「ナイキ史上最速」と謳われ、2018年9月にエリウド・キプチョゲ選手(ケニア)が2時間1分39秒の世界記録で走り、10月のシカゴマラソンで大迫傑選手(ナイキ・オレゴンプロジェクト)は2時間5分50秒の日本新記録を樹立して3位に入ったほか、1月2日に開催された第96回東京箱根間往復大学駅伝往路で区間賞を受賞したランナー全員が着用し、注目を集めていたのはナイキの「ズーム ヴェイパーフライ4% フライニット」。いわゆる厚底の最新モデルでした。
世界陸上連盟が、競技用シューズの底の厚さとカーボンファイバー製ソールの使用を制限する新規則を設ける方針だと海外メディアが報じられました。
新規則が定められた場合、「ナイキ(NIKE)」のヴェイパーフライシリーズの使用が禁止され、ほかにも短距離用に改善されたスパイクの着用も禁止するらしいです。
このニュースを受け、アシックスのシェア拡大につながるとの期待から、1月16日の東京株式市場でアシックスの株価が急伸し、一時、前日終値比131円(7.9%)高の1,792円まで上昇しました。終値は42円(2.5%)高の1,703円でした。
この厚底シューズの最大の特徴は、カーボンプレートを特殊な素材で挟んだ3層構造のソール。厚さは約4cm。クッション性と推進力を両立させながら軽さも追求するという、三拍子が揃っています。
私はランナーではありませんが、靴を選ぶときにはクッション性と軽さは気にします。ただ、あまりにもクッション性が良すぎると、逆にふわふわ感ありすぎて、地面をつかめない何とも言えない違和感がありますが。
それでもクッション性と軽さについては、疲れにくさにもつながります。箱根駅伝で走った選手は、「(前足部で接地する)フォアフットはふくらはぎに負担がかかるが、張りがまったくなくなり、ヒザ下の故障が少なくなった」と言い、他のメーカーを使用していた頃は靴ひもをきつく締めないとフィットせず、中足骨の疲労骨折につながっていたそうです。
一方でナイキと異なるのがニューバランスです。ナイキが新たな厚底シューズを開発するまで、トップランナー向けのシューズの開発競争は「薄さ」がポイントでした。薄底シューズは地面の反発力を得やすく、甲や中足部のフィット感を重視し、指を使って地面をしっかり蹴れる仕組みです。
ちなみに、ニューバランスは高橋尚子さんや野口みずきさんが使用しており、現在は、「HANZO V2」というタイプを神野大地選手(セルソース)らが着用しています。
何はともあれ、選手が走りやすかったら何でもいいとも思うのですが、禁止とする納得できるような説明は必要でしょう。
さて、シューズなんか不要・・・「裸足のアベベ」というマラソンランナーの名前を聞いたことのある方は多いと思います。
アベベ・ビキラさんは、エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手で、オリンピックのマラソン種目で史上初の2大会連続優勝を果たしています。また、サハラ以南のアフリカ出身者としては初のオリンピック金メダル獲得者でもあります。
今から半世紀以上前の1960年9月に開催されたローマ・オリンピック。大会1ヶ月前にローマ入りし、環境に適応するために練習を続けていました。しかし、本番まで2日前というそのとき、シューズが破損してしまいました。現地で新しい靴を買おうと思い、探すのですが自分に合うものがみつかりません。そこで、シューズを履くと重いし、裸足には慣れていることと、ローマの道は整備されており、砂利やガラス片でケガをすることはないと考え、裸足で走ることを決めます。
もともとアベベさんの出身は、エチオピアの首都アジズアベバから北東に約130kmにある標高約3000mの場所。学校にかようこともなく、自宅から約10km離れた農場へ向かい家業を手伝う少年期でした。そこで、子どもの頃から裸足で野山を駆け回っていたため、足の裏の皮は厚くなり、はだしで走ることに慣れていました。
アベベさんはスタート当初は最後方を走り、15kmを過ぎて先頭集団に入り、30kmでトップに出ると後はトップを譲ることなく、当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝します。
レース前には無名だったアベベさん。母国エチオピアのみならず、アフリカ全体も熱気に沸き立ちました。アフリカ初の金メダリストであったことと、この1960年は17のアフリカの国が独立を達成してアフリカの年と呼ばれ、アフリカ史において重要な年でもあったからです。
1961年6月に開催された日本の毎日マラソン(現;びわ湖毎日マラソン。当時は大阪府で開催)で優勝していますが、このレースの際もアベベさんは裸足で走ることを主張したそうですが、鬼塚株式会社(現;株式会社アシックス)の鬼塚喜八郎社長が「日本の道路はガラス片などが落ちていて危ない。軽いシューズを提供するから履いてくれ」と説得し、アベベさんはオニツカ製のシューズを履いて参加しています。その後もアベベさんのもとにシューズを贈り続けていました。
しかし、1964年東京オリンピックの際には、「伝説を作るのは一度で充分」と言い、ドイツのプーマ社のシューズで参加し、優勝しています。
東京オリンピック後もアベベさんはマラソンで優勝を重ね、1968年メキシコ・オリンピックでも3大会連続でエチオピアのマラソン代表に選ばれ出場しましたが、16km地点でリタイアし、これが最後のオリンピックとなりました。
その後、1969年に自動車事故により脊椎を損傷し、走るどころか、歩くことすらできなくなってしままいましたが、車椅子競技大会にアーチェリーや卓球の選手として出場し、1971年に開催された障害者スポーツ犬ぞり競技で、1位を獲得しています。
オリンピックのマラソン種目で史上初の2大会連続優勝を果たした後、アベベさんはこう語っています。
「敵は他の選手ではない。私自身だ。私は、私自身に勝利した」