プロ野球独立リーグのBCリーグの試合を観戦に行きますと、「MIKITO AED PROJECT」の案内が必ずあります。
BCリーグ創設に向けて準備していた2006年。野球の試合直前に心不全で急逝した当時9歳の少年(新潟県糸魚川市在住)のお母さんから「新潟のプロ野球球団を応援したいと言っていた、息子の夢を叶えてあげてください」という手紙を受け取り、それを励みにしてリーグを実現させたことから実施しているのが「MIKITO AED PROJECT」です。
夏の市内大会準決勝。試合前にランニングをしていた少年が倒れました。居合わせた救急隊員が懸命に心臓マッサージを施し、運ばれた病院では小さな体に電気ショックが流されました。お母さんが涙を浮かべ「もうやめてあげて」と医師に伝えました。
少年は3人きょうだい。お兄さんが地元の少年野球チームに入り、少年と下の妹も続きました。お兄さんは「すばしっこくて、無邪気な子だった」と話しています。身体は同学年の子どもより一回り小さかったが、自慢の俊足を生かすセカンドとして活躍していました。
生前、「新潟にもプロ野球チームがあればいいな」と願っていた少年。お母さんは、当時北信越BCリーグ開設に向け奔走していた村山哲二代表に手紙を送りました。「息子の夢をかなえてください」。目途が立っていなかったリーグの背中を強く押し、翌年の開幕につながりました。
お母さんは看護助手として働き、少年の兄と妹と3人きょうだいを育て上げました。午後5時には必ず仕事を切り上げ、子どもたちと毎日夕食を共にしていました。少年が亡くなった後、アルビレックス新潟BCの試合に頻繁に足を運んでいました。スタンドでは大声を上げて熱中しました。しかし、持病の肥大型心筋症から心不全を起こし、2013年12月に亡くなりました。
今年、10月8日に糸魚川高野球部の女子マネージャーが心不全で亡くなりました。18歳でした。彼女は同じく心不全で2006年に当時9歳の次兄、2013年にはお母さん(当時48)を亡くしていました。
9月21日。自転車で学校から下校途中で心臓発作を起こし、倒れました。市内の病院から富山大学病院に救急搬送され、集中治療室に入りました。この日は進学を希望していた松本大に推薦書を郵送する予定でした。元アルビレックス新潟BCの選手で、同大硬式野球部の清野友二監督から「ドラフト1位でほしい」と声をかけられていたそうです。
お兄さんは仕事を休み、毎日のように病室へ通いましたが、昏睡状態が続く妹に声はかけられませんでした。「どこかで覚悟はしていた。けど、こんなに早く……」。倒れてから17日後、息を引き取った。
野球部の前主将は「彼女は明るくてめちゃくちゃ元気。チームにとって欠かせないメンバーだった」と話します。夏の新潟大会ではベンチから「打て」「ここからだ」と声を張り上げ、選手を後押ししていました。亡くなったあと行われた三年生の送別試合では、写真の中で笑顔を見せ、再びベンチから見守っていました。前主将は「これからも野球に関わりたい。彼女たちのためにも――」と言います。
「母の死後、急に大人っぽくなった。自分がちゃんとしなきゃと思ったのかな」とお兄さんは、妹にお母さんの面影を感じたそうです。妹は中学二年の時に精密検査を受け、お母さんと同じ持病が見つかりました。そして野球部では選手からマネージャーに転向し、「誰かの喜ぶ顔を見るのが自分の喜び」とよく語っていたそうです。
今年6月、お兄さんは妹と、地元の美山球場で行われたアルビレックス新潟BCの試合を観戦しました。夏の高校野球新潟大会の開幕直前の時期でした。「日本文理と試合ができたらいいね」「本気で甲子園に行きたい」などと、スタンドで交わしたのが、最後になりました。
BCリーグは12月1日、3人を「お参りする会」を開き、遺族や地元の友人、BCリーグのファンが集りました。「にぎやかになってきたね」とBCリーグの村山代表がほほえみました。次々に訪れる訪問客が思い出にふけったそうです。
お兄さんは、長女(3)と次女(1)に「莉生(りみ)」「唯生(ゆき)」と名付けました。「弟とお母さんの分も生きてほしい」と「生」の字に願いを込めたそうです。「この1文字に妹の思いも加わった。元気にすくすく育ってほしい。野球もやってくれるとうれしいな」。お兄さんの顔はやわらかな笑みに包まれていたそうです。
「MIKITO AED PROJECT」は自動体外式除細動器(AED)の普及を目的としており、グッズの収益で機械を購入して寄贈しています。
また、少年の遺志を伝えたいという理由で、少年が所属していた野球チームのキャプテンが使用する背番号「10」をリーグ全球団共通の永久欠番としています。