囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

歴史は知っている 14

2020年09月02日 | 雑観の森/政治・経済・社会

 

いろいろのものが流行した

死さえも流行したことがある

しかし吝嗇(りんしょく=ケチ)だけは

かつて流行したことがない

このことがおそらく流行が、

まだ存在することをやめない証明になるかもしれぬ

 

 ポール・モラン(1888~1976年) フランスの作家

 

 


我がココロのみにて ~ はやりやまいの時を生きて ~ 親の因果? 子に報う? の巻】

 


江戸のはじめ、京都・妙心寺にて。

名僧・盤珪禅師の元を訪れた一人の武士が

「私は生まれつきの短気者で

時々カンシャク玉を破裂させては

失敗を繰り返してきました。

どうしたら直りましょうか」

と訊ねた。


すると禅師は

「お前さんは妙なものを生まれつき持たしゃったものだな。

カンシャク玉とはどんなものじゃ?

ちょっと その腹の立つ物を出してごらん。

取ってあげよう」


「いや、コブのように身体に出来ているものではなく

どうかすると出てくるのです」


「では、生まれつきではない。

生まれつきなら今でも出る。

今、出ておらずに、時々出るものなら

それはお前さんが作り出す物じゃ。

それを『生まれつき』などと言って

両親に罪をきせるのは不幸者である。

全て世間一切の迷いは、みな我見から生ずるので、

自分でカンシャク玉という迷いの塊を作り出し、

それを直そうとするのは誤りじゃ。

我見も起こさず、迷いさえせねば、

何も直す手間はかからぬ」

と諭した。

 

盤珪永琢(ばんけい・ようたく、1622~93年) 江戸前期の臨済宗の僧。やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた。法名を授けられ、弟子の礼をとった者は五万人余に上ったといわれる。

 

 


人の親の心は闇にあらねども

    子を思ふ道に迷ひぬるかな

               読人不知

 

 

流行の新型コロナ渦中が続き

自分に向き合う時間が増えた

この世の迷いは他人事でない

旧態依然たる“生みの親”――

 

 



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