阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 「松平容保蝦夷地売却未遂事件」の概要。

2023年06月23日 23時10分00秒 | 日記
 前の投稿で「松平容保蝦夷地売却未遂事件」についてまとめを作らないといけないと書きましたが、良く考えたら、その事件について自分でまとめを作る必要はないということに気づきました。   
 平成28年(2016年)9月8日付の北海道新聞の報道を読んで貰えば済む話です(笑)。
 松平容保を「売国奴」と呼んで憚らない私が作ったまとめなどよりは、北海道新聞の記事の方が信頼性が高いはずです。
 同紙サイトの記事によると下記の通りです

「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
09/18 07:00、09/21 17:15 更新
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。


 「99年間貸与」と言ったって相手との力関係次第では返してもらえる保証は無く、事実上の売却と言うしかありません。
 イギリスが「99年間租借」していた香港が中国に返還されたのは、イギリスが現代的な意味での文明国だったからです。もし、いわゆる「帝国主義時代」が今でも続いていたら、返還されていたかどうか判りません。「99年間の租借?ああ、そう言えば最初はそんな話でしたね。でも、もう百年くらい経つのですから香港はイギリスのモノですよ。気に入らないなら実力で取り返されては如何ですか?」などと知らんぷりをされておしまいだったことでしょう。

 「松平容保は新政府軍に対して何度も恭順の意を示したが、新政府軍はそれを受け入れず会津を攻めた」というような話を信じている人もいるようですが、これは作り話です。(そういえば、幕末維新動乱犠牲者解脱成仏護摩法要前後の阿含ニュースでも、そのような感じのストーリーで語られてましたね。
 松平容保は自分の行動について釈明はしていますが、「恭順の意」などは示しておらず、徹底抗戦の姿勢で一貫しています。この蝦夷地売却未遂事件はその証左の一つと言えるでしょうね。

 松平容保、文字通りの「売国奴」ですよね。 
 会津の何かの祭では「義」とか言ってるそうですが、松平容保や彼を頂く当時の会津の何処にどんな「義」が有ると言うのでしょうか?(主君の命令に従い城内・戦場で新政府軍と戦った文字通り「女・子供」にまで至る多くの人達には、その意味での「義」はあるとは思います。)
 容保の主君である徳川慶喜公は江戸城を部下達に任せ自らは寺に籠って恭順の姿勢を明確に示しました。(もし松平容保に恭順の意思があったなら、必ずこの良いお手本を真似たはずです。しかし彼はそうしませんでした。)それに反して徹底抗戦の姿勢を貫いたのですから、口先で「慶喜公の身の安全を…」などと言ったところで、もはや徳川家への忠義とかではないですよね。
 恭順したからといって命が保証されるわけではありません。切腹を命じられる可能性も有るのです。それを承知で慶喜公は恭順したのです。徳川家忠臣を自ら任ずるならば、それに倣うのが本当の「義」ではありませんか?