世界に、日本に、強さと感動を与えてくれたラグビーワールドカップ219日本大会は11月2日に神奈川・横浜国際総合競技場でファイナルを迎えました。
44日間の大会を締めくくったのは、4大会ぶり2度目の頂点を狙う、日本代表の前ヘッドコーチ、エディー・ジョーンズ監督が率いるイングランド代表と、日本代表のベスト4を阻み、3大会ぶり3度目の優勝を狙う南アフリカ代表との激突でした。
前半10分、SOポラード選手が先制のペナルティゴールを決めると、そこから両チームのペナルティゴール合戦の様相。ハイレベルな決勝はともに、なかなかトライが奪えません。
この試合の行方を決めたと思えたのが、前半30分前から見せつけた南アフリカ代表の圧巻のディフェンス力。自陣5mラインでイングランド代表の猛攻を何度も食い止め、インゴールぎりぎり、トライを許したかに見えた相手FWの突進を食い止め、3分以上の猛攻を耐え続けた場面でした。
そして、前半終了間際には、今度はスクラムでイングランド代表の反則を誘い、約40mのペナルティゴールをポラード選手が4本目となる12得点で前半を折り返します。
後半26分、南アフリカ代表にとって決勝戦初となるトライ。インゴールまで残り約40mの左サイドタッチラインぎりぎりでWTBマピンピ選手がパスを受け、相手ディフェンスの裏へキックパスし、最後はボールを受けた味方から再度パスを受け、トライを挙げます。
そして、圧巻は後半34分。身長170cmの小柄な身体から、爆発的なスピードを発揮する「ポケットロケット」と呼ばれているWTBコルビ選手が、イングランド代表4人のディフェンダーに囲まれながら30m以上を独走し、優勝を決定づけるダメ押しトライでした。
結局、南アフリカ代表が32-12でイングランド代表を下し、3大会ぶり3度目の優勝を果たしました。優勝3回は、ニュージーランド代表に並ぶ最多となりました。
前回大会で日本代表に歴史的な敗北。3位にはなりましたが、ワールドカップ終了後の2016年はテストマッチ(代表戦)12試合で4勝しかできず、イタリア代表に初黒星、2017年にはニュージーランド代表には0-57という大敗。その低迷していた強国の再建を託されたのが、昨年3月に就任し、今大会後に退任する意向を示しているラシー・エラスムス監督です。
現役時代に代表主将も務め、誰とでも率直に話す姿勢で知られており、データと対話重視のスタイルを追求してきました。コリシ選手を黒人で初の主将に据え、伸び悩む選手にはポジション転向を勧めるなど改革を進めてきた結果として、世界一を取り戻し、日本大会は幕を閉じました。
国の威信をかけて、戦う代表競技では、試合開始前に国歌斉唱があります。
イングランドの国歌は公式に定められたものはありませんが、その役割を果たす多くの曲が存在しており、ラグビーイングランド代表は「女王陛下万歳」を国歌として使用する一方で、「希望と栄光の国」をキックオフ直前の曲としています。
南アフリカ共和国の国歌は、「神よ、アフリカに祝福を」と、「南アフリカの呼び声」の両曲をひとつに編曲したものです。1997年に当時大統領だったネルソン・マンデラさんが大統領令として制定しました。
この国歌には、南アフリカ共和国の分断と融和の歴史が刻まれています。
「主よ、アフリカに祝福を。その栄光が高く掲げられんことを・・・」
こう始まる「神よ、アフリカに祝福を」の歌は、元々、賛美歌として メソジスト学校の教師エノック・ソントンガさんによって作曲されました。しかし、いつしか、アパルトヘイト下の黒人解放運動で盛んに歌われたため、「反逆歌」として、歌われるのが禁止されていました。
「我らの上なるこの青き空より。我らの海の深みより。こだま渡る険しき永遠なる山々より・・・」
で始まる、もう1つの「南アフリカの呼び声」は、1957年から1994年まで国歌として歌われていました。アパルトヘイトを推し進めた白人政権の象徴でした。
アパルトヘイトは「分離」を意味し、南アフリカ共和国で進められた白人と非白人を分割して統治する人種隔離政策を指します。1948年にオランダ系白人アフリカーナーの国民党が政権を掌握した後、急速に制度化が進みました。土地の大半を白人が所有し、約20%の白人支配層が非白人を差別し、居住地区を定め、異人種間の結婚を禁じ、参政権も認めませんでした。白人の就業が優遇され、白人専用の鉄道車両、レストラン、ビーチなども設けられました。
