野球小僧

レジェンド球児

100回目の夏の甲子園では、毎日、レジェンド元球児が始球式に登場しました。

松井秀喜さん、坂本佳一さん、板東英二さん、桑田真澄さん、太田幸司さんら、プロで活躍した方もいますが、甲子園の歴史に名を残した方々です。


(画像は画面キャプチャ)

その中で異才を放ったレジェンド選手がいます。

富山・高岡商高のキャッチャーとして1962年選手権大会に出場した熊本武明さん。青山学院大に入学後は箱根駅伝に出場した、二刀流選手です。

1960年に高岡商高定時制(四年制)に入学。1961年に全日制に編入したため、4年間の高校生活を送っています。

三年生時の1962年の選手権大会。まだ、この当時は1県1代表制ではなく、30校しか出場出来ませんでした。高岡商高は北越大会で優勝し、2年ぶり5回目の出場を果たしました。熊本さんはチームの要のキャッチャーとしてチームを支えました。

一回戦で西関東代表の山梨・甲府工高戦。0-2で敗けていた8回裏、九番バッターの熊本さんは逆転3ランホームランを放ち、5-2の勝利の立役者となりました。甲子園では通算6打数1安打3打点でした。

ちなみに、1962年大会のホームランは29試合で4本。1試合当たり0.14本。2013年から昨年まで最近5大会(各48試合)は計210本。1試合当たり0.88本と当時のホームランは現在より、はるかに希少でした。

その後、規定により、三年生夏で野球部を引退し、陸上部に入り、夏の甲子園から4ヶ月後の12月に全国高校駅伝に出場し、4区9位と好走します。四年生だった1963年大会も出場し、エース区間の1区で34位と健闘しました。

そして、高校卒業後の1964年に青山学院大経済学部へ進学。1965年大会で一年生ながら山上りの5区を担い、区間14位。チームも14位。翌1966年大会は山下りの6区を任され、区間14位。チームは13位だったという記録が残っています。

そんな選手は甲子園100回、箱根駅伝94回の歴史でも熊本さんしかいないと思われます。

熊本さんは打撃や走りは積極的でしたが、競技を離れれば謙虚な人だったようです。青山学院大の後輩だった奥さんの章子(あやこ)さんは熊本さんとお付き合いしている当時、熊本さんの偉業を知らなかったそうです。「結納の時、親戚の方が『武明は甲子園で本塁打を打って、箱根駅伝を走ったんです』と言われ、初めて知りました。デートで箱根へドライブに行った時、『学生時代、ここ走ったなあ』とかつぶやいていましたけど、私が聞き流してしまっていて」とうれしそうに笑顔で思い出話をしていたそうです。

熊本さんは1968年に青山学院大を卒業後、故郷の富山・高岡市に本社を構える三協アルミニウム工業(現:三協立山)に入社。ビジネスマンとして活躍しました。「夏休みには高校野球を、正月休みには箱根駅伝をテレビで見ていました。自分の思い出話をすることはなかったですね。静かに若い選手を応援していました」と章子さんは話しています。

熊本さんの母校の活躍はめざましく、今年、高岡商高は2年連続19度目となる選手権大会に出場し、一回戦を快勝しています。青山学院大は箱根駅伝で史上6校目の4連覇を果たし、黄金期を迎えています。

残念なことに熊本さんは2001年に56歳の若さで亡くなっています。

夏の甲子園でホームラン、正月の箱根駅伝で山を激走。

今は夏は高校球児を、正月は学生ランナーを、空の上から見守っているレジェンドです。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
私も当然のことながら、存じ上げておりませんでした。

野球と駅伝では使う筋肉が違いますが、その両方を備えているのはすごいですよね。私は逆の意味で、両方とも備えていませんが。

>BTW;T20は大丈夫でしたか?
うーん、よくわかりません。その理由は、また明日で。
eco坊主
おはようございます。

甲子園と箱根・・所謂高校と大学(関東だけど)の聖地を経験された方がいたとは驚きです。知らなくてごめんなさい。
それも只経験したのではなくてそれなりの実績をのこされているのですね。感服いたします。

両聖地を踏むためにどれだけの練習をされたことでしょう。私には想像できません・・想像したくないです^^;

BTW;T20は大丈夫でしたか?
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最新の画像もっと見る

最近の「高校野球」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事