1932年生まれの米国出身のプロ野球選手・コーチ・監督です。
現役時代、セントルイス・カージナルスなどで12シーズンに渡ってセカンドの守備の名手として活躍し、1958年にはMLBオールスターゲーム出場、1961年にはワールドシリーズにも出場しました。
1967年に南海ホークスに入団。その後3シーズンプレー。勝負強いバッティングと堅守でチームに貢献し、1967年、1968年に二年連続でベストナインを受賞しています。
1970年から野村克也選手兼任監督が就任するとヘッドコーチに就任し、1973年のパ・リーグ優勝に貢献。1977年オフに退団。1978年に古葉竹識監督の下、広島東洋カープ守備兼ヘッドコーチに就任し、1979年には阪神タイガースの監督に就任。1981年に古巣南海ホークスの監督に就任しました。
日本では本名のブラッシンゲームではスコアボードに書ききれなかったため、ニックネームの「ブレイザー」で登録されていました。この名前は往年の野球ファンには懐かしい名前だと思います。
ブレイザーといえば「考える野球(シンキング・ベースボール)」です。
今では当たり前のように言われているヒットエンドランのサインが出たら、バッターはどこを狙うか?(一塁にランナーがいる場合、必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がす)ということを日本に伝えています。
また、「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、ショートの守備位置や動きでピッチャーの球種を悟らせない「考える守備」を提唱しています。
また、常に全力プレーを推奨し、手を抜いた選手には徹底的に批判するということもあったそうです。
そもそも、ブレイザーはメジャーリーガーとしては身体が小さく非力だったため、メジャーで生き残るに頭を使ったプレー、小技や待球戦法を使たプレーをしていました。
日本が本家だと思われているような野球スタイル。
実のところ、野球の実家である米国からの使者からから伝わったものだったのです。