最新の『アゴン・マガジン』136号に元『正論』編集長の上島嘉郎先生による沖縄戦に関する寄稿文が掲載されていることを知り、今回は即購入しました。 ペラペラとページをめくっていたら、他記事の不思議な文章に目が止まりました。
明治維新こそ、日本の歴史上で最大のカルマを生んだ出来事であり、その怨念・恨みが、その後の日本にどれだけの悪影響を及ぼしたか?
もともと狭い島国で生きてきた日本人は、恨みや仕返しを恐れ、敵に対しても残酷な仕打ちをすることは、ほとんどありませんでした。ところが西洋の白人社会に飛び込んだ日本人たちは、その残酷なやり方を真似して、それまでの日本にはなかった、強い怨念を生じさせるような行為をし始めたのです。
第1文は、取り敢えずは、さておき(「最大」かしら?)、第2文は、コレ、一体何なのでしょうか?
私の知る日本や日本人とは全く違う話です。
長きにわたり戦が続き人心殺伐としていた戦国時代までワザワザ遡るまでもありません。幕末維新期でも「安政の大獄」とか「天狗党の乱」の顛末など“敵に対する残忍な仕打ち”の例は沢山有ります。
大老井伊直弼は、将軍継嗣問題に於いて直弼ら南紀派に対立した一橋派の人々を主に何の罪も無い100人ほどの人々を死罪や切腹処分にしていますよね。それに対する報復・反抗として「桜田門外の変」が起き直弼は首を取られてしまいます。(私は、まだ大いに残っていた幕府への畏怖や敬慕や信用を棄損し幕府瓦解のキッカケを作ったのが井伊直弼だと思っています。)
各地で放火・略奪などの乱暴狼藉を働いた天狗党の投降者800数十名を、幕府側は鰊蔵(にしんぐら)に押し込み、不衛生で苛烈な環境下で20数人を死亡させ、更に350人程を斬首しています。それでも足りなかったのか、水戸藩では天狗党員の家族の女性・子供までが処刑されてます。
「いや、それらは罪人に対する処罰として行われたものであって、“敵に対する仕打ち”とは違う」とでも言うのでしょうか?実行者の「敵」に対して行われた恨みや仕返しに繋がり得る残酷な仕打ちに変わりありませんよ。
「西洋の白人社会に飛び込んだ日本人たちは、その残酷なやり方を真似して、それまでの日本にはなかった、強い怨念を生じさせるような行為をし始めたのです。」
逆に、この事例が全く思い浮かびません。西洋白人の残酷なやり方を真似た行為?どういう歴史的事実を指しているのでしょうか?
私の貧しい知識とオツムでは、明治も7年になる年に起きた「佐賀の乱」の後に、江藤新平と島義勇が、日本古来・伝統の、と言うしかない斬首・晒し首に処せられた、まるで正反対のことしか思い付きません(笑)。
或いは、鹿鳴館での男同士ダンスとかですか?西洋白人の影響下に生じた、顔を覆い落涙するしかない実に“残酷”な史実ではありますが(笑)。
考えた末、ふと脳裏に浮かんだのは、2019年令和元年の幕末維新犠牲者供養の大柴燈護摩供の前に、例祭か何かで☆本(笑)の内容が紹介され驚いたことです。
もしかしてですが、☆本に書かれているお話を未だに鵜呑みにしていて、其れを西洋人の影響で日本人が新たに始めた行為と理解してるということでしょうか?
私がちゃんと☆本を読んだのは、何時だったかも思い出せない昔に1冊だけで、☆本に書かれている事柄を熟知しているわけではありませし、何とも断言は出来ないのですが、もしかするとそうなのかも知れません。
私のこの推測が当たっているとしたら、何とも困ったものです。
阿含宗内部だけの話ではなくなり、外部との問題を生じさせる可能性もあります。
私の想像通りだと仮定すると、西洋人の残酷なやり方を日本に持ち帰り実行した「西洋の白人社会に飛び込んだ日本人たち」とは、長州・薩摩から欧米に留学した有名な「長州ファイブ」「薩摩スチューデンツ」という特定のグループというか氏名も明らかな20数名の個人を指すことになります。(幕府からも万延元年遣米使節やパリ万博使節や欧米への留学生達が「西洋の白人社会へ飛び込んで」いますが、☆本の内容に沿った見解であるならば、これらは当然含まれません。)
彼らが「その残酷なやり方を真似して、それまでの日本にはなかった、強い怨念を生じさせるような行為をし始めたのです」と、阿含宗機関誌『アゴン・マガジン』上で教団内外に向けて明言したわけです。
彼らの子孫や顕彰する個人・団体等から「自藩と日本の為に国禁を犯し文字通り命懸けで欧米留学した彼らが、事もあろうに西洋白人の残酷なやり方を学んで日本に持ち帰り実行したというのが阿含宗さんの公式見解なのですね。どういう事実を根拠にそういうことを仰るのか、ご教示頂きましょうか」と詰め寄られたら、どう説明するのでしょうか。言っておきますが、相手を沈黙させられるちゃんとした説明は不可能ですよ。何しろ、☆本が根拠なのですからね。
一つ言い訳というか逃げ口上を思いつきました。「いや、“西洋の白人社会に飛び込んだ日本人たち”とは、 鎖国していた時代とは異なり欧米列強の直接的影響を受ける様になった日本人全体の事を指す比喩的表現で、特定の個人や集団のことを言ってるわけではありません。」まあ、通用しないでしょうね。ハッキリと「西洋の白人社会に飛び込んだ日本人たち」と明言してしまってるのですから。
薩摩藩留学生達の一部が1867年7月に連名で薩摩藩庁に建言書を書き送っています。其の手紙は当時彼らと親しく接していた、西洋文明に批判的見解を持つ英国人の強い影響下で書かれたものではありますが、その中で大意次のようなことを語っています。「欧米から学ぶことは少なく、忌避すべきことは多い」「英国も表面的には公平に見えるが、技巧権暴のみに支配されている」「己を利する為には全く道を忘れ、諸洲諸島を奪掠し、強い者を友とし弱い者は拒絶するのが欧米の性質である」。
こういう事を言っていた彼らが「その残酷なやり方を真似して、それまでの日本にはなかった、強い怨念を生じさせるような行為をし始めた」と言うのでしょうか?
幕末維新の動乱期に無念の思いや恨みを残して亡くなった方々の御供養は必要なことです。
しかし、史実に基づかないお話は願い下げです。
肝心の上島嘉郎先生による沖縄戦に関する寄稿文については、また、別の文章で(笑)。