上の息子が学童野球チームに入団した時。下の息子はまだ保育園でした。
週末になると兄の野球について行き、邪魔にならない程度のお手伝いをしていました。こちらは、小学生になると待っていましたとばかりにチームに入団。しかし、一年生ですからボール拾いやバットボーイ、ボールボーイのような仕事。それでも、一緒に入った仲間と競うようにファールボールを取りに行ったりと、やる気力満々でした。
最初の出番は小学3年。このとき、6年生の一人が冬の練習中にケガをして回復が長引いており、その代役として試合出場しました。4年生になると最上位学年の6年生が一人と言うチーム事情もあってキャッチャーに。ピッチャーは6年生。速いボールを捕れず、リードも出来ず。散々苦労したと思います。でも、試合に出ている限り、そんなことは関係ありません。
しかし、一度だけ、あまりの不甲斐なさに叱りつけたことがありました。その日の夜。叱られっぱなしだと可哀想と言うことで「励ます会」が開かれました。本人はすでにあっけらかんとしており、単に大人が飲みたかっただけという代物。それでも本人は味を占めて「またやってください」と。
5年生のときには、6年生が4人。二人だけだった同級生も4人に増えたのですが、チームとしてはなかなか勝ちきれず、一日に2戦ある試合で連勝し、上位進出と言うところまでは、なかなか行けませんでした。
6年生になるとキャプテン。同級生は一人減って、一人が新入団。翌年にチーム黄金期を迎える5年生が主力のチーム構成。その予兆とも言えるチーム成績で松本市の大会で初優勝。他にも大きな大会で上位の常連とも言えるような成績でした。また、このブログでの御縁もあり、最後の最後に大会に招待してもらえるという有難いこともありました。
中学への進路は本人が一番やりたいと思う所です。これまた、当然のように学校の野球部を選択しました。兄の影響なのでしょうね。兄が一年生の秋から春の間、練習に顔を出していたこともあって、先生はもちろん、先輩たちとも顔見知りでした。が、大事な中体連のシード決め予備選で背番号をもらってしまいます。しかも、試合当日、「試合には出ないでしょ」と思っており、最初は観戦予定はなかったものの「お腹が痛いと言っている」という電話があり、試合会場に行ってみると、試合出場していると言う思わぬ事態には驚きました。嬉しいやら、申し訳ないやら。
2年生になってからは、1年の途中で入ってきたもう一人の同級生とともに、試合には出続けていました。この年もメインの中体連は早々に敗退してしまいましたが、全日本と中部日本ではあと一歩というところまで行きました。新チームになってからもチームは好調で、全日本春季はあと一歩、中体連新人戦は県大会に出場し、ベスト8という成績でした。ただ、この後、シーズンオフ直前になり、バッティングが絶不調に陥りました。
最上位学年、中学野球の最終年のスタートは大雪に見舞われました。1月に2度、2月に1度大雪に見舞われ、グラウンドは3月になっても雪が残っている状況。ただ、本格シーズン前に入る前哨戦の大会で優勝。続いて4月に行われた市内の大会でも優勝というスタートでした。5月には県外チームも参加した大会で3位でしたが、全日本、中部日本は昨年ほど勝ち上がれませんでした。目標は中体連一本に絞ったものの、チームは春先の勢いからは低調気味でした。地区大会は2位だったものの、中信地区大会は4位でギリギリ県大会へ進めるという状況でした。この頃はチームが空回りしているような感じでした。
もしかすると、保護者が勝つことに対して過度の期待を押し付けていたのかも知れません。やっぱり、野球は楽しんでやらなくてはいけません。
それでも、県大会では一回戦をサヨナラ勝ちし、二回戦も勝利まであと一歩という所まで来ました。このブログでも書きましたが、子どもらの目には涙はありませんでした。その代り、試合後に空から雨が降って来ました。
おまけとして、7月下旬の市内大会では2チームエントリーすることが出来、3年生チームの監督として、その年に北信越大会に出場するチームを破って優勝させてもらうことが出来ました。子どもたちにはいいプレゼントが出来、また、いいプレゼントをしてもらえました。
おかげさまで、中学野球では二人の息子に楽しい思いをさせてもらいました。
最後の夏にそれぞれ、上の息子には8年ぶりの県大会へ、下の息子には兄以来の4年ぶりの県大会に連れて来てもらえました。