【はやりやまいのネーミングの変遷
~ 風邪か、流行性感冒か、それが問題か? の巻】
お江戸の人たちは、風邪のことを
疫病(はやりやまい)に入れ
流行するたびに呼び名を付けたものである。
江戸中期の1766年春に流行した風邪については
「半日閑話」に、こうある。
「道中雲助ならびに火消、
屋敷抱えの鳶(とび)、
ことごとく死す、
名づけて雲助風といふ」
◇
1776年には お駒風邪というのが流行った。
これは何でも、お駒という女のことを
義太夫節にしたのが流行した時だったので、
このように名付けたものだった。
◇
1781年には谷風邪というのが流行した。
超有名人、谷風梶之助が豪語して
「俺を土俵の上で倒すことは誰にも出来ない。
俺の臥(ね)たのを見たければ、
風邪でもひいて寝ている時に来るがよい」
と、えらい自慢をしていた。
その本人が風邪をひいて寝込んでしまった。
人々は面白がって早速付けたのが
このダジャレであった。
蜀山人・太田南畝は
「風神を送る」という狂詩をものにして
「ひくならく此の風は谷風と号す。
関々たる痰咳は西東に響く、
悪寒発熱して人に色無く、
煎様は常の如くなれども藪に功あり、
一片の生姜を酒に和して飲み
半丁の豆腐は湯に入りて空し、
君を送らん四里四方の外、
千寿品川問屋の中」
と詠じた。
寝床の英雄も、苦笑していたのだろうか。
◇
寛政年間(1789~1801年)には
お世話風邪が大流行した。
当時のはやりことばに
「これは大きなお世話、茶でもあがれ」
というのがあったためである
◇
1904年ごろには、
八百屋お七の歌が流行した時に、
お七風邪というのがあり、
その後に「ねんねんころころねんねんよ」
の子守歌が流行り、
ネンコロ風邪が全国に広がった。
◇
そうこうするうち明治の第一次大戦の頃、
あのスペイン風邪が世界を震撼させた。
これを最後に「〇〇風邪」とは呼ばなくなり、
「流行性感冒」と言い換えられるようになった。
◇
2020年の新型コロナウイルスの場合—―。
「新型」という文言が
恐怖を駆り立て、警戒が過熱し、
また一方で「強がりの楽観論」も起きた。
大波小波を繰り返しているが、
願いはひとつ、早期収束である。
牛歩の如くに確かな前進を、と祈りたい。
鬼狩りへの道、一筋の光明が差す日を
地に足を付けて待ちたいものである。
谷風梶之助 (1750~95年) 大相撲屈指の伝説的強豪で、力量・人格・人気と三拍子そろった横綱のなかの横綱。陸奥国宮城郡霞目村(現在の仙台市若林区)出身。推定身長190㌢、体重160㌔。伊勢ノ海部屋。258勝14敗16分。江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、35連勝で現役のまま没した。享年44。