野球小僧

渡辺静 / 旧;長野県立小諸商業学校(現;長野県小諸商業高等学校) 硬式野球部・朝日軍

浅間山の麓。小諸市に1893年に小諸義塾として設立された歴史ある公立高校です。略称は「小商(こしょう)」です。

1945年3月初旬のこと。
佐賀県の陸軍目達原(めたばる)飛行場で野球の対抗試合がありました。当時は「敵性スポーツ」と呼ばれながらも、隊員たちの娯楽として野球は許容されていました。
格納庫前の広い場所で始まった試合途中、チーム劣勢の場面で「俺がやるよ」とある青年が言い、「本当にできるのか」と仲間がからかい半分に声をかけ、ショートからマウンドに上がった青年の投球に皆が目を見張ったそうです。

相手バッターは誰もバットをかすらない速球。打てばホームランを放ち、ほぼ一人で試合を逆転したのが、小諸商出身で強打者で投手としても活躍した渡辺静さんだったそうです。隊員たちはその日まで渡辺さんの球歴は知らなかったそうです。

渡辺さんは1923年4月15日、長野県北佐久郡協和村土林(現・長野県佐久市望月地区)で、父・鹿之助さん、母・ちやうさんの五男五女の四男として生まれました。小学校時代から体格に恵まれ、運動神経がよく、恩師の勧めで小学校から野球を始め、1938年に小諸商業学校に入学しました。

二年生からレギュラーとしてピッチャーを中心に試合出場します。四年生時の1941年春の大会に優勝した東邦商と練習試合ながら、延長12回3-3で引き分けを演じ、このことから小諸商の名が全国に広まりました。
夏の甲子園出場の有力候補でしたが、戦局の悪化によって、この年の第27回大会は全国大会は中止されてしまいました。この時、渡辺さんは「校長から告げられ、皆と一緒に声をあげて泣いた」と後輩は語っています。

まんじゅうを買ってきては「お前、食べろ」と分けてくれる、優しい先輩だったそうです。後輩たちは最後まで残ってランニングをしている渡辺さんの姿をよく見かけてもいたそうです。

東邦商の活躍もあり、噂を聞きつけた竹内愛一さん(朝日軍監督)の勧誘により、1943年1月に朝日軍(1941年から1944年に存在した日本のプロ野球チーム)へ入団しました。背番号は20でピッチャーとして選手登録されました。しかし、プロの壁は厚く、出場したのは5月23日の甲子園球場での大和戦九回に代打として出場し、三振。7月6日の後楽園球場の南海戦に代打として出場し、サードゴロの併殺打に倒れた二試合のみでした。しかし、公式戦とは別に開かれた慰問野球にはよく出場していて、チームメイトからは「まじめでおとなしく、練習熱心だった」と渡辺さんのことを語っていました。

そして、9月22日に学徒出陣決定直後に応召され、10月28日の徴兵検査で甲種合格し、11月19日に僅か一年の現役生活で朝日軍を退団しました。
12月1日に金沢東部第49部隊に入隊。

1944年初頭、幹部候補生試験と特別操縦見習士官試験に合格し、2月8日に熊谷飛行学校相模教育隊に入隊。3月24日、群馬館林飛行教育隊に転属。8月1日に鹿児島西部第123部隊(知覧基地)へ、12月1日に佐賀西部第110部隊に配属されました。
各地を転々とし、年上の教官よりも位が上だったこともあって、時には理不尽な暴力や劣悪な練習環境に耐えながらも、1945年2月1日に陸軍少尉に昇進しました。
3月6日に特別攻撃隊に志願(上官からの催促があったと言われている)。5月5日に三重宇治山田市(現・伊勢市)の陸軍明野飛行場にて「特別攻撃隊第165振武隊」に振り分けられました。5月末に「野球生活八年間 わが心 鍛へてくれし 野球かな」と遺書をしたためました。

そして、6月6日。整備士に「座席は私の死に場所だから、手入れをたのむ」と声をかけ、知覧基地を13時31分に出撃し、数時間後沖縄洋上で還らぬ人となりました。満22歳没。

「いざ征かん 雨も風をも 乗越えて 吾れ沖縄の球と砕けん」

知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)には南へ、編隊で飛び去る写真と愛用のバットが展示されているそうです。

3月初旬に目達原飛行場で開催された部隊内における対抗野球試合が最後の野球でした。

「活躍の場だけでなく命までもあんな形で奪われ、どんなに悔しかっただろう」と。

1944年10月にフィリピン戦線で始まった特攻作戦では1945年1月までに500機以上が特攻に投入され、1945年3月からの沖縄戦線では延べ3000機が出撃しました。本土決戦に備えてベテラン操縦士は温存され、飛行経験の少ない若者が主体となり、老朽化した旧式機までが、捨て身の攻撃に駆り出され、特攻による犠牲は一説に5845人とされています。

プロでノーヒットノーランを達成、出撃前のキャッチボールの逸話が映画「人間の翼」になった佐賀商出身で名古屋軍(現中日ドラゴンズ)の石丸進一さん。
出撃二日前に母校へ立ち寄り、「俺はこれから沖縄へ突っ込む。後に続くを信ず」と全校生徒に演説した八尾中(現・大阪八尾高)の壺井重治さん。
1940年の夏の甲子園に出場した北海中(現・北海道北海高)の剛腕ピッチャーだった坪谷幸一さんは1945年5月11日に鹿児島・第二国分基地からの出撃直前に援護の戦闘機に突っ込まれて亡くなってしまいました。

坪谷さんと同じ部隊にいた小川昇さんは「一緒だった他の4人の出撃は延期され、終戦を迎えた。坪谷が助けたようなもの。あれだけ訓練して、なぜ一発勝負で突っ込まされるのか。その頃は特攻隊へは志望するのが当然だったが、本心は嫌だった」と語っています。

作戦というにはあまりにも、無謀なことだと思います。

小諸商高では渡辺静さんの写真や辞世の句を入れた額を公式戦や遠征の際に持って行くそうです。その額は選手を見守るかのようにベンチに飾られています。
そして竹峰慎二監督はベンチで選手に対し問いかけるそうです。

「もし渡辺さんがもう一度プレー出来たら、どんな気持ちで試合に臨むだろう」と。

今日、長野県大会では決勝進出をかけて、ノーシードから勝ち上がってきた小諸商高が優勝候補・第一シードの佐久長聖高と対戦します。

私は渡辺さんに会いに行ってみようかと思っています。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
昔。知覧特攻平和会館に行きました。
屋外にある戦闘機の向こう側に野球のグラウンドがありました。
今思えば、ここで野球をやっていたのかも知れません。

今日の渡辺さん、選手の活躍に目を細めていらっしゃいました。でも、熱戦で応援の方に忙しいようでした。
eco坊主
おはようございます。

彼の大戦の陰にあるのは悲話ばかり・・・
今の世の平和を大事にしなくちゃあいけません!

渡辺さんと会ったまっくろくろすけさん。
どんな会話されるのでしょうかね~
試合の間中彼是と話されている事でしょう。

我が県はいよいよ決勝戦です。
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