和を以て貴しとなす (十七条憲法の第一条)ーー
【「説明せず」「根拠示さず」の恐怖政治
~ 権力を握れば何でもできる? ~ 存在の耐えられない軽さ の巻】
わたしは小学男子だった頃
「あだ名」を付ける名人のひとりだった。
高校、大学に行くと上手がごろごろいて
名人の称号?を返納せざるを得なかった。
というより、その頃は“卒業”していた。
大学生にもなって子どもの残酷さを失わないのも
それはそれでビミョー、と思い始めていた。
だが、社会に出ても、名人の技を失わない者がいて
ときにはミョーに心底感心することもあった。
「ふろしき」というニックネームを与えられた大学同級女子がいた。
“顔面偏差値”のさほど高くないというだけで、残酷なことに
「包んでおけ」という意味である。
むろん、本人には誰も告げていないから、不知だったのではないか。
彼女は、わたしの悪友と付き合い始めた。
ちょっと変わっているけれど、かわいらしいヒト。
最後まで、その事を彼女は知らず、卒業したのだろうか。
小学生並みのノリだったが、ひどいことをしたものだ。
◇
江戸の三大改革の最後「天保の改革」は
小説などで取り上げられることが多い。
登場人物のなかで出色なのが
悪役の鳥居耀蔵である。
あだ名は、蝮(マムシ)の耀蔵。
さらに酷くなり、名前の一字「よう」をもじり「妖怪」。
市中取締りの苛烈なことから、改革の役に立つ、と重用された。
政敵や、そりのあわない者に対する敵意・憎悪は凄まじく、
阿部正弘や遠山景元(遠山の金さん)などは、その被害者。
邪魔者を陰険な手段で追い払った。やがて失脚した。
幕臣の勝海舟は、人物評を書き残している。
「残忍酷薄甚しく、
各官員の怨府となれりといへども、
その豪邁果断信じて疑わず、
身をなげうつてかへりみる事なく、
後、罪せられて囹圄にある事ほとんど三十年、
悔ゆる色なく、老いて益勇。
八万子弟中多くかくのごとき人を見ず。
亦一丈夫と謂うべき者か」
自己の信じることのみに固執し、他の言に耳を貸さない。
敵は多かったが、その才覚を評価する者もいた。
今は「悪役」としてのみ、正史に名を刻んでいる。
◇
日米の権力劇を見ていて、ふと思い出した。
我執にこだわるあまり、他人の言に耳を傾けることなく
修正を受け入れず、負けを認めず。
そうしたとき、老は、害といわれる。
鳥居耀蔵(寛政8~明治6年) 幕末の旗本。老中・水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直、後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)と共に水野の三羽烏と呼ばれる。苛烈な取締り、おとり捜査を駆使した権謀術策に長け、市中で忌み嫌われた。 北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的だったため、策を弄して閑職に追いやった。改革が失敗して鳥居も失脚し、軟禁の身となった。