1.はじめに
無駄・無理・無茶の大阪「都」構想
2015年5月17日、大阪「都」構想は、住民投票にかけられ、否決されたのに、維新グループは、再び大阪「都」構想の住民投票を執拗に企んでいる。
民主党政権時代に民主党が音頭を取って議員立法で成立した大都市法の欠陥を逆手に無駄(前回住民投票経費32億円。初期コストetc.)、無理(総合区と抱き合わせの法定協議会!!)、無茶(4区に合区でニアイズベター?)
特別区を「基礎自治機能」(大阪市発行パンフレットより)の言い回しに惑わされることなく、「基礎自治体優先の原則」に思いを馳せて、偶然に、古本市で見つけた東京市役所が昭和2年(1927)10月1日の第29回自治記念日公刊とする「東京市政」(右写真:B6判 本文77頁)から読み取りつつ、「都」制の原点、「区」制のそもそもとして、まとめてみました。
(※)基礎自治体優先の原則:第 27 次地方制度調査会の答申(「今後の地方自治制度のあり方に関する答申」2003 年 11 月 13 日)において、改めて「基礎自治体優先の原則」が再確認され、広域自治体と基礎自治体の役割分担において、基礎自治体に事務事業を優先的に配分する補完性・近接性の原理に基づく地方自治制度の基本原則。
2.「都」制の原点
東京市での「特例市制」撤廃と「特別都制」制定の取り組み
基礎自治体であり、政令市の大阪市を解体するだけなのに、大阪「都」構想と喧伝されているが、決して、大阪都と名乗ることはできない。
東京一極集中の是正とか、副首都大阪とか打ち上げられ、東京都を意識しての「都」構想なのであろうが、現在の「都」制の問題もさることながら、その「都」制の誕生に興味深いものがある。
明治維新から、朝令暮改の地方制度にあって、明治初年9府あったのが、明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年(1871)の廃藩置県を経て、6府が県に改められ、東京、京都、大阪の三府となり、その区域が拡大(膨張)推移する中で、明治21年(1888)4月17日、市制・町村制が公布(施行は翌年4月1日)。憲法制定(明治22年2月1日公布)・帝国議会開設(明治23年11月29日)を前提とした本格的な地方制度が創設され、翌年4月以降、各地方の状況に応じて施行することとされました。市制は、人口25,000人以上の市街地に適用される。
市制施行の直前の明治22年(1889)3月23日に、政府は「東京、京都、大阪の三市は吾が国における代表的都市なれば他と同一視せず、~特殊の市制をもって臨むを至当なりとし、市民多年の要望を退けて~自治の本義にもとる特例を制定し」(=特例市制)即ち「市長の職務は府知事、助役の職務は府書記官が兼ねる」ことになり、「新市制の規定により新たに市会及び区会は成立したといえども、不具的自治制」(①5p)だと、「市制特例の撤廃」が、東京市(京都市大阪市とも)において起こり、明治31年9月30日市制特例が廃止され、翌10月1日「東京市が府知事の管轄を脱し、いよいよ独立せる自治体として政治的新生命を開拓した記念の日である」(①6p)と国体の「統治」と共同体の「自治」とのドラマを感じる。
ところで、「都」制のことですが、東京府でなく、東京市にその原点があったのです。
「吾が国における代表的都市なれば他と同一視せず」の東京市では「特例市制」の撤廃と、並行して「国都として、東京市は、当然その地位を保証するに足る特別なる待遇を与えらるべき」(①8p)と東京市の「特別都制」の制定運動が展開されていたのであるが、「明治31年(1898)に三市の特例(市制)が廃止されてからは、(1)東京市に関する法律案(2)『東京市制』案(3)『東京都制』案が繰り返し提出され、議論を重ねますが、すべて否決や未決に終わり、成立には至りませんでした。」(②28p)
そして、昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争突入し、「政府の戦時施策をスムーズに遂行するため、地方統制の一環として、昭和18年(1943)6月1日、東京市と東京府は廃止され、国の組織下にある東京都(官選の長官が統轄する「帝都として大東亜建設の本拠」として)が新設されます。」(②38p)
