野球小僧

一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。過去はもう私にとって何の意味もない / 土方歳三(新選組副長)

幕末期の新選組副長。のちに箱館五稜郭政権の陸軍奉行並。名は義豊、俳号豊玉、別称を内藤隼人。

「武士よりも、武士らしく」そして夢は、「新選組を天下一の組織にし、近藤勇(新選組局長)を大名にする」です。

1835年5月31日に武蔵国多摩郡石田村(現;東京都日野市石田)で農家の4男として生まれ、武士への憧れは強かったといわれています。お父さんは生まれる前に亡くなっており、お母さんも6歳のときに亡くなっています。奉公にも行ったようですが、すぐに喧嘩したり、騒動を起こしたりして郷里に追い返されてしまうことがあったようですが、一方で各地にある剣術道場に他流試合を挑み修行を積むというエピソードもあるようです。

24歳のときに入門した「天然理心流剣術道場・試衛館」という剣術道場で指導していた、のちの新選組局長・近藤勇さんと出会っています。ただ、自己流で修行をしていたため、入門しても目録(技量に応じて入門から切紙、目録、中極位目録、免許、指南免許、印可と進む)までしか貰っていません。しかし、実戦は何でもありの戦い方で相当に強かったといわれています。

当時、「武士になりたい」という思いはあったとしても、江戸時代には職業からの身分制度ではその希望は叶うものではありません。ですから、剣の腕を磨いたとしても、平和な時代でしたらそのまま道場生活で終わっていたと思いますが、京都で尊王攘夷(1858年に孝明天皇の許可を得ず日米修好通商条約を結んだ幕府への批判が高まり、天皇を尊ぶ「尊王」論と、外国勢力を追い払う「攘夷」論が結び付いた運動)を掲げる浪士があふれ、庄内藩郷士・清河八郎さんの提案により、1863年に尊王攘夷派の取締りと京都の治安維持のため結成された「浪士組」に参画。京都に到着後、清河さんが浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚し、浪士組は江戸に戻ることとなりました。

これに対し、京都残留し、「壬生浪士組(精忠浪士組)」を結成し、京都守護職の松平容保さんから、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任されます。そして、「八月十八日の政変(孝明天皇・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデター)」での活躍が認められて新選組が発足します。

そののち、副長・新見錦さんが切腹(諸説あり)、局長・芹沢鴨さんらが土方さんらによると見られる暗殺により、権力を握った近藤さんが局長となり、土方さんは副長の地位に就き、近藤さんの右腕として活動。1864年6月5日に京都河原町の旅館・池田屋で起こった尊王攘夷派の志士を襲撃した、有名な「池田屋事件」のときは29歳でした。

そののち、総長・山南敬助さんが脱隊して切腹となった事件では、土方さんとの対立があったとされますが、「水の北 山の南や 春の月」の句を山南さんにあてたものとし、これには土方さんの好きな「春の月」が入っていることから、山の南=山南とされて仲がよかったとする説もあります。そのあとも、隊の規律を守るために何人もを切腹あるいは斬殺させたとされることもあり、一説では新選組として取り締まった人数よりも、内部処分した人数の方が多いとされています。

1867年6月に幕臣に取り立てられますが、1867年11月9日に「大政奉還(江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜さんが政権を天皇に返上)」、1868年1月3日に「王政復古の大号令(明治天皇により発せられた明治新政府の設立を宣言)」により、江戸幕府は事実上終わりました。しかし、京都府南部で発生した「鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)」において、土方さんは1867年12月18日に近藤さんが伏見街道墨染の辺りで狙撃され(墨染事件)て、負傷したために代わりに新選組を率いて戦いますが、新政府軍に敗北します。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍が大坂から江戸へ撤退したあと、近藤さんは大久保剛、土方さんは内藤隼人と偽名を名乗り、新選組を「甲陽鎮撫隊」に改名して甲斐国(現;山梨県)に向かいますが、3月6日の「甲州勝沼の戦い」にて大敗。4月3日に新政府軍に包囲された近藤さんが投降、4月25日に処せられています。

土方さんは4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱出し、幕府軍の参謀を務め、「宇都宮城の戦い(1868年5月11日)」に勝利、宇都宮城を陥落させます。しかし、4日後(5月15日)に再戦した際に足を負傷し、会津へ護送され、約3ヶ月間の療養生活を送ります。全快して戦線に復帰したあとは、会津の防戦に参加しますが、10月6日の「母成峠(現;福島県郡山市・猪苗代町)の戦い」で会津戦争が激化し、土方さんは援軍を求め仙台藩(現;宮城県)へ向かうことを決め、ここで事実上、会津に残る隊士と、仙台へ向かう隊士たちとに新選組は分裂しました。

仙台に至り、榎本武揚さん率いる旧幕府海軍と合流した土方さんは新選組生き残り隊士らとともに、蝦夷地(現;北海道函館市)に向かいます。10月20日に上陸後、間道軍総督となり、五稜郭を占領後、松前城(現;北海道松前町松城)を陥落させます。

