ゴールデンウイーク(GW)後半ともなり、少しは世間並みのことをしてみました。
長野県には、通称、中央アルプスと呼ばれる木曽山脈、南アルプスの赤石山脈と合わせて日本アルプスを形成する、北アルプスの飛騨山脈があります。その飛騨山脈は、富山県、新潟県、岐阜県、長野県に跨って連なる山脈であり、その日本海側の端に当たる場所が、親不知・子不知です。新潟県糸魚川市にあり、親不知駅がある歌(うた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが親不知(おやしらず)、東の勝山(かつやま)地区までが子不知(こしらず)とよばれており、併せて親不知・子不知とよばれています。市振から勝山までは約15kmの距離です。日本海に面する断崖は、飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたもので、崖の高さは約300〜400mです。
この親不知へ約20年ぶりに行ってきました。正確には、道の駅の「親不知ピアパーク」へです。ここの海岸線は砂利ではありますが、水の綺麗で夏になれば海水浴が出来ますが、海岸で翡翠(ヒスイ)を探してみるのも一興です。
その昔、越後国(現在の新潟県)と越中国(現在の富山県)の間を往来するには、この断崖の下にある海岸線に沿って進んでいたそうです。古くから北陸道(越路)最大の難所として知られていました。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込んだりしていましたが、途中で波に飲まれる人も少なくなかったといわれています。
また、江戸時代に加賀藩主が参勤交代時で親不知を往来する際には、越中国側の新川郡から400~500人の波除人夫が集められ、人垣により波を防いで通行したそうです。
ちなみに、通行の難所であった天下の険として有名な親不知・子不知海岸。日本の道百選にも選ばれています。
地名の由来はいくつかあり、
1.北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった。
2.壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子を波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」という歌が由来になった。
などという説があります。今では、すっかり道は整備されてしまっており、当時を知るにはこれまた一苦労するところです。
さて、この日の気温は約20で風もなく、寄せては返す波のシンフォニーをBGMにして、お日様によって温まった砂利のベットで転寝をする、この幸せ感。昔の人には、こんな余裕もなかったと、申し訳なさもありますが、現代のほっとするひと時を過ごさせてもらいました。
なお、同行人たちは、石拾いを楽しんでおりました。
GWの後半は、まったりとしたスタートでした。