阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 「真珠湾空襲」 特殊潜航艇の御英霊を無視する理由は?

2025年02月27日 02時07分40秒 | 日記
 真珠湾での特殊潜航艇による攻撃で散華された御英霊を黙殺する理由は何ですか?

 2月度例祭の再配信を見ていたら、また、頭を抱えてしまう事柄に出くわしてしまいました。
 
 ここ暫く、ずっと続いている特別解脱供養なのですが(悪い事ではないですが、大概にして欲しいです。我々会員の財布は打ち出の小槌ではありません)、今回は全部で11体で、「真珠湾空襲」による米国人犠牲者の解脱供養が含まれています。
 御供養自体は結構なことなのですが、何で「真珠湾空襲」犠牲者の御供養というおかしな限定の仕方をしたのでしょうか?
 ご存じの通り、普通は「真珠湾攻撃」と呼ばれている日本軍のハワイ真珠湾への奇襲攻撃では、航空兵力による爆撃等と特殊潜航艇による海中からの魚雷攻撃が平行して試みられました。真珠湾に向かった5隻の特殊潜航艇は戦果を挙げられないまま全て帰還する事ができず、乗員10名のうち9名が死亡し、彼らは新聞などで「九軍神」として大々的に讃えられ其の名は全国に轟きました。(1名は生存しており対米英戦における日本人捕虜第1号となっています。) 
 宗務局は何故わざわざ「真珠湾空襲」という殆ど聞いたことの無い表現を敢えて使い「九軍神」+生存者1名の存在を意図的に排除したのでしょうか?
 確かに特殊潜航艇部隊が何の戦果も挙げられなかったのは事実で、彼らの攻撃による米国人犠牲者は居ません。「空襲」だろうが「攻撃」だろうが結果としては同じことです。しかし、「九軍神」+生存者1名の存在をまるで無かったかのように語るというのは彼ら御英霊に対する侮辱と言うしかありません。私の貧しいオツムでは、真っ当な理由が全く思いつきません。

 それに「真珠湾空襲犠牲者」と言ってしまったら、別の問題が生じるのです。真珠湾に於ける「空襲」で亡くなった女性は、恐らく、全く存在しないからです。「真珠湾空襲犠牲者之霊位 米国人女性戒名」がさがっていますけど(笑)。
 真珠湾攻撃時に犠牲になった女性は存在しています。日本軍航空機を狙った米沿岸警備隊等の砲撃が民間家屋等に落ちて女性・子供を含む多くの民間人が死亡しています。
 ですが、事前の諜報活動のミスによる誤爆は有ったものの軍艦や軍事施設のみを攻撃目標としていた日本軍による「空襲」の女性犠牲者は多分居ません。ほぼ間違いなくゼロです。もしも居たなら、“日本軍による卑怯な騙し討ちによって亡くなった悲劇の女性”として米国のプロパガンダに利用され一躍有名人になっていたはずです。
 「いや、『真珠湾空襲犠牲者』には友軍の流れ弾で死亡した民間人女性も含まれる」とでも言う気でしょうか。
 だとしたら最初から普通に「真珠湾攻撃」と言えば良いのです。日本軍によるハワイ真珠湾に対する奇襲攻撃により生じた事象全てを指すと理解され得る一般的な「真珠湾攻撃」であれば、常識的な感覚の持ち主であるなら、日本軍を狙ったアメリカ側の砲撃で死亡した人々も其の犠牲者に加えるのが普通です。"友軍砲撃の流れ弾で死亡した人は「真珠湾攻撃犠牲者」に含まれない”などと言ったら却って屁理屈と受けとめられるでしょう。
 ですが、誰に頼まれたわけでもなく自ら一般的でない「真珠湾空襲」なる独自の言葉を使ったら、文字通りに「空襲」其のものによる犠牲者のみを指すと考えるしかありません。

 話を戻します。
 宗務局が冷たい海中で散華された「九軍神」+生存者1名をわざわざ無視した理由は何なのでしょうか? 
 確かに何の戦果も挙げられなかったわけですが、存在しなかったかのように扱うというのは彼らに対する侮辱です。
 理由の如何に関わらず、そんな姿勢で、「護国ノ御英霊の御供養がどうのこうの」と言う資格は無いのでは有りませんか。


