不振に陥った選手やケガ、手術や病気で長期離脱した選手が復活したときに与えられるカムバック賞に昨年は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀線が選出されました。
MPBでは1974年に制定され、両リーグで40人が受賞しており、セ・リーグでは34人が受賞しています。一番多いのが東京ヤクルトスワローズの8人です。スワローズは野村克也さんの監督時代の采配の1つで、伸び悩む選手や他球団で戦力外となった選手、トレードで移籍した選手を再生させて、コンバートや起用法を変えて活躍の場を与えた事、実際にケガから復帰した伊東昭光さん(1992年)、川崎憲次郎さん(1993年)、伊藤智仁さん(1997年)のカムバック賞も輩出しており、まさしく「野村再生工場」というイメージがあります。
その次、2番目に多いのは、実は我らがドラゴンズの7人です。案外、意外に思われたと思いますが、多いものは多いのです。
■1980年 谷沢健一
巧打の中距離打者として活躍。1年目からレフトのレギュラーとなり新人王。1976年に打率.35483で首位打者を獲得。この首位打者は張本勲さんとの差.00006では2位との差としては最も小さい記録。1978年頃から大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化。有効な治療法が無く選手生命が危ぶまれたが、酒マッサージ療法に出会って治療を続け、回復。1979年9月23日対横浜大洋ホエールズ戦に代打で登場して復帰。1980年には打率.369の高打率で2度目の首位打者、カムバック賞を受賞。
■1984年 鈴木孝政
150km台の伸びのある快速球を武器に、ロングリリーフもこなす救援投手として活躍。2年目の1974年には35試合に登板し、リーグ優勝に貢献。当時スピードガンは普及していなかったが、セ・リーグでは最も球の速い投手と言われていた。1975年に最多セーブ投手、1976年に最優秀防御率と最優秀救援投手を獲得。リリーフ専業投手が規定投球回数に達して最優秀防御率のタイトルに輝いたのは、他に2人のみ。リリーフながら3年間連続(1975~1977年)で規定投球回数まで投げ続け、肘を痛める。1982年6月の大洋ホエールズ戦で復帰。シーズン途中からは先発に転向、この年9勝を挙げてリーグ優勝に貢献。1984年に16勝を挙げカムバック賞を獲得。
■1989年 西本聖
必殺シュートを武器に、読売ジャイアンツのエースとして1980年から1985年にかけて6年連続で2ケタ勝利。しかし、1986年は7勝、1987年は8勝、1988年は4勝のみと白星に見放される。1988年オフにトレードで移籍し、1989年に自己最多の20勝を挙げてジャイアンツ・斎藤雅樹さんと最多勝分け合い、カムバック賞を受賞。
■1994年 彦野利勝
入団後は二軍暮らしが続いたが、5年目の1987年に一軍定着。1988年には長打力のある一番センターとして6年振りのリーグ優勝に大きく貢献。1989年には自己最高のホームラン26本を放つ。強肩を活かした守備で1988年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞。1991年6月18日、ナゴヤ球場での横浜大洋ホエールズ戦(なぜか、上記選手含めポイントになるチーム)で盛田幸妃さんからサヨナラホームランを放ち一塁ベースを回った所で転倒。脚を痛めて走塁ができなくなり退場。当初は捻挫と診断されていたが、その後の検査で右膝の靭帯が断裂していることが判明し、長期離脱。1994年に118試合に出場してレギュラーに再定着し、一時打率1位をキープするなど活躍し、カムバック賞を受賞。
■2000年 種田仁
1989年度ドラフト会議にて6位指名を受け入団。下位指名ではあったが推定契約金は上位指名選手並みで背番号は一桁の0を与えられるなど、高く評価。2年目の1991年はセカンドのレギュラーを奪う形で後半戦からスタメンに定着。1992年に背番号1となり、ショートへとコンバート。1993年は初めて規定打席に到達し、ホームラン10本と活躍するが、1994年はケガなどの影響で不調に陥り、41試合出場に終わる。1995年は復調するものの、新人選手の加入もあり、89試合の出場、1996年は40試合の出場、1997年はさらに少ない8試合の出場に終わる。1998年は前年の脱税事件の影響で開幕から3週間の出場停止処分を受け、背番号も49に変更。阪神タイガースから移籍してきた久慈照嘉さんの活躍もあり、打率は.280であったものの43試合の出場に終わった。1999年も43試合の出場に留まるが、2000年に「ガニマタ打法」で、代打で11打席連続出塁という日本記録を樹立。規定打席には満たなかったものの102試合、打率.314、ホームラン7本、31打点を記録してカムバック賞を受賞。
■2003年 平井正史
1993年のドラフト1位でオリックスバファローズに入団。2年目の1995年に15勝27セーブで、最優秀救援投手と最高勝率の二冠に輝いた。しかし、その年をピークに成績は下降。1999年から2002年に至っては不振と故障が重なり、4シーズンで21試合しか登板できなかった。2002年のオフにドラゴンズに移籍、2003年は中継ぎに先発にとフル回転して12勝を挙げ、8年ぶりの2ケタ勝利を達成。文句なしでカムバック賞に輝いた。
■2017年 岩瀬仁紀
1998年のドラフト会議で逆指名2位で入団。1年目から自身の持ち味である制球力と鋭く曲がるスライダーを武器に中継ぎとして活躍。2004年から抑え。2012年中盤ころからリリーフを失敗する場面が目立ち始め、8月2日に左ヒジの違和感を訴えて自ら二軍調整を申し出。2014年8月に左ヒジの張りを訴え、一軍登録を抹消され、NPB記録の連続50試合登板が15年、連続30セーブが9年でそれぞれ途切れた。2015年は左ヒジの故障の影響で開幕二軍スタートとなり、抑えの座も福谷浩司に譲り、プロ入り初の実戦登板なし。2016年に2年ぶりに一軍登板し、史上3人目となる通算900試合登板を達成するものの、この試合は1つもアウトを取れず。前年に引き続きセーブをあげられず防御率は自身ワーストの6点台。2017年は3年ぶりに開幕一軍を果たし、左のセットアッパーとして起用される。6月23日のジャイアンツ戦で3年ぶりにセーブを記録し、セ・リーグの最年長セーブ記録を更新、12年ぶりの月間MVP。プロ野球記録新記録の950試合登板、通算セーブを404に伸ばし、4年ぶりに50試合に登板し、3勝6敗2セーブ、防御率4.79という成績を残し、カムバック賞を受賞。
松坂選手は1999年4月21日の対ロッテマリーンズ戦で黒木知宏さんと投げ合い、0-2で敗北しましたが、その後に「リベンジします」と宣言し、4月27日の対マリーンズ戦で再び黒木さんと投げ合い、1-0でプロ初完封を記録し見事にリベンジを果たしました。この「リベンジ」は1999年の新語・流行語大賞(年間大賞)に選ばれました。
是非、ケガに「リベンジ」して欲しいものです。