野球小僧

5打席連続敬遠

10月4日の宮城県・コボスタ宮城で行われた東北楽天ゴールデンイーグルス対オリックスバファローズ戦で、打率.331で首位打者をキープしている糸井嘉男選手(バファローズ)を5厘差で追う銀次選手(イーグルス)が、「一番・ファースト」で起用されたものの、打席に入ると、バファローズ先発の松葉貴大選手は明らかな“敬遠”で勝負を避けるという“プレー”がありました。

この試合で銀次は4打数4安打を打てば糸井を抜き、打率トップになることが出来ました(実際は難しかったかも知れません)。でも、松葉はチームメイトのタイトルを援護するようにとのベンチからの指示によって、キャッチャーは立たなかったものの、5打席連続フォアボール(実質の敬遠)となりました。

シーズンが最終局面になり、個人タイトルがもつれるような場面で、数年に一度は見られる日本プロ野球の秋の風物詩です。

■1959年10月20日 南海ホークス(現;福岡ソフトバンクホークス)対大毎オリオンズ(現;千葉ロッテマリーンズ)

杉山光平選手(ホークス)が打率.323と山内一弘(オリオンズ)が打率.318の首位打者争いで迎えたダブルヘッダー最終日。杉山選手は欠場、ホークスは山内選手を敬遠する作戦に出ます。しかし、最初の試合で山内選手が敬遠球に飛びついて2ベースを放ち、打率.320に上げます。これであせったホークスは絶対にバットの届かない球で敬遠し、二試合に渡り6打席連続敬遠。
最終的には山内選手は首位打者をあきらめてベンチに引っ込みます。

■1965年8月14日・15日 東京オリオンズ(現;千葉ロッテマリーンズ)対阪急ブレーブス(現;オリックスバファローズ)

異様な二日間。この年、ダリル・スペンサー選手(ブレーブス)は野村克也選手(ホークス)と打撃3部門でタイトル争いをしており、スペンサー選手は33HRで野村選手の28HRをリード。当時は野村選手の三冠王獲得が期待され、他チームピッチャーはスペンサー選手にホームランを打たせまいとフォアボール攻撃をしかけます。8月14日・15日の東京オリオンズ戦ではオリオンズのピッチャーは8打席連続で歩かせます。10月3日のホークス戦ではバットを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出ますが、それでも敬遠されます。
最終的にスペンサー選手はシーズン二週間を残して交通事故に巻き込まれ、欠場になり、最終成績はスペンサー選手が打率.311、38本塁打、77打点。野村選手が打率.320、42本塁打、110打点で野村選手の三冠王が決定します。

■1982年10月18日 大洋ホエールズ(現;横浜DeNAベイスターズ)対中日ドラゴンズ

田尾安志選手(ドラゴンズ)は首位打者争いでトップの長崎慶一選手(ホエールズ)に1厘差に迫っていたこの試合。長崎選手は欠場、田尾選手は5打席連続敬遠となり、5打席目に敬遠球を抗議の意味を込め空振りします。
最終的に長崎選手が首位打者を獲得します。

■1984年10月3日 中日ドラゴンズ対阪神タイガース

宇野勝選手(ドラゴンズ)と掛布雅之選手(タイガース)の二人がホームラン数37本で並んでいました。この試合、両者共に5打席連続の敬遠合戦となりました。タイガースは満塁の場面でも宇野選手を敬遠します。この時、セ・リーグの鈴木元会長が異例の声明を出して警告ししますが、5日の最終戦でも敬遠合戦は続けられ、結局10打席連続敬遠となります。
宇野・掛布両選手がホームラン王となります。

■1991年10月13日 ヤクルトスワローズ対中日ドラゴンズ

古田敦也選手(スワローズ) が打率.339、落合博満選手(ドラゴンズ)が打率.335で首位打者争いをしていました。打率4厘差にも関わらず、落合選手は第1打席から敬遠され、6打席連続敬遠となり、一試合最多四球記録となります。落合選手は、その後の対広島東洋カープ二連戦で6打数5安打という奇跡を起こし、打率.340まで上げ逆転。
しかし、古田選手もその後、1打数1安打で再逆転して首位打者となります。

