ゼロ戦の操縦席から、何かが地面に向かってたたきつけられました。
この日、沖縄を攻撃中の米軍に対して、日本軍は総攻撃を敢行するため、陸海軍はそれぞれ九州南部の基地から特攻機を出撃させました。
そのゼロ戦の操縦かんを握っていたのは石丸進一少尉。22歳。
「第5筑波隊」の隊員として愛機に搭乗し、限界いっぱいの500kg爆弾を装着して、沖縄の米艦隊に向かって、攻撃に向かいました。
出撃直前。石丸さんは鹿屋基地で東京六大学・法政大学出身の本田耕一少尉(旧制日本大学第三中学校/現・日本大学第三中学校・高等学校在学中に、甲子園に3回出場)を相手に、最後のキャッチボールを行いました。万感の思いを込めて投じた10球でした。
従軍記者だった山岡荘八さん(のちの作家)が審判を務め、「涙でよく見えなかった」という10球は全てストライクでした。
「よーし、これで思い残すことはない」躍り上がるようにグローブを校舎の中に投げ込んで、山岡さん、本田さんに笑顔を向け、ボールを手に持ったまま、手を振りながら飛行場へ駆け去りました。
しかし、石丸さんは持っていったはずのボールを鉢巻きで巻いて、操縦席から放り投げたそうです。
これから死ぬ。
自分の命の終わりが判っている時の最後のキャッチボールでした。そのボールに永遠の別れを告げ、旅立って行きました。
滑走路に転がった野球のボール。くるんでいた鉢巻には、こう記されていたそうです。
「われ人生二十四歳にして尽きる 忠孝の二字」
石丸さんのおいの剛さんのお父さん藤吉さん(石丸さんのお兄さん)の話によると、石丸さんが最後に残した言葉は、モールス信号での「我、突入す」だったそうです。
お兄さんが最後に会った時は「敵艦に体当たりして轟沈(ごうちん)させる」と話す石丸さんを「そんなに死に急いでどうする!」と諭したそうです。「兄さん、そんなこと分かってるよ」。それが石丸さんの答えだったそうです。
出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、怖い」とも漏らし、兵舎の陰で泣いている姿もあったそうです。22歳の若者は死の恐怖と必死に闘っていたのです。
石丸さんは、どこにでもいる野球が大好きな青年だったそうです。「投手じゃない日は野手で出場したり、試合のない日は近所の子供と草野球をしたり…。本当に野球が好きだった」そうです。
石丸さんは佐賀商出身。プロ野球の世界に入ったのは1941年(昭16年)でした。お兄さんの藤吉さんは名古屋(現・中日ドラゴンズ)のチーム結成二年目の1937年からセカンドで活躍していました。
石丸さんはお兄さんに血判を押した手紙を送り、名古屋入りを懇願していました。理由は家の借金を返済するためです。実家は理髪店だったが、父親が3000円の借金(当時、大卒で一流企業に入っても、初任給月60円の時代)でした。まだ、当時はまともな職業とみられていなかったプロ野球でしたが、迷いはなかったそうです。
大好きな野球をやって、困った家族の役に立ち、月100円をもらえるからでした。
170cmと小柄でしたが、速球ピッチャーとして九州では有名であり、名古屋軍の赤嶺代表は石丸さんの評判と「藤吉の弟なら」と入団を許可したそうです。
プロ野球選手になった石丸さんは給料の約8割を借金返済に充てていたそうです。職業野球東西対抗戦に出場し、試合前に他のチームの選手達と食べ物の話をしていた時に「自分はコーヒーも飲んだ事がない」と漏らしたほどギリギリの生活を送っていたらしいです。
一年目は内野手として出場。お兄さんがレギュラーでしたが、徴兵で中国戦線に赴き不在だったため、弟の石丸さんが代役として起用されました。
お兄さんが戦地から帰還した、1942年にピッチャーとしてデビュー。4月1日の西宮球場での朝日軍二回戦で2安打完封で初勝利し、この年56試合17勝19敗、防御率1.71。1943年は43試合20勝12敗、防御率1.15でチーム2位躍進の立役者となりました。
ある日の試合開始前、先発だった石丸さんを探していた三宅大輔さん(読売ジャイアンツ初代監督)が、球場の近くにある広場で子どもたちと野球をしている石丸さんを見つけ、呼び出して叱ろうとしたそうです。しかし、あまりにも無邪気で楽しそうに子どもたちと野球をする様子を見た三宅さんは一度も叱責しなかったそうです。
