さて、昨日まで夏の全国高校野球大会の100年の歴史を振り返ってみました。
残念なことですが、昭和16年から20年までは戦争のため中断してしまっています。
しかし、実は昭和17年に大会が開催されていたそうです。
全国から参加したのは16校。
決勝戦では徳島・徳島商業が京都・平安中学を破って優勝しています。
阪神甲子園球場は連日立見席まで超満員だったそうです。
この大会は公式大会とはなっていません。
それというのも、大会主催が文部省および大日本学徒体育振興会だったからだそうです。
大会が開かれたのは昭和17年8月末から9月。この時はガダルカナル島とソロモン海域での激戦の時期。
「選手」ではなく「選士」と呼ばれ、大会の記章には突撃兵がデザインされていたそうです。
使用していたボールは純綿の糸を使ったボールがなくなり、人造絹糸やクズ糸などで芯を巻き、ほころびたボールを縫って使用していたそうです。
記録としては前年を最後に台湾予選会が終わっていましたが、この年は台湾の台北工業中の参加は決まっていました。
ただし、戦争中のことですから、甲子園どころか日本へ向かうことは非常に厳しい状況下であったことは事実です。
厳しいどころか、命がけです。
台北工は一回戦で敗退してしまいますが、帰路の海では撃沈された輸送船のボートと遭遇したりもしていたそうです。
しかも、学校側は責任回避のため、出場メンバーには「親の承諾書」が必要だったそうです。
このとき、エースで4番の武男さんと外野の控え選手だった文男さんの二人の息子を送り出すことになった菊池武文さんはこれを出し渋ったそうです。息子を二人同時に失うのは耐え難いと思ったからだそうです。
大会が無事に終わったあと。
球児の多くは野球のユニフォームから軍服に着替え、ボールから手榴弾、バットから銃に変わります。
そして、戦況の激しい中国、フィリピンまたは予科練、海兵団、特殊潜航艇の基地などへと向かっていったそうです。
文男さんは大村海軍航空隊で終戦を迎えたそうですが、お兄さんの武男さんは沖縄海域で戦死してしまったそうです。
終戦後のある日。
生き残った徳島商のメンバーと進駐してきた米軍の野球好きの試合があったそうです。
なんのこだわりもなく「野球」だから――だったそうです。
実は徳島県徳島市は戦争末期の昭和20年7月4日未明に、129機のB-29により、徳島市の約62%が焼失しています。現在でも死者数は確定していないそうですが、徳島市の発表によると死者約1,000人、ケガ人は約2,000人となっているそうです。
この空襲によって、幻の甲子園大会にて徳島商業が優勝して、もらった一枚の賞状は焼失していました。
しかし、昭和52年、当時の海部俊樹文部大臣が徳島を訪れた際に、昭和17年大会の存在と優勝を証明するものとして、徳島商業に賞状と盾を贈ったそうです。
当時、明日どころか数時間後に自分が生きていられると言う希望はあったとしても、確証することすらできなかった時代だと思います。
そんな中、本当の意味で、「この一球」「この一打」が最後になるかも知れないという、文字どおりの命がけのプレーだったと思います。