 ここまで書いて、もう飽きてきました。もう、よします。以上の文章は大人気ない言いがかりですね(笑)。

 単に宗務局は知らなかっただけなのでしょう。特殊潜航艇部隊のことも、「九軍神」のことも。
 そして、何あぁ~んと無く、本当に、何あぁ~んと無く、「真珠湾空襲」と言ってしまい、それをチェックすべき立場の人々も其の問題点に全然気付かなかった。ただ、それだけなんでしょう。
 宗務局は「〇〇犠牲者の解脱供養をするんだ!」と我々会員に呼びかけご供養を勧めながら、その〇〇について基本的な知識も無くロクに調べてもいないということなんですね。
 本当に心から〇〇犠牲者の御供養をしようという気持ちでやっているのか?と疑われかねません。
 "「九軍神」+生存者1名を意図的に黙殺"というのより、こっちの方がよほど問題かもしれません。

 それは、宗務局や阿含宗からドンドン人が離れ寄り付かなくなるはずです。


阿含宗 第52 回阿含の星まつり特別番組

2025年02月13日 14時22分12秒 | 日記
第52 回阿含の星まつり特別番組
令和7年2月9日(日)13時配信開始
※1ヶ月間再配信

阿含宗 本年2025年令和7年の星まつりは2月9日(日)です。

2025年02月04日 23時20分11秒 | 日記
 本年2025年令和7年の『阿含の星まつり』は2月9日(日)開催です。
 以前は建国記念の日2月11日(祝)固定でしたが、現在は2月の第一日曜日または第二日曜日となっております。お間違えのないように。 
 以前と違い、京都駅からのシャトルバスは五条広場ではなく総本殿近くに停車しますので、結界へは平坦な舗装された道路を歩いて頂くこととなり、参拝はずっと楽になりました。また会場内を循環する車両を無料でご利用できます。
 是非、御参拝ください。

 

阿含宗 ウソ話「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」

2024年09月13日 20時22分26秒 | 日記
 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。

