【コンケイ熱筆「囲碁専門棋士の実態」――「硝子細工の天才」へのオマージュの項の巻】
■最後は、文壇碁界最強の座を争った近藤啓太郎(1920~2002年)と江崎誠致(1922~2001年)の逸話。
昭和50年「第三十期本因坊戦」が舞台である。
■「大正組の巻き返し」がなるか、が焦点だった。
これも歴史の転換点の一つである。
復調著しく、久々に大舞台に姿を現した「大坂田」こと坂田栄男。
本因坊4期で、世代交代の先頭を走る石田芳夫に挑戦する。
下馬評は、坂田の方が石田よりも芸も経験も上だ、との声が大勢であった。
七番勝負は、坂田が先行する。
3勝1敗で迎えた第5局。
石田を投了寸前まで追い詰めたところで、坂田痛恨のポカが出てしまう。
まさかの大逆転である。
この一手がシリーズの流れを変えた。
坂田は立ち直ることができず、ズルズルと連敗して3勝4敗。
この一手がシリーズの流れを変えた。
坂田は立ち直ることができず、ズルズルと連敗して3勝4敗。
手中にしかかった「本因坊復位」が一瞬で、こぼれ落ちた。
私たち素人でも間違えようのないところを、
坂田はとんだポカを打ってしまった。
秒読みにおわれていたのならばともかく、
秒読みにおわれていたのならばともかく、
時間はまだ二十数分もあった。
魔が差したとしか言いようのないポカである。
魔が差したとしか言いようのないポカである。
私(コンケイ)が坂田に電話をかけて訊いてみると、
次のような返事であった。
そのとき、突然、江崎誠致が対局室に入ってきた。
江崎が観戦に来ているとは全く知らなかったので、
江崎が観戦に来ているとは全く知らなかったので、
(坂田は)軽いショックを受けた。
ほんの軽いショック。
「おや」と思った程度のことであるが、その時に大ポカを打ってしまった。
秒読みに追われていれば、江崎が入ってきたことにも気が付かず、かえって間違えなかっただろう。
時間があったことで、瞬間、集中力を失ったに違いない。
時間があったことで、瞬間、集中力を失ったに違いない。
江崎は自分(坂田)が勝つところを見たくて入ってきたのであろうが、ひいきの引き倒しのような形になってしまった。
「ひどいよ、ひどいよ」
と坂田は最後に訴えるように私(コンケイ)に言った。
「あんな時に、江崎さんが入ってくるなんて、ひどいや。いや、江崎さんが悪いんじゃないんだ。江崎さんを入れた関係者が悪いんだよ。2日目は観戦者を入れちゃあいけない規則なんだからね。ひどいや、ひどいや」
「そうかなあ?……だって、あんたが名人戦で藤沢(秀行)に挑戦したとき、オレたちも入れてもらって、最後までずっと見ていたけどね」
「そうだったかな。でも江崎さんが急に入ってくるなんて、ひどいよ」
■この後、
「いつまでも気にするな」
「きれいさっぱり忘れよ」
とコンケイがなだめる。
だが、坂田はボヤキを止めないのである。
■コンケイは「坂田ほど、虚弱な精神というか、傷つきやすい精神も珍しい」といい、
萩原朔太郎の「天才の鬼哭」というエッセイを思い出していた。
天才は特別出来の人間であり、
その取扱ひにも微妙な注意を要するところの、
脆く傷つき易い器物(うつわ)である。
生まれたる概ねの天才は、親たちの不注意や環境の不適からして、
傷々(いたいた)しく傷つけられ、何も知らない子供の中に死んでしまう。
真の天才は空しく死に、地下で鬼のやうに歔欷(きょき)している!
◇
■コンケイは奇書「勝負師一代」を、こう結んだ。
坂田の虚弱な神経は、天才のものかも知れない。
と同時に坂田は体力、精神力共に虚弱でありながら、年間28勝2敗、
本因坊戦17連勝という空前絶後の偉業を成し遂げている点、
芸の天才を証拠立てるものと言えよう。
後世、坂田は史上最高の天才棋士として評価されるであろう。
そしてまた、『勝負師一代』という言葉が、
何か坂田ほど似合う棋士も他にないように思われるのである。
「勝負師一代」 昭和50年10月1日 脱稿
坂田栄男(さかた・えいお、1920~2010年) 本因坊戦7連覇で「本因坊栄寿」と号し「二十三世本因坊」になる。実力制初の名人本因坊。7大タイトル制覇、タイトル獲得64回など。呉清源と並び称される昭和最強棋士。勝負所で鬼手・妙手を放ち、切れ味の鋭いシノギで「カミソリ坂田」の異名を得た。1978~86年、日本棋院理事長。
(おしまい)