プロ野球球団を保有する親会社にとって、最大のメリットは企業名(ブランド)の認知度が全国的に向上することです。わざわざお金をかけずに、参入時の報道合戦、そして参入後のスポーツニュースでの露出などの広告効果があり、それだけで初期投資費用の元が取れてしまうかもしれません。
そして、チームのファンが親会社の商品やサービスを購入する、例えば、福岡ソフトバンクホークスのファンがソフトバンクの携帯に乗り換える、などといった効果もあるでしょうし、球団会社単体で利益が生まれる可能性もあります。しかし、ブランディング効果に比べれば、それらは微々たる問題なんだそうです。
例えば、東北楽天ゴールデンイーグルスの親会社の楽天(株)の2004年度の営業利益は約150億円でしたが、2012年度には約722億円、2015年度には946億円へと6倍近く成長しました。またソフトバンクは、携帯電話の契約数のシェアが2004年の18.2%から23%へ拡大。いずれも、成長の萌芽期にあったサービスが球界参入をきっかけにして一気に全国区で浸透していった結果と言えます。また、そうした上り調子の企業だからこそ、球団を買うことができたとも言えます。
現座、過去も含めて球団を持っている親会社の主要な事業は、何れも大衆化されたサービスです。ソフトバンク=携帯電話、楽天=インターネットショッピングという事業が日常的に利用するサービスだからこそ、球団保有による知名度向上のということが、最大の宣伝効果があります。過去からの親会社をみても、鉄道会社(西武、阪神、阪急、南海、西鉄、国鉄)、新聞やテレビ(中日、読売、TBS、フジサンケイ)、映画(松竹、東映)、スーパー(ダイエー)など、やはり大衆サービス企業が多いことが分かると思います。
さて、戦後間もない1954年から1956年まで活動していた日本のプロ野球球団に高橋ユニオンズがあります。高橋ユニオンズが参加する直前の1953年、パ・リーグは7球団が所属していました。当然のことであるが、こうなるとどうしても1チーム試合ができなくなってしまう。そこで、当時のパ・リーグ総裁の永田雅一さんから依頼を受けた高橋龍太郎さん(昭和期の実業家、政治家。日本のビール王と呼ばれる)が、ポケットマネーで球団を作りました。それが高橋さんの球団ということで高橋ユニオンズです。
急造のため、メンバーの大部分を残りの7チームから供出してもらった選手によって結成したわけですが、使える選手が来るわけもなく、一癖も二癖もある選手たちばかりで、初代監督の浜崎真二さんが「何でポンコツや呑兵衛ばかりなんだ」と憤慨するほど、各チームが自球団では不必要と判断した選手しか集まりませんでした。まるで、マンガのような始まりです。
監督以下、選手も古手揃い、強面揃いで、打席に立つとキャッチャーに「おい若えの、イン(コース)の高めだ」などと凄み、そのとおりに投げさせるが空振りするという、これまた、野球マンガから飛び出してきたような試合っぷり。
当時は「パ・リーグのお荷物」と呼ばれた弱小球団の藤井寺球場を本拠地とした近鉄戦では、観客が22人だったことがあるそうです。両チーム合わせて選手は約50人ですから。そんなところで、ダブル・ヘッダーだったそうです。時間が長いの長くないの、ヒット打とうがなにしようが、拍手なんかなし。読売ジャイアンツの選手にあんなところで試合させてみたいと選手は言っていました。ガラガラの球場で酒瓶片手にくだをまいているおじさんの姿が目に浮かびます。3年間の観客動員数は阪神タイガース vs. 読売ジャイアンツの9試合分ともいわれたくらいです。
ただ、新人選手が1年目からいきなり全試合フルイニング出場、最多安打、ベストナインのタイトルに輝くという素晴らしい記録もありました。ちなみに、この新人選手は後にスポーツキャスターに転身する佐々木信也さんです。
「しかしぼく、入りましてね。高橋ユニオンズというのは将来もあんなに弱いチームは、日本にないだろうと思うのですがね(笑)。これでもプロかなと思いました(笑)。ぼくはキャンプへいってがく然としたですよ。内野ゴロが捕れないのですもの(笑)。これはたいへんなチームだぞ、と思った。しかし弱いけれども、あんなにチームワークのすぐれたチームは珍しいですね。負けたって負けたって、いっしょうけんめいやるわけです」
強い弱いは別物ですね。やっぱり、野球好きが集まったということです。また、この高橋ユニオンズが神奈川県をフランチャイズとした最初の球団でもあります。
1年目(1954年)
上記のような事情なので、戦力は東北楽天ゴールデンイーグルスの1年目に比べ物にならないほどの戦力であり、ヴィクトル・スタルヒンさんなどの有力選手を除けば後は訳ありで、ユニオンズに移籍された選手ばかりでした。当然、シーズンは苦戦を強いられ、開幕早々6連敗、4月中に再度6連敗。4月末から5月上旬には9連敗とボロボロの状況となります。しかし、阪急ブレーブスや大映スターズなどの得意球団をつくったことで、寄せ集め集団と揶揄されながらも、8チーム中6位。勝率.387の結果を残しました。
2年目(1955年)
トンボ鉛筆がスポンサーに加入し「トンボユニオンズ」とチーム名を一新します。しかし、開幕早々11連敗を喫して、早々に最下位争いに加わり、あまりの弱さに浜崎真二監督がシーズン途中に休養。当時35歳だった笠原和夫選手兼任監督となるも、チーム状況は好転せず、最下位が確定。また、勝率が.350(98敗)を切ってしまったため罰金500万円が球団に課さられました。この状況を重く見たトンボ鉛筆はわずか1年でスポンサーを降りてしまいます。さらに、この年に300勝を達成したスタルヒンさんは当シーズンをもって現役を引退しました。ちなみに、この年から同じく川崎球場を本拠地としていたセ・リーグの大洋ホエールズもリーグ記録の99敗を記録しています。
3年目(1956年)
チーム名を「高橋ユニオンズ」に戻して臨んだ3年目。この年は新人の佐々木信也さんが全試合に出場しベストナインに選出される活躍を見せるも、チームは浮上する機会がなく、罰金対象となる勝率.350は何とか死守するも、2年連続の最下位が確定してしまいます。
そして(1957年)
高橋球団は球団創設当初から観客動員の低迷に悩まされ、チームの創設経緯から、潤沢な経営基盤がなく、年を追うごとに資金操りが悪化していきました。その中で、昨シーズンの日程過密(全154試合)が問題視され、リーグ内でチーム数を削減する案が浮上します。
そして、春季キャンプ中だった1957年2月26日に昨シーズン7位の大映スターズと8位の高橋ユニオンズの合併が決定します。高橋球団はわずか3年でその歴史に幕を下ろすこととなりました。
チームの選手や首脳陣たちは合併先の大映の他、昨シーズンの下位球団である近鉄や東映に配分されていきます。
高橋ユニオンズと大映スターズの合併球団は二つの球団の名前を混合させ「大映ユニオンズ」という名前になりましたが、その合併球団も1958年3月10日に毎日オリオンズと合併となり、「毎日大映オリオンズ」となります。