 阿含宗とはあまり関係無い話が続き恐縮ですが、ついでなので、会津若松での大柴燈護摩供の行満後に少しだけ触れた4つ目のウソについて改めて書こうと思います。

 「新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた」という話はウソです。
 
 1966年昭和41年に会津若松市が刊行した『会津若松市史』の中では、遺体埋葬禁止令の存在を疑問視しています。その上で、同市史第七巻『会津の幕末維新―京都守護職から会津戦争―』の69頁にある前田宣裕氏のコラム「埋葬」には次のように記されています。
一説によると「彼我ノ戦死者ニ対シテ何等ノ処置ヲモ為ス可カラズ」との官命が下っていた、という。事実とすればこれは敗者への差別ではなく、死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる。
 遺体埋葬禁止令が存在したとする根拠として「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀ノ由來」という文章が挙げられることがあります。これは会津兵遺体埋葬に尽力した町野主水という人物が後日談として石川寅次という人に語り、町野の没後に高野磐美という人が石川から聞き書きして出来たものです。『会津史談会誌第三三号』(昭和32年刊行)という書籍に掲載されており、前野氏の言う「一説」とは其の中の一文を指します。次のような文章です。
「時ニ官命ハ彼我ノ戰死者一切ニ對シテ決シテ何等ノ處置ヲモ為ス可カラズ 若シ之レヲ敢テ為ス者アレバ嚴罰スト云フニテアリキ」
 つまり、「彼我」即ち新政府軍・会津軍双方の戦死者全てに対して決して何もしてはならないという官命があった、と言ってるわけです。前野氏は「事実とすれば(中略)死者の身元を確認するまでの一時的な措置と思われる」と語っていますが、他にも、埋葬が可能になるまで遺体からの略奪行為を防止するという理由も考えられます。実際にそういう遺体が多くあったように、装備や衣服を剥ぎ取られたら、身元確認も困難になります。
 “遺体埋葬禁止令の存在は疑問だが、仮に事実だとしても、其れは新政府軍・会津軍双方の戦死者を対象としたもので、合理的理由が有る一時的なものだ”というのが会津若松市の公式見解と言っても良いのです。 
 もう、これで充分でしょう。
 実際には様々な事情で埋葬されないまま長期間放置される事になった気の毒な会津軍戦死者も多いのですが、新政府が会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という訳ではないのです。
 元々は昭和30年代初頭に世に出た又聞きの根拠薄弱な話に過ぎないのですが、会津観光史観というか、私に言わせれば「会津被害者史観」の人達が、“会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じられた”というふうに歪めて繰り返し強硬に言い張り世間に広まったというわけです。
 会津士魂会という所が1966年昭和41年に『戦死之墓所麁絵図(せんしのぼしょそえず。または、…あらえず)・改葬方』復刻版という書籍を出しています。これは改葬方という所が明治二年七月付で作成した原本を活字化した資料なのですが、原本には無い「まえがき」が添えられており其の中に次のように書かれています。「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した。しかるに月日の経過と共に遺体は腐食して悪臭を放ち、野犬狐狸の餌となり、その惨状見るに忍びざるにいたった。」
 この資料は埋葬ではなく「改葬」の記録です。若松城降伏から間もない明治元年十年に埋葬した遺骸を、翌明治二年三月に阿弥陀寺というお寺に「改葬」した時の記録なのです。そもそもハッキリ「改葬方」と書いてあるのですからね。「改葬」されたということは、当たり前ですが、一旦、埋葬されたということです。
 其の事実を示す資料を活字化・復刻していながら「会津は朝敵なりしとて遺体の埋葬を禁止した」云々と平気で書く神経が、私には判りません。辻褄が合わないと判りながら「会津は被害者なのだ」と言い立てる為にワザとそう書いた、と言われても反論しようが無いでしょう。
 こういうのが「会津士魂」なのですか?
 2016年平成28年に会津軍戦死者の埋葬を記録した資料『戦死屍取始末金銭入用帳(せんしかばね とりしまつ きんせんにゅうようちょう)』が発見されています。この資料により、会津兵士の遺骸も若松城降伏から7日後の十月一日には埋葬令が出され(“埋葬令”が出されたのですよ)七日から十五日までの間に埋葬作業が行われたことが明かになりました。

 新政府は会津軍戦死者だけ其の埋葬を禁じた、という話は完全に虚構であることが確定しています。
 ですが、未だにこのウソを言い張ってる人も居るのです。困ったモノです。

 『会津若松市史』はその後改訂が行われ、現在刊行されている『会津若松市史 7 会津の幕末維新 京都守護職から会津戦争 歴史篇7 近世-4』[令和三年四月三十日 五刷(一部改定)]には、野口信一氏による次のようなコラム「戦死者埋葬の新事実」が掲載されています。全文引用させて頂きます。

 歴史は史料の発見により書き換えられることが間々ある。本市史も会津藩蝦夷樺太警備や明治の鶴ヶ城破却など、前回の市史の記述が大きく改められた。そしてまた平成二十八年新たに歴史を書き換える史料が発見された。戊辰戦後の会津藩士遺骸の埋葬にかかる史料である。
 従来、藩士の遺骸は賊軍ゆえ手を触れることが禁じられ、半年も放置されたまま鳥獣の餌とされたと言われてきた。これが会津人が長州を許せない大きな要因であった。しかし遺骸は会津藩降伏のわずか十日後から埋葬されていたのである。その史料を「戦死屍取始末金銭入用帳」(若松城天守閣博物館蔵)と言う。
 史料の前半は埋葬に要した日々の金銭支払いの明細で、十月三日から十七日まで総額七十四両余、会津藩士が三組に分かれ、城下及び近郊に放置されたままの遺骸埋葬を指揮した。経費の多くは埋葬に要した人足代である。
 後半は遺骸の埋葬場所と人数、遺骸の発見場所と個々の服装、状態などが詳しく記される。その人数は五六七人で、近くの寺や墓地六四ヵ所に埋葬された。服装を詳しく記したのは、遺骸を捜索する遺族のための情報であろう。うち郭内で発見された一〇三名は、興徳寺境内七ヵ所に埋葬された。
 この史料の発見は全国に報道されたが、会津藩の戦死者三千名に対し、わずか五六七名であり、大多数は野晒しのままという声もあった。しかしこれは大きな間違いである。三千名というのは京都の戦いから、一年半後の函館戦争までの人数である。また十月の時点では、鶴ヶ城内での戦死者は空井戸や二ノ丸梨園に既に埋葬されており、この時は手をつけていない。この人数はあくまで城下、近郊に放置されたままの人数である。もちろん完璧ではないことも史料の末尾に記される。この遺骸の多くは翌明治二年三月、阿弥陀寺に改葬されるが、これをもって半年も放置されたと誤伝されてきたのである。


