プロ野球では昨年も多くの選手がユニホームを脱ぎました。そして、第二の人生を歩み始めている人たちがいます。
中日ドラゴンズは2015年10月1日に育成の呉屋開斗さん(19歳)と来シーズンの契約を結ばないと通告しました。兵庫県出身の呉屋さんは、青森・八戸学院光星高を経て2015年育成ドラフト5位で入団。一・二軍とも出場はありませんでした。2015年9月30日に19歳の誕生日を迎えたばかりのサウスポーピッチャーは、自ら球団に退団を表明していたことを明かし、「野球に対する熱というものがなくなった。8月くらいに(退団を)考えた。(小笠原)慎之介が一軍で投げているのを見ても、自分があそこで投げているというのは想像できなかった」と、同学年のドラフト1位サウスポーとの違いに圧倒されたそうです。
夏場には短すぎるプロ野球人生にピリオドを打つと自ら決めて、球団に引退を申し入れました。しかし、球団からは何度も慰留されましたが、高卒ルーキーの意志は固かったそうです。
高校では二年秋からベンチ入り。東北大会では背番号20。投手陣の一角として秋季東北大会優勝に貢献。続く明治神宮野球大会では登板の機会はありませんでした。翌2014年選抜大会では背番号18となり甲子園メンバー入りを果たします。初戦の横浜高戦で先発登板し、勝利に貢献。続く龍谷大平安高戦は登板がなくチームも敗戦。同年選手権青森大会では背番号11でベンチ入り。春夏連続出場に貢献し、選手権では準々決勝の敦賀気比高戦で先発するも打ち込まれ途中KO、チームも敗戦。同年秋の青森大会、東北大会もベンチ入りし、チームの3季連続甲子園出場に貢献。2015年選抜大会では二回戦の大阪桐蔭高戦で二番手として登板するも1アウトも取れずに降板、チームも敗戦。同年選手権青森大会ではケガの影響もあり、登板はわずか1試合のみに終わり、チームも決勝戦の三沢商業高戦に敗れ4季連続甲子園出場を逃してしまいました。
自身も八戸学院光星高を3季連続で甲子園に導いた自負はあったそうです。しかし、東海大相模高出身のライバルは甲子園優勝ピッチャー。2015年5月に一軍デビューし、マウンドで奮投する姿はまぶし過ぎて、テレビ越しでも直視出来ないくらいだったそうです。
呉屋開斗 (1997年9月30日生まれ) 左投げ左打ち
持ち味は切れの良い138kmの直球とスライダー。
背番号 210 (2016年)
呉屋さんの第二の人生は今年の春から、父親の勤める東京都内の配送会社に入社予定です。「親孝行が何も出来ていないので」と、父親と水入らずで暮らしながら社会人としてのイロハを教わるつもりだそうです。
そして、心から小笠原選手にエールを送れる日が来るのを待ちたいという。
呉屋さんの第二の人生が走り出します。
「あした(10月1日)、球団事務所で大事なお知らせがあります」と電話を受けた後、黒めがちな瞳が潤み、長いまつげが濡れました。「明日、球団事務所に来いって言われました」。9月30日の午後のことでした。中日ドラゴンズの2014年育成ドラフト2位右腕・石垣幸大さん(20)は声を上げて泣きました。翌日、球団から正式に戦力外通告され「あわよくば、よそに拾ってもらう」と合同トライアウトに挑む決意を固めていました。
三重・いなべ総合高では一年時から控えピッチャーとしてベンチ入り。二年秋よりエースとなり、県大会準決勝・三重高戦で8回を6安打1四球で12奪三振を奪うなど、1失点完投したものの0対1で敗退。翌日の3位決定戦では津田学園高戦でも7回1失点と好投し、県大会3位で東海大会に進出した。県大会4試合で先発し30回を投げて自責点3、35奪三振の好成績を残しました。東海大会は守備の乱れも絡んで、静岡商業高に4対12で7回コールド負けを喫しました。不調で三年春の県大会では登板機会がなく、東海大会では2回2四球無失点で降板。三年夏は初戦二回戦でのデッドボールで右ヒザを骨折し、以降登板できず県大会ベスト4敗退となりました。
