千代川は鳥取県と岡山県の県境に近く、八頭郡智頭町の沖の山に源を発して北流し、鳥取市で日本海に注いでおり、その河口一帯には鳥取砂丘が広がっています。中流の鳥取市用瀬は、流し雛で有名です。富桑小学校(鳥取市西品治)の近くの河川敷には野球のグラウンドがあり、週末になると子どもたちが野球を楽しんでいるそうです。
この河川敷から少し離れた場所に鳥取西高(旧鳥取中・鳥取一中)があります。鳥取西高は1915年に始まった全国中等学校優勝野球大会(全国高校野球選手権大会)に第1回から参加し、1929年第15回大会までに10回代表校になり、準決勝に4回進出するなどの伝統校です。
1932年4月に中河美芳(なかがわ みよし)さんは鳥取一中に入学しました。中河さんは後に関西大学、プロ野球のイーグルスと同じチームでプレーすることになる木下政文さんと一緒に鳥取一中野球部に入部しました。
「父は野球関係の友人が家に来ると、決まって中河さんの話をしていました。うれしそうに話していたのを覚えてます」と木下さんの次男が思い出を語っていました。
中河さんは富桑小、木下さんは遷喬小(鳥取市本町)で4番エース同士でした。鳥取一中では中河さんはピッチャーやファースト、木下さんはキャッチャーやショートでした。
二人は学校近くの鳥取城跡の二の丸に上り、弁当を食べながら市街を眺めて過ごしたそうです。
1933年(昭和8年)第29回大会と1934年(昭和9年)第20回大会に鳥取一中は全国中等学校優勝野球大会に出場しましたが、まだ二・三年生だった中河さんと木下さんは試合に出場は出来ません。しかし、チームは伝説の投手、沢村栄治さんを擁する京都商(京都学園)に3-1で勝利しました。
中河さんと木下さんが甲子園で試合をするのは五年生になった1936年のこと。
中河さんは三番ファースト、木下さんは四番キャッチャーでした。しかし、チームは当時人気を集めたエース・松井栄造さんを擁する岐阜・岐阜商(県岐阜商高)に二回戦で敗れてしまいました。
この1936年はプロ野球の公式リーグ戦も始まり、大阪タイガースに入団していた鳥取一中出身の藤井勇さんがプロ野球公式戦第1号となる(ランニング)ホームランを放った年でもあります。
中河さんは1937年に旧制関西大学へ進学しましたが、8月に中退してイーグルスに入団します(家庭の経済状況があったと言われているそうです)。
木下さんは同じく旧制関西大学を経て、1938年にイーグルスへ入団しました。
中河さんは足を大きく広げて、どんな悪送球でも捕球する姿は「タコ足一塁手」とも呼ばれ、たちまち人気選手になりました。それは内野手がファーストへ好送球すると、スタンドから「そんな球を投げるな」とヤジが飛んだくらいだという話です。
「悪送球を捕る中河さんのプレー目当ての観客が多かったため、父はわざとバウンドさせたりして一塁に送球したそうです」と言うのは、木下さんの次男の話です。
イーグルスは1937年に創設したばかりのチームでした。その1937年7月は日中戦争が始まった年でもあります。そして、その後1941年12月にハワイ・真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦しました。
この頃のプロ野球でも多くの選手が徴兵され戦地に送られていきました。ただ、大学や旧制高校などの学生・生徒は徴兵が猶予(1943年停止)されていたため、大学に籍を置くプロ野球選手も少なくなかったそうです。中河さんは関西大を中退していましたが、イーグルスに入団後、日大に入っていました。
しかし、そのころから「軍隊に入るのがいやで、わざと日大夜間部に籍だけおいているのではないか。兵役忌避だ。非国民だ」と人気選手だった中河さんは憲兵隊にマークされたのではないかと言われています。
そして、1941年のシーズン終了後、中河さんは志願して入隊しました。これは「ぴったりとうしろについてくる得体の知れない影の恐ろしさに、中河はついに耐えられなかったようだ」と言われています。
その後のことは、どこを探しても詳しくは判りませんでした。
唯一判ったことは、中河さんは1944年7月フィリピン・ルソン島沖で乗っていた輸送船が攻撃されて亡くなったということだけでした。
全国中等学校優勝野球大会は1946年夏に再開されました。
鳥取一中は山陰大会決勝で松江中(松江北高)と戦いましたが、2-10で敗れ全国出場出来ませんでした。その時、主将だった伊谷周一さんは「悔し涙ばかりが出てきた。それでも、野球が出来るんだと改めて実感できた」と語っています。
1937年の日中戦争の開始以後、太平洋戦争終了まで鳥取県内から軍への動員数や戦死者数の詳細は不明だそうです。鳥取県史には1944年11月時点で動員数4万1千人、戦没者4100人とする資料があるそうですが、より正確を期し難いそうです。
また、本土決戦に備え、鳥取県内でも中国山地の山腹を中心に陣地や弾薬貯蔵庫など560の壕(ごう)や横穴を構築するために、延べ50万~60万人が動員されたそうです。その作業中の落盤事故で4人が死亡、16人が重軽傷を負ったそうです。
1936年夏の甲子園に出場した鳥取一中は当時の野球部員25人のうち中河さんをはじめ10人が戦死しました。なお、優勝した岐阜商はエースの松井さんら5人が戦死しました。
現在の夏の全国高校野球(全国高等学校野球選手権大会)の前身である「全国中等学校優勝野球大会」が初めて開催されたのは、1915年。今年で100年です。
鳥取西高は記念すべきこの第1回大会の予選会から参加し、第1回大会に出場した代表校10校であり、大会での最初の勝利校です。
多くの人に支えられ、築き上げられてきた伝統を大切に、感謝の気持ちを忘れずにいて欲しいと思います。
戦争で自由に野球が出来なかった、観られなかった時代があります。
高校野球100年の今年だけでなく、プロ野球だって、中学野球だって、学童野球だって、すべての野球が当たり前のように毎日野球があることに、私たちは感謝しなければなりません。