■1992年8月16日 第74回全国高等学校野球選手権大会二回戦 明徳義塾高校(高知)対星稜高校(石川)戦

この試合で明徳義塾高が星稜高の四番・松井秀喜選手を5打席連続して敬遠。この場面はプロ野球と違って、個人タイトルではなくチーム勝利優先での作戦でした。
結果は松井選手は一度もバットを振ることないまま星稜高が敗退します。


敬遠という行為そのものは、ルール上認められるものです。ですから、あくまでもルール上の是非を云々言ってもどうしようもありません。
バファローズの森脇監督のタイトル獲得へのサポートへの言うことも判ります。また、チームとして仲間のタイトル獲得をサポートする日本人らしい考えも判ります。プロ野球選手は最終的に個人業主でもあり、個人成績のインセンティブ契約を結んでいる選手も少なくありません。それも判ります。まさに日本野球の伝統の一つでもあります。
でも、シーズン優勝が決まった後のいわゆる消化試合であったとしても、ファンは試合を見に来てくれるのであり、応援するチーム・選手のタイトル挑戦に期待を持って、高いチケットを買って球場にやって来ます。

レッドソックスの上原浩治選手が読売ジャイアンツ・ルーキー時代の1999年、ホームラン1本差で追う松井秀喜のホームラン王タイトル奪取を援護するため、ロベルト・ペタジーニ(当時ヤクルトスワローズ)を敬遠する指示を受け、マウンド上で悔し涙を流したことがります。試合後、「やってもいい敬遠と……」と発言し、日本野球の悪しき伝統に問題提起しました。

メジャーでは、こういうタイトルホルダーを保護するような行為は、ファンや社会に受け入れられないという。
こういうのはマンガの世界だけにして欲しいですね。

■ドカベン高校時代編(1977年の連載) 二年春の甲子園準々決勝 明訓高校(神奈川)対江川学院(栃木)

江川学院の中二美夫は山田太郎(明訓高)との対戦が注目されたが、5打席全てで敬遠。八回の第4打席には1点リードで満塁のピンチにも関わらず、押し出しの敬遠をします(この時、中は肩を痛めており、この状態では山田に打たれると考えたため、苦渋の決断として敬遠を選んだという)。
この試合は延長十二回裏、明訓高が殿馬一人の秘打「回転木馬」でサヨナラ勝ちします。

(新しいブログ(同じ記事ですが)のリンク先です。http://baseball-love.blog.ocn.ne.jp/)


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
1959年のことを覚えてる・・・と言われたら、いったい、おいくつかと?

”勝つ”ための作戦なら、その後の駆け引きもあって、面白いと思うのですがねぇ。

個人タイトルはどうかなあと。
もし、その選手が獲得することで、来年につながる、チームの為にというような感じの若手に自信を付けさせるのだったら・・・ですね。

でも、最後まで出場してでのタイトルに価値があるように思えます。
消化試合(?)も、そういう勝負があれば見どころも残って面白いです。
eco坊主
おはようございます。
田尾vs長崎以降はみんな覚えています。
言われたら(書かれたら)思い出す程度ですけど^^;

敬遠というルールが認められている以上外野であ~だこ~だと言ってもどうしようもないです。
だから今年の糸井vs銀次に関してもまたか~という程度でした。
打撃部門のタイトルは他の打者との争いですが対戦は投手とですもんね~
最多勝争いも時々ありますよね~途中登板でうまい具合勝ち星がつくようにする事。
オイラがプロの監督だったら・・・(あり得ないけど)やるかもしれないです。
全責任を持った上で、且つ優勝最優先を崩さない条件の中で!

日本人の文化と気質とルール  ずっと続くでしょうね。
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