昭和20年(1945)8月15日、ポツダム宣言の受託、無条件降伏し、連合国軍GHQによる、日本の間接統治を開始します。政府と帝国議会は、新しい日本国憲法の審議と並行しながら、ポツダム宣言受託の精神に則った「東京都制」「府県制」「市制」「町村制」の四つの法律(地方制度4法)の全面改正(「都道府県制」、知事・区長の公選など)を行い、新憲法制定(昭和21年11月3日公布・翌年5月3日施行)に先立って昭和21年(1946)9月27日、一斉に公布(10月5日施行)します。(②44p~)
現在の東京都は「東京都制」ではなく、地方自治法に基づいている。いわゆる東京都制は地方自治法(昭和22年法律第67号)附則第2条により、1947年5月3日の日本国憲法施行に伴い、同日廃止され、特別区の存在を除いて、同法上は他の道府県との違いはない。
東京市の都制が適えられていれば、「CTIY OF TOKYO」(IOC発表の2020年オリ・パラ開催都市名)として、そして、首都東京の都市格の形成も期待されたのではないでしょうか。大阪「都」構想には、地方自治・地方分権の先駆たる気概はなく、東京都とのあるいは大阪市との山賊分け(山分け)論でしかないのではないだろうか。
3.「区」制のそもそも
イヤな都制(渡世)の区制モノ(曲者)に
「江戸(御府内)の範囲は「朱引」と呼ばれる境界線で示されていた。東京府は、この朱引を用いて、新たに市街地と村落地を区分し、明治2年(1869)3月、朱引内・市街地に当たる982町を一番組から五十番組までの五十区に、朱引の外側にある村落地の190町89村一番組から五番組までの五区に再編した」(②13p)と区の発端としています。
大阪市街地は、江戸時代、北組、南組、天満組のいわゆる大坂三郷であるが、明治2年に三郷の制が廃止され、新たに東大組、西大組、南大組及び北大組がもうけられた。
その後、明治4年4月、戸籍法が公布され、全国に戸籍事務処理の区画としての「区(戸籍区)」が設けられ、それが普通行政区域的なものへ転化し、他方、区の規模は全国各地一様でなく、府県によっては、大小の区別を設けるところもあったので、明治5年(1872)10月制度上明確に大区、小区が設けられることとなり、その結果、大阪府においても明治8年(1875)に、大区小区制がとられ、従来の東、南、西、北の各大組はそれぞれ第1~4大区に改められ、各大工は14ないし23の小区に分けられ、大区に区長、小区に区長(明治9年5月に廃止)及び戸長が置かれた。
そして、明治11年(1878)7月22日の「郡区町村編成法」(※)が交付され、大阪府では、翌12年、「区画名称の改正」で、第1~4大区が東区、南区、西区、北区としての区制が敷かれ(⑤3p)、この4区による大阪市制(人口:47万人/面積:15.27k㎡)が明治22年4月1日施行(市制特例)され、今日の政令市24行政区(人口:272万人/面積:225.21k㎡)に至る。
東京都の特別区は、昭和16年(1941)12月にはじまった太平洋戦争は、早くも本土決戦を視野に入れた臨戦体制に移行が余儀なくされ、政府は、戦時施策をスムーズに遂行するため、「市制」「町村制」「府県制」の三つの法律を改正し地方統制を進め、その一環として、昭和18年(1943)6月1日、新たに「東京都制」を制定し、東京市と東京府は廃止され国の組織下にある東京都が新設されます。
新たに誕生した東京都では、旧東京市の35区と市町村も都の内部行政組織と位置付け、35区については、従来の区域と名称を引き継ぎ、官選の区長、公選の区議会をおく、「都の区」の時代がはじまる。(②37p~39p)
そして敗戦による新憲法制定(昭和21年11月3日公布・翌年5月3日施行)に先立って昭和21年(1946)9月27日、一斉に公布(10月5日施行)した地方制度4法改正(のちに第一次地方制度改革と言われる)も、新憲法と同時施行の「地方自治法」(昭和22年4月17日公布・5月3日施行)により、地方制度4法は廃止されるが、都制は、地方自治法にも引き継がれ、「都の区は、これを特別区という(§281)」との規定とともに「特別区」が誕生し、現在まで続いています。(③18p)
つまり、敗戦から地方制度4法の改正、地方自治法の制定の過程のこの折に、35区が22区(後に板橋区から練馬区が分離して23区)に再編成されるが、これらを基礎自治体としての市制、乃至はあらためて「東京市」がなぜ形成されなかったのでしょうか?
