【食への純愛と哀感について
~ ただ喰らえばよい というものでもなかろう の巻】
このシリーズの締めは、
日常の哀歓を軽妙な筆でしたためる山口瞳。
「ポケットの穴」(1966年)収録の「食通」から
食通といわれる人々に共通するひとつのことは、
食事の際の世話好きという点である。
いろいろ助言し、口出しをする。
能書をいう。
料理屋で一緒に食事をすると、
何かにつけて便利である。
料理人にだまされるということがないので、
安心である。
しかし、
すこしうるさいな と思うことがないわけではない。
どうでもいいじゃないか と思うことがないわけではない。
この後、山口は二人の男を登場させ、
最後に嘆息するのである。(以下、要旨)
食通といわれる人の一人と中国料理を食べた話。
物凄い勢いで食を進め、皿が食卓に着かないうちに口に入れる。
「これだ!」
「うまい、これこれ」
悪びれない態度、自分を偽らない態度を健康だと思い、
(山口も)うれしくなってしまう。
一緒に食事するには、こういう男に限る、ともいう。
しかし彼は、その後の凝った料理が出てきた時には、
既に満腹になっており、箸さばきが緩慢になってしまう。
そして「しまった、しまった。ちぇっ」と呟くのである。
もう一人の食通の家に招かれスキヤキを御馳走になった話。
おそるおそる箸を出すのだが、
「おっと待った。そのへんはまだ駄目だ」
「薄味になったかな。ああ、駄目だ。砂糖をかけよう」
「おおい、醤油が切れたぞ」となり、
最後は、彼がいいところの肉を二片取ると
後は情けないような、ひねた肉ばかりが残り、
この繰り返しで、終局となる。
私(山口)はこう思う。
ほんとの食通は
食物の味をほんとうに知っていなくてはいけない。
こうも思う。
食通であるならば、
一緒に食事する人に対する心づかいが
もっとあってしかるできではなかろうか。
◇
味わう、味をめぐる、作る――。
食を巡るエッセイは多い。
TVも連日どこかの局で流している。
だが「食とその周辺」こそ、これほどまでに主観的で
受け手に伝わらない感覚もないのではあるまいか。
食べものへの愛ほど真剣な愛はない バーナード・ショー