石丸さんが球史に名を残したのは1943年10月12日の後楽園球場での大和(戦前で消滅)十一回戦。エラーとフォアボールのランナー二人を出しただけのノーヒットノーラン。初回から低めにボールが集まり、打たせて取るピッチングで15個の内野ゴロ。七回に先頭バッターを自分でエラーするまでは完全試合でした。
翌日の13日の朝日戦でも登板し、勝ち投手。この日、黙々と投げる石丸さんの姿はもう二度と野球が出来なくなるということが判っていたかのようだったそうです。
その8日後の10月21日。雨の明治神宮外苑競技場(国立競技場)で行われた学徒出陣の壮行会に参加。ユニホームから軍服に着替えて、マウンドではなく戦場に立つことになります。
当時、プロ野球選手は徴兵免除を得るため、大学の夜間部などに籍を置いていた人が多かったですが、軍は学生動員を決定し、日大夜間部に在籍していた石丸さんも海軍に入隊することになりました。飛行専修予備学生として筑波海軍航空隊に所属していた頃、上官からよく鉄拳制裁を受けたそうです。その恨みを晴らすためか、ある日行われた上官チームと予備学生チームの野球試合で、石丸さんは予備学生チームのエースとして登板すると、上官チームにバットにかすりもさせない程の速球で、20対0、30対0といった大差で予備学生チームの勝利に貢献したそうです。あまりにもボールが飛んでこないため、予備学生チームの外野手は全員がタバコを吸って一服し、上官チームから「もっと遅い球を投げろ!!」と言われると、石丸さんはより速い球を投げたそうです。
海軍時代の石丸さんを知る戦友の証言は共通して「普段は無口で笑うこともない男だったが、軍隊内で時々野球をやっている時や基地の近所の子どもたちとキャッチボールをしている時だけニコニコしていた」と語っています。
鹿屋基地に転進する前日、佐賀の実家に戻った後、石丸さんの従弟である牛島秀彦さん(出撃前に同僚の本田耕一さんとキャッチボールを行ったエピソードなどを書いた「消えた春」の著者)の家を訪れ、当時小学生であった牛島さんを呼び出すと何の理由も無く、頭に思いっきり拳骨を見舞ったそうです。牛島さんは泣きながら怒り、「何でそんなことをするのか」と言うと、石丸さんは「いや、済まなかった」と謝るだけだったそうです。後年、牛島さんはこの件について「戦争で死んでも、石丸進一という男がいたことをいつまでも覚えておいてほしい」という、「生きた証」を残すために見舞った拳骨だった、と述懐しています。
1945年4月25日に鹿屋への移動命令が出て、友人である浅野文章少尉から最後の言葉を書き残すための小さなアルバムを手渡され、「葉隠武士 敢闘精神」と記した後に「日本野球ハ」と書いたまま、筆を置いたそうです。それを見た浅野さんが「この期に及んでまだ野球か!!」と叫ぶと、「おう!!俺は野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!!」と怒鳴る様に言い残し、鹿屋に旅立ったそうです。
最後のキャッチボールに使ったボールは名古屋入団を許可してくれた赤嶺代表に別れを告げるため、4月に訪ねた際にもらったものだったそうです。
石丸さんの戦死から3日後の5月14日。
本田さんは神風特別攻撃隊「第六筑波隊」隊員としてゼロ戦に搭乗し、鹿屋基地から出撃します。出撃後、種子島東方にて米軍機により撃墜され戦死。享年22。
遺書には「男一度は咲く桜 勇みて征かむ南の海に 必ずや沈めん敵を常夏に 御国栄える時ぞ来しき 我は今尊き大き使命もち 桜花と共に散りて撃ちなん 友は哭き吾に続くと語る心は」とありました。
東京ドームの入り口にひっそりと戦没プロ野球選手の「鎮魂の碑」が建立されています。
その中には石丸進一選手の名前が刻まれています。
「よーし、これで思い残すことはない」
そんなことは絶対ないと思います。これほど野球が好きだった人が...……。そんなことはないと思います。
もっと野球がやりたかったに決まっているじゃないですか...……。戦争に行くのは嫌だは当たり前。
2015年8月の朝、鎮魂の碑の前にて。