安仁屋宗八さんは1960年代中盤から1970年代中盤にカープのエースとして活躍したピッチャーです。
安仁屋さんは終戦の1年前に沖縄県沖縄市に生まれましたが、すぐに大分県に疎開したので沖縄戦の記憶はないそうです。また、ご両親やお兄さんが戦争について語ることもなく、沖縄の人にとって思い出したくないほど、つらい経験だったのではないかと思っているそうです。
戦争について唯一聞かされたのは赤ん坊の頃、空襲に遭った家族が防空壕に逃げ込もうとした際、爆弾が落ちてきて土砂の生き埋めになってしまったそうです。赤い服を着ていて目立ったこともあり、お母さんが土を掘り起こして助けてくれたそうですが、発見時は息をしていなかったらしく、後に「おまえは一度死んだ体だ」と言われたそうです。
1962年に沖縄高校(現・沖縄尚学高校)のピッチャーとして夏の甲子園に出場しました。当時、米軍統治下だった沖縄代表は南九州大会で敗退することが多く、甲子園は遥かな道のりでした。実力で初の沖縄代表として出場することが出来た初戦は広島・広陵高校でした。
その後、社会人の琉球煙草(1963年の都市対抗に大分鉄道管理局の補強選手として出場)を経て、1964年に沖縄県出身の初のプロ野球選手としてカープに入団しました。
ただ、本土の言葉に不慣れで、人と話すのも苦手だったので、最初はプロに入りたくなかったそうです。高校の監督の強い推薦で入団しましたが、一年でやめるつもりだったそうです。
しかし、一年目から中継ぎなどで活躍し、3勝を挙げ「沖縄出身の後輩選手が出てくるまでは頑張ろう」との思いで投げ続けたそうです。特にジャイアンツキラーと呼ばれるほど、読売ジャイアンツ戦では死ぬ気で投げたのは「沖縄孝行」のためだったそうです。それは当時、テレビが10軒に1軒あるかないかという時代。また、沖縄でTV中継されていたのはジャイアンツ戦くらいで、安仁屋さんが登板する日には、沖縄では電器店の前に多くの人が集まって応援して「安仁屋が投げると、沖縄の交通量が減る」とも言われたそうです。
二年目からは先発投手の一角に定着、1966年32試合、1967年にはチーム最多の25試合に先発しましたが、チーム状況もあり、2桁勝利には届きませんでした。
それでも、1968年には根本陸夫元監督の下、シュートを武器にした強気の投球で23勝を挙げます。その後、1974年オフに阪神タイガースに移籍し、リリーフとして復活、1975年には最優秀防御率のタイトルを獲得します。1979年オフにカープに復帰。1981年に引退しました。巨人戦で通算34勝を挙げ「巨人キラー」と呼ばれた。
現在は解説、評論の仕事をしていますが、広島市民球場、マツダスタジアムには毎試合、一日も欠かさず見に行っているそうです。
安仁屋さんは広島に移り住んで約50年。
「広島も沖縄と同じく、戦争によって深い苦しみを抱えてきた街です。妻の両親も広島で被爆しました。原爆の怖さを聞くほど、現代の幸せを身にしみて感じます。こうして野球に携わることができたのも、戦後の平和があったから。5年後には東京五輪もある。平和が守られてこそスポーツができることを絶対に忘れてはいけない。今夏も広島の平和記念公園を訪れ、戦争が繰り返されないことを祈ります」
安仁屋さんは沖縄県から甲子園、都市対抗、プロ野球、すべてが沖縄県人として初出場となる沖縄野球の先駆者です。
また、沖縄から広島へと戦争で大きな被害を受けた場所にいるのも、何か定められた運命みたいなものがあるのかも知れません。
1945年8月6日午前8時15分。
広島市中心部に原爆が投下されました。あれからちょうど70年が経ちました。
昨日、8月6日のマツダスタジアムではカープの選手や監督ら全員が背番号「86」のユニフォームを着用しました。
胸には「PEACE」(平和)、背番号の上には「HIROSHIMA」の文字を入れ、帽子には平和の象徴である「白い鳩」が描かれていました。
終戦の5年後の1950年に誕生した広島カープ(現・広島東洋カープ)は復興の象徴とされ、広島の人々に勇気と希望を与え、ともに歩んできました。
安仁屋さんはスタンドのどこからか、試合を観ていたと思います。
この日が何の日なのか忘れることがないよう、歴史を継承し、次世代に引き継ぐためにと。
また、この日は100年目の高校野球の開幕日でもありました。
野球が出来る喜びを感じ、平和である嬉しさを忘れないようにするとともに、この悲劇を懸命に語り継ごうとしています。私たちはその声に耳を傾けなければならないのです。