阿含宗 ウソ話「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」

2024年09月12日 00時11分58秒 | 日記
 「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。

 幕末維新動乱犠牲者のご供養を重要なテーマとしていた先年の会津若松での護摩供が無事行満した後に書こうかと思いながら、護摩供とも阿含宗とも関係が薄いのと、正直言って面倒臭いのとで書かなかったことが幾つかあります。先日の「新政府が会津藩士を斗南に強制移住させ彼らに困窮生活を強いた」という話はウソという主旨の記事や「松平容保は謂れ無き朝敵の汚名を着せられた」という話はウソという旨の投稿もそうなのですが、其れらを書いたついでと言っては何ですが、別な話を書こうと思います。

 「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。

 そもそも会津藩松平容保は新政府に対し「恭順の意」など示していません。
 松平容保は新政府側に対し何度か嘆願書だとか上表文とか言われるものを提出しており、これらをもって“恭順の意の表明だ”とウソをついている人達が居るのですが、まあ、ウソです。
 恭順の意を表すと言うのであれば、当然“新政府軍に抵抗せず会津若松城は開城する”といった内容の意思表示と其の実行が必須です。ですが、容保は結局其の一番肝心なポイントからは意図的に逃げ回りダラダラと言い訳をしているだけなのです。恭順の意など示していません。
 容保の主君である徳川慶喜公は江戸城を部下達に任せ自らは寺に籠って恭順の姿勢を明確に示しました。もし松平容保に恭順の意思があったなら、必ずこの良いお手本を真似たはずです。しかし彼はそうしていません
 容保は徹底抗戦の姿勢を堅持したまま新政府軍との戦争の準備を着々と進めます。「武備恭順」という言葉を使って容保を擁護する人もいますが、武装解除せずに「恭順」など有り得ません。仮にですが、大東亜戦争終結時に日本政府は降伏を表明したにも関わらず、日本軍が「天皇陛下の安全と國體護持が保証されない限り武装は解除しない。武備恭順だ」と言って武装解除に応じなかったら、米国らは其れをどう受け取ったでしょうか?「結局、日本は最後まで徹底的にヤル気なんだな」と判断され戦闘継続でしょう。それと同じことです。「武備恭順」などただの言葉遊びでしかありません。「一匹狼の大群」みたいなモノです。
 東北戦争・会津戦争に至ったのは、会津藩松平容保が、徹頭徹尾、新政府軍に対し徹底抗戦の姿勢で臨んだ事が原因と言うしかありません。有り体に言えば、松平容保が東北に戦争を誘致したのです。

 一方で、新政府の方針は「恭順の実効が示されなければ討つ」、逆に言うと“恭順の実効を示せば赦す”と言う事で一貫していました。
 実際、徳川慶喜公側近として容保と共に「一会桑勢力」の一翼を担っていた、容保実弟の松平定敬(まつだいら さだあき。元京都所司代)が藩主だった桑名藩は、藩主定敬本人は函館戦争まで抵抗を続けたにも関わらず、藩は早々に恭順の姿勢を明確に示したので全然戦争にはならなかったのです。無血開城です。新政府には始めから会津を赦す気は全く無く攻めたという話が本当なら、何故、元京都所司代松平定敬の桑名藩は特別扱いされたのでしょうか?
 特別扱いでも何でもありません。恭順の実効を示し赦された。ただ其れだけです。 
 そして、会津はそうしなかったというだけなのです。