1960年代から反対闘争が激化。アパルトヘイト廃止を訴え続けたマンデラさんは、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、約27年にわたる獄中生活を経て、1991年に撤廃に導きました。同国では1948年から1991年までアパルトヘイトが続き、国際社会から孤立し、経済制裁を受けたこともあり、撤廃へとつながった。
しかし、アパルトヘイトが廃止された1991年以降も、言語や文化の違う人種間の対立が続きました。その融和に心を砕いたのが1994年に黒人初の大統領に就いたマンデラさんでした。マンデラさんは民族和解政策の一環として、この象徴的な「2つの歌」を組み合わせ、新しい国歌として制定したのでした。
そして、ラグビーもまた、多様な人種で構成される同国を1つにまとめる過程で重要な枠割を果たしてきました。
英国から輸入されたラグビーは、同国にとって「白人のスポーツ」でした。1990年代に入っても、代表の呼称である「スプリングボクス」はアパルトヘイトの象徴であり、富裕層の白人には人気でしたが、非白人はほとんど興味を示しませんでした。1995年当時の代表選手で非白人は1人のみでした。
また、アパルトヘイトに対する制裁もあり、ラグビーワールドカップの1987年第1回と1991年第2回には参加できず、ラグビーの国際舞台からは遠ざかっていました。
アパルトヘイト撤廃後にようやく国際大会へと復帰し、1995年第3回大会にラグビーワールドカップの自国開催ができました。マンデラさんはワールドカップ自国開催を前にして、スローガン「ワンチーム・ワンカントリー」を掲げ、ラグビーを忌み嫌っていた非白人に対して「我々のチームを愛してほしい」と説いて回りました。
そして、大声援に押されたスプリングボクスは自国大会で快進撃を続けていきます。予選プールは3戦全勝。決勝トーナメント一回戦はサモア代表に42-14で勝利、準決勝はフランス代表に19-14で勝利。決勝は、あらゆる人種を含む6万3千人で満員になったヨハネスブルクのエリスパーク・スタジアムで、ニュージーランド代表を15-12の延長戦で破り、初出場初優勝をなし遂げます。
背番号6のラグビージャージーをまとったマンデラさんが、同じ背番号6をつけた主将のフランソワ・ピナールさんに優勝杯を手渡す瞬間を収めた写真は、「新しい南アフリカ」の誕生を印象付けるシーンとして語り継がれています。同国にとってラグビーは「アパルトヘイトの象徴」から「人種融和の象徴」となった大会でした。
当時の同国の状況は、マンデラ役を演じた名優モーガン・フリーマンさんとピナール主将役のマット・デーモンさんが共演したクリント・イーストウッドさん監督による映画「インビクタス」に描写されています。
それから24年が経った2019年。マンデラさん、ピナールさんと同じ背番号6をまとい、試合開始前の国歌斉唱で肩を組み、目を閉じて上を向きながら、国歌を熱唱する主将FLシヤ・コリシ選手。同国ラグビー130年の歴史の中で、初の黒人主将です。
1995年の優勝をきっかけにラグビー人気は急激に高まり、スプリングボクスのメンバーに選ばれることは同国の多くの少年にとっての夢になりました。現在28歳のコリシ選手もその1人です。貧しい幼少期を過ごし、12歳で出場した試合でスカウトされ、奨学金を得ながら進学してラグビーを続けてきました。
1995年当時の様子はビデオで見たことがあるそうですが、実際にコリシ選手が「国が一つにまとまった」と体感したのは、2度目の優勝を飾った2007年だったそうです。当時16歳だったコリシ選手は「ワールドカップ優勝が国に大きな変化をもたらした。僕自身も、その興奮を見て以来、代表でプレーしたいと思う気持ちが強くなった」と強い感銘を受けました。
今では同国にとってラグビーは白人だけのスポーツではなく、人種を超えたスポーツへと広がってきました。
ラグビーの国際団体であるワールドラグビーによれば、国・地域別の競技人口(各国ラグビー協会への登録者数)は南アフリカ共和国が約63.5万人(人口5,778万人)で世界1位。2位のイングランドが約35.5万人(人口5,598万人)、3位のオーストラリアが約27.2万人(人口2,460万)と、競技人数、人口比ともに大きく引き離しています。ちなみに、日本は約10.9万人で世界11位です。
スポーツには古傷を治癒する力があると言われます。このことは南アフリカ共和国におけるラグビーの歴史を振り返れば理解できます。
12年ぶりの優勝杯奪還とともに、3回目の優勝によって、本当に南アフリカにノーサイドをもたらしたと思います。