2015年 JABAベーブルース杯争奪大会決勝で9回に登板。バッター4人を無安打無失点に抑える。ウエスタン・リーグの公式戦は5月に3試合登板。しかし、投球フォームを崩した影響で、公式戦のマウンドは6月以降なし。
2016年 ウエスタン・リーグ公式戦への登板機会なし。
石垣さんはルーキーイヤーの2015年はウエスタン・リーグで3試合に登板しました。2015年5月31日の阪神タイガース戦(蒲郡)で人生を左右する出来事に見舞われ、公式戦最後の登板となりました。
「イップスです。試合前から肩が痛くて上がらなかったのですが、投げたら案の定ワンバウンドを連発して四球。そこからですね、おかしくなったのは」
以降は「18.44mの半分でワンバウンドしたり、球速も120km/h台に落ちたり」と地獄のような毎日でした。それでも昨年は朝倉二軍投手コーチの助言で徐々にイップスが解消され、球速も140km/h台に戻り、フリーバッティングのバッティングピッチャーも務めることができるまで回復しました。しかし、非常な通告。
「涙が止まらなかったですが、今は晴れた気持ち。トライアウトを受けて、あわよくば(他球団に)取ってもらって、中日の全員を見返したいです」と入団時は「メジャーに行く」と大きな夢を語っていました。
そして、11月12日の合同トライアウト。結果は合格でした。
しかし、それは野球ではありませんでした。急に「三代目J Soul Brothersのようなアーティストになりたい」と言いだし、超有名シンガーも所属する某芸能事務所のオーディションに挑戦。あれよあれよと3次にわたる審査をパスしました。俳優の松田悟志さんや歌手のGACKTさんに似てなくもない小さな顔。180cm、76kgで腹筋はシックスパック。手足もモデルのように長い。「そういうこと(見た目)より、プロ野球選手という肩書が効いたみたいです」と先方から聞かされた“決め手”を明かしました。
その数日前、実は合同トライアウトも合格していました。NPBのオファーはなかく、軟式野球部を持つ自動車部品製造のヒサダ(愛知・安城市)から声をかけられました。
華々しい芸能界か地道な会社勤め。
考えると決まって頭の中で再生されるのは、投球イップスに苦しんだ自身の姿でした。
石垣幸大 (1996年8月8日) 右投げ右打ち
最速146km/hの本格派右腕。常時140km/h前後の真っすぐと縦横2種類あるスライダー、緩いカーブが持ち球。「消える」と評価される縦のスライダーと少し変化する直球を武器に空振りを奪う。
背番号 211 (2015年 - 2016年)
そして、腹をくくりました。「芸能界はプロ野球より厳しい世界。また、すぐクビになったら、僕に期待してくれた方々に申し訳ない」。一時の迷いは捨てました。これからの目標は「三代目―」ではなく、「ヒサダさんを野球で全国に導いて、仕事でも工場長になるくらいバリバリやりますよ!」。
堅実な第二の人生が始まります。
さて、今日から仕事始めという方が多いと思います。
ところで、みなさんは今の仕事が好きですか? 自分に向いていると思いますか?
好きなことを仕事に出来ることが一番幸せなことでしょうけど、現実にそうなっている人は少ないと思います。
一方で好きなことを仕事にする事に対しての難しさ、辛さもあると言います。
私は普通の会社員ですが、今の仕事が好きか? と聞かれたら「いいえ」だと思います。向いているか? と聞かれても「いいえ」です。
18歳からの会社勤めが自分に向いていると思ったことは一度もありません。
ここで、ここまで長い間、仕事を続けてこれたのは、周りの方の指導や協力があったから・・・とでもいえば、良いのかも知れませんが、一番は自分が我慢していたからでしょうね。
つまり、辞めることも、続けることも決めるのはすべて自分次第。
仕事には、人柄が出ると言います。仕事人格、という言葉もあります。
どんな仕事であっても、たとえ形には残らなくても、少しでも誰かの役に立ったり、記憶に残っていけばいいな、と思います。