 東北方面担当の新政府軍、即ち奥羽鎮撫総督の下参謀だった世良修蔵が大山格之助へ出した手紙に「奥羽皆敵と見て云々」と書かれていた、という有名な話を思い出した人もいるかも知れません。仙台藩降伏間近という時に仙台藩関係者が、降伏交渉を依頼した肥後藩関係者に語った証言から、この世良の手紙は、仙台藩関係者が主張するように会津なのか或いは仙台藩自身なのかは不明ですが、何者かによる捏造であるという説があります。
 仮に世良の其の手紙が本物だったとしても、其の時点での世良修蔵個人の意見と新政府の基本姿勢は別のモノです。
 新政府の方針は前述した通り「恭順の実効が示されなければ討つ」、即ち“恭順の実効を示せば赦す”、です。そもそも、新政府には恭順の姿勢を明確にした相手に戦争を仕掛ける金銭的余裕など無いのです。
 
 ついでなので、もう一つ。
 「禁門の変で会津・薩摩軍に負け朝敵とされた長州が、其の恨みを晴らすため会津を赦さず戦争を仕掛けた」という話は完全な妄想です。長州軍を仕切る大村益次郎は東北平定戦略上の理由から、会津攻めに反対しています。“東北諸藩を一本の木に例えるなら、会津は幹で其の他は枝葉。先に枝葉を全部落としてしまえば、如何に太い幹も立ち枯れするしかない。強固な抵抗姿勢を崩さない会津をいきなり攻めるなど愚の骨頂”というような考え方でした。会津戦争で前面に立ったのは「幹を倒せば枝葉も共に倒れる」と観た薩摩・土佐軍です。

 匿名不良会員の私が言っても説得力が薄いので、桑名藩があった三重県出身の幕末維新政治史を専門とする水谷憲二氏著『「朝敵」から見た戊辰戦争 桑名藩・会津藩の選択』(洋泉社)より一文を引用するので読んでください。会津や東北で戦争になった理由・経緯が簡明に端的に説明されています。文中の「奥羽府」とは「奥羽鎮撫総督府」の略で「東北方面担当新政府軍本部」みたいなものです。それから、「閏四月(うるう しがつ)」いうのは旧暦で使われる閏月(うるうづき)で四月の翌月です。太文字強調は私によるものです。

 なお振り返ってみれば、奥羽府から仙台藩に対する四月二十五日の通達では、しだいに会津藩が「暴動」を引き起こしそうな状態ではあるが、謝罪をすれば寛大に処置する考えであることを明らかにしている。
 しかし、それに対する容保名義の返答書(閏四月十五日付)は、徳川家の存続が確定するまでは「謝罪」しない覚悟を表明する内容になっている。
 閏四月十二日に奥羽府に差し出された会津藩側の嘆願書でもわかるように、会津藩が本気で恭順を望んでいるようには思えない
 その一方で仙台藩ら東北諸藩は会津藩を説得して何とか平和的な解決に持ち込むことを画策して、また奥羽府においても会津藩の恭順の意志が本物であれば穏便に解決しようと考えていた。
 しかし、会津藩はまったく武装を解除する気配がなく、東北諸藩は討伐対象である会津藩と結びついて和平交渉を計画して奥羽府に激しく迫り、そして奥羽府は着々と会津藩を攻撃する態勢を整えて東北諸藩を討伐に駆り立てた。
 このような奥羽府と東北諸藩との間に不信が募り、やがてそれは互いの誤解となり、最後には引き返すことができない戦争に発展していった。

 「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自分らの会津観光史観、と言うか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化する為に"会津や東北諸藩は恭順したにも関わらず、薩長新政府側は最初から彼らを赦す気はサラサラ無く徹底的に叩き潰すつもりだった"などというウソを言い募っている人達が相変わらず居るようですが、ウソは100回言ってもウソです。
 そういう人達のウソにコロッと騙されていたという人は、✩本とかではなく、幅広く深い客観的事実を元に合理的見解を導き出すごく普通の歴史研究者の論文やそれに準ずるような書籍から歴史を勉強し直して頂きたいものです。