三 府 東京15区、京都2区(上京・下京)、大阪4区(東・西・南・北)
五 港 横浜区 神戸区 長崎区 函館区 新潟区
人民輻
輳の地 伏見区 堺区 名古屋区 金沢区 広島区 仙台区 岡山区
赤間関区 和歌山区 福岡区 熊本区 札幌区
爾来、今日に至る七十数余年も、特別区は、普通地方公共団体の基礎自治体でなく、特別地方公共団体の基礎的地方公共団体と位置づけられ、基礎『的』自治体とのボカシ表現の言い回しであるがため、都の区において「自治権拡充」の闘いが延々と続いていることになる。
(※)明治11年(1878)7月22日の「郡区町村編成法」で、区の設置は、
「三府五港その他人民輻輳の地」とされ、三府は複数区を置いた。(③10p)
4.大阪「都」構想、百害あって一利なし
「特別区」とは禁治産自治体である
東京都の特別区も、大阪「都」構想の特別区も、「基礎自治体」では基よりなく、基礎「的」自治体というボカシ表現でなく、平成12年(2000)民法の改正とともに廃止された「禁治産(※)」自治体と明確に言える。
そもそも「都」制も、首都の基礎自治体として東京市が名乗ってこそ、大いに意義があるところであり、「区」制も元より「解放区」のイメージもなく、基礎自治体としての位置づけもなく、「戸籍区」から始まって、今に至っては、「特別区」のほか、「財産区」「行政区」「総合区」「地域自治区」「合併特例区」そして「戦略特区」と「区」の乱用状態である。
基礎自治体であり、政令市の大阪市を廃止・解体することなのに、大阪「都」構想を嘯(うそぶ)き、「行政区」が「特別区」に格上げするがごときのミスリードして、3年前、「特別区」に賛成か反対かの投票が仕組まれました。
辛うじて、否決を勝ち取ったのですが、今また、「行政区」か「特別区」か「総合区」かとの選択を迫る形で、大阪市を廃止・解体して、大阪府の「特別区」にされようとしています。ここにあらためて、「特別区」の悪性(制)の数々を挙げてみました。
一般法(地自法)と特例法(大都市法)の一国二制度の「特別区」
廃置分合も旧市に戻れず、新市も創れない「特別区」
政令市の人口規模を有するに、政令市になれない「特別区」
中核市並云々も、公選の区長が「中核市市長会」のお呼びがない「特別区」
都市計画権限、固定資産税源を失い「まちづくり」が機能しない「特別区」
(※) 禁治産:事理を弁識する能力を欠く常況、おおむね正常な判断能力を欠く状態。法律上自分で財産を管理・処理できないものとして、後見をつけること。また、その制度。
5.おわりに
大阪市の廃止・解体は許さない
去る5月に、東京都の区議会議員を講師に「都」構想の学習会があった折、フロアーからの発言の「市『区』町村」云々を受けて、その区議は、当該区民には「『区』市町村」との思いのあるのを披露し、特別区をぼかし表現の基礎[的]自治体とは語るも、都の特別区は、平成10年の地方自治法改正で『基礎的な地方公共団体』と位置付けられたが、普通地方公共団体の基礎自治体でなく、村に及ばない「市町村『区』」との本質を突いた言及がなかったのに残念な思いをした。
数次にわたる地方制度調査会において、提起されている「基礎自治体優先の原則」に言うところの、基礎自治体の範疇にない「特別区」に大阪市を廃止・解体し、陥れようとする維新グループの企みは、橋下大阪府政の失敗を大阪市の税財源で取り繕わんがためであることは明白である。
この秋(平成30年)の住民投票は断念したが、しかし、不毛な議論が続くことは間違いない。「基礎自治体優先の原則」を旗印に、大阪の都市格を再生発展させよう!
〈参考文献〉
① 東京市政:昭和2年(1927)10月1日 東京市役所
② 東京23区のなりたち:平成29年(2017)2月 公益財団法人特別区協議会
③ 東京23区のおいたち:平成29年2月 第6版 公益財団法人特別区協議会
④ 大阪市政九十年の歩み:昭和54年(1979)7月1日 大阪市
⑤ 新北区・中央区の発足:平成2年(1990)2月 大阪市
⑥ ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%88%B6
地方自治法
第一条の三
1. 地方公共団体は、普通地方公共団体及び特別地方公共団体とする。
2. 普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。
3. 特別地方公共団体は、特別区、(以下略)
第二条
1. (略)
2. (略)
3. 市町村は、基礎的な地方公共団体として、(以下略)
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