そして、榎本さんを総裁とする「蝦夷共和国(五稜郭が本陣)」を設立し、土方さん陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねました。

1869年5月18日、新政府軍がいよいよ蝦夷地に上陸を開始。土方さんは新政府軍の進撃に対し徹底防戦するとともに、部下を落ち着かせるため、「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ」と戦いの合間に部下たちに自ら酒を振る舞って回ったとのことです。

土方さんが死守していた二股口(現;北海道北斗市中山峠)では連戦連勝でしたが、もう一方が破られ、やむなく五稜郭へ帰還。6月20日に新政府軍の総攻撃が開始され、弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、救出のためわずかな兵を率いて出陣し、箱館港にて新政府軍艦を撃沈したのを見て、「この機失するべからず」と大喝、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告し、攻めて来る新政府軍に対して馬上で指揮を執りました。

土方さんの最期については諸説あり、乱戦の最中に腰部に銃弾を受け、落馬したとされているのが一般的です。34歳のときであり、奇しくも盟友・近藤さんと同じ享年でした。

新選組の「鬼の副長」の異名で知られる土方さん。時流が新しい時代へと変わりつつあるなかで、戦力の差を知りながら無謀ともいえる戦いを続けました。蝦夷地に渡ったときには、おそらく旧幕府軍が敗れることを、また自らの最後を悟っていたのかも知れません。また、箱館では温和で母のように皆から慕われていたそうです。

土方さん戦死する1ヶ月前に自分の小姓・市村鉄之助さんに、自らの写真や辞世の句、遺髪として髪の毛を、日野にいる新選組の後援者であった佐野彦五郎さんの元へ届けるよう託したそうです。しかし、市村さんは土方さんと最期まで運命を共にすることを涙ながらに訴えますが、まだ、16歳という若さだった市村さんの願いに対し、あえて刀で脅したそうです、。しかも、大切な愛刀の和泉守兼定を換金用の路銀として与え、戦場となる五稜郭から出させるため外国船の手配まで行っています。数ヶ月後、市村さんは佐野さんへ会うことができ、そのとき市村さんが預かっていた、手紙には、市村さんのことを頼むという旨のものであったという。

ちなみに、土方さんの西洋式の軍服を身にまとったこの写真は、このとき土方さんが市村さんに託したものです。

「鬼の副長」と呼ばれていたのは、組織をいかに効率よく強くするのかにこだわり、その役割を的確に演じていたのかもしれません。

「目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである」

「皆、自分の道をゆこう」

今日も、私のブログにお越しいただいてありがとうございます。

今日がみなさんにとって、穏やかで優しい一日になりますように。そして、今日みなさんが、ふと笑顔になる瞬間、笑顔で過ごせるときがありますように。

どうぞ、お元気お過ごしください。また、明日、ここで、お会いしましょう。

コメント一覧

まっくろくろすけ
和輪さん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

「われ 日野 佐藤に対し なにひとつ恥ずるべきことなきゆえ ご安心を」

私も、何事においても、恥ずべき人生は送っていないという生き様でいたいと思います(恥ずかしいことばかり書いていますが)。
warin2020
燃えよ剣!大好きでした。

ブログ記事のお題目の言葉も…

文中に取り上げられた言葉の1つ1つに自分なりの感慨があります。

いい記事を読ませて頂きました。

本当にありがとうございます🙇🙇😊😊
まっくろくろすけ
車正吉さん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

長文・駄文を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

私、市村鉄之助さんの話は実はあまり詳しくは存じ上げなかったのです。

今回いろいろと調べてみた結果、私的には新たな発見があり、そのことについて、いずれまとめてみたいと思っています。
まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

今日の記事は先週土曜日の朝から「今週は」土方歳三さんと決めていました。よって、ドラフトは明日です。

この時代はそれぞれに正義・大義があって、いろいろな視点で語られるので、私的には好きな時代です。

ただ、私はその時代に生まれていても、強くは生きられなかったかなと。
masakunsuki
完読させて頂きました!
土方歳三に関して、知らない事が多く、大変勉強になりました🥰何時も有難うございます。
五稜郭や京都の壬生屯所跡等は、ウォーキングで何度も訪れたことがあります。しかし、土方と絡めての認識はほとんど無かったです。次回からは、もっと目を凝らして歩きますので。
ウォーキング爺さんより
eco坊主
おはようございます。

今日はドラフト1位総括かと思っていましたのに土方歳三さんとは・・・
どこまでも読めないお方ですなぁ~(笑)

土方歳三さんは大河ドラマ”新選組!”で山本耕史さんが演じていたのを観てましたのでストーリーは大体残っています。そして現大河ドラマ”青天を衝け”でも町田啓太さんが演じていましたので面白く観ていました。尤も鬼の副長より池田屋事件~幕末の鳥羽伏見の戦い~五稜郭の戦いの方が主だったですけどね。
・・・梅の花 壱輪咲いても 梅は梅・・・


まだまだ油断はせずに感染防止対策を続けます。
そしてできる協力は続けていきます。必ず笑顔は戻ると信じて。
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