【善政とは何ぞや 失政とは何ぞや
~ 歴史を紐解いて想うこと の巻】
平安朝の名君として聞こえた醍醐天皇は
臣下がどのようなことを申し上げても
その言葉が終わるまで、静かにお聞きになっていた。
そして常にいわれたことは、次のようなものだった。
「世の中で地位の高いところにいるものが、
ただ威厳のみを重んずるときは
他人にすこぶる窮屈の心を起こさせ
そのために要領さえ述べることができなくなるから
よくよく心して、しもじもの者にも
うちくつろぐようにさせねばならない」
全て人の上に立つ者の心掛くべきことは
どのような人でも安心して話せるようにし
たとえ取るに足らぬツマラないと思えるものでも
よく聞いてから是非(よしあし)の判断を下す。
これが肝要である。
「よこうをわかつ」とは、あまりの光を分けること、
つまり人に恩恵を施すという意味である。
「史記」のなかにある由来となる話ーー。
ある貧しい女が富んだ女と出会った。
貧しい女はこう言った。
「わたしはローソクを買うこともできません。
あなたのローソクは幸いまだ残りがありますが
それをくださいませんか、
そうすればあなたを損させず、
わたしも大いに助かります」
余光とは、政治の別名であろう。
◇
権力者たちが思い上がって
自分たちを特別扱いした「勝負の3週間」。
これは因果律と考えてもよいではあるまいか。
大変な事態に発展してきた。
醍醐天皇(885~930年) 「雪が降り積もって寒さが一段と厳しい夜に、諸国の民はいかに寒からんとて御衣を脱す」(大鏡)で知られる。民の上を偲ばれた天皇は、疾病や天候不順のときは、大赦したり、税を免じたりした。収穫不良に当たっては、民の負担を減らすために重陽の節(9月9日)を何度も中止した。また旱魃では、民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、水がなくなると神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなった。鴨川の洪水があれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出し、その年貢や労役を免除した。律令制の基本法である延喜格式、国史「日本三代実録」や「古今和歌集」の完成など、天皇自らが指揮を執って政治・文化の振興に努めた。天皇の治世は、後世に理想の時代と称賛された。一方、菅原道真の追放については「聖代の瑕」とされた。
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