阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
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阿含宗 松平容保蝦夷地売却未遂事件と、「埋葬禁止令」のウソ

2019年09月25日 20時04分00秒 | 日記
 幕末維新史にある程度関心や知識の有る人にとっては常識なのだけど世間的にはあまり知られていない「松平容保蝦夷地売却未遂事件」について書こうと思って、ちょっとネットを検索したら、良いまとめを見つけたので、それをご紹介したいと思います。楽ちん楽ちん(笑)。

 紹介させて頂いといて何なんですが、「義と言われている会津藩 」ってありますけど、本当に「言われて」ますか? 一部の会津贔屓の人達が自分らで言ってるだけでは?(笑)。松平容保の主君である徳川宗家慶喜公は既に降参恭順しているのに、それを無視し勝手に徹底抗戦の姿勢を貫いて、いったい何の「義」なんでしょうか?私にはサッパリ判らないべさ。

 このまとめを読んでもらえばそれで良いのだけど、この中で紹介されている松平容保蝦夷地売却未遂事件に関する平成28年9月8日北海道新聞の報道は、同紙サイトの記事によると下記の通り。

「蝦夷地99年間貸与」 会津・庄内両藩、戊辰戦争で独に打診
09/18 07:00、09/21 17:15 更新
 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある」とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた。
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。

 「99年間貸与」と言ったって相手との力関係次第では返してもらえる保障は無く、事実上の売却。もう、松平容保、「義」なんてとんでもない、「売国奴」と言われてもしょうがないですよね。 

 何か月か前の例祭ご法話で星亮一さん(失笑)の著書を引用する形で取り上げられた会津戦争後の「埋葬禁止令」は虚偽ですからね。会津観光史学の人らによって事実として繰り返し語られたせいで俗説として広まったのだけど、元々は昭和30年代初頭に初めて世の中に登場した又聞きの又聞きの根拠不明なウワサ話に過ぎず、会津若松市も既に昭和41年に『会津若松市史』の中で"そのような事実は無い"旨、完全否定しているのですよ。会津観光史学の人達が繰り返し強硬に言い張っていただけ。数年前に埋葬記録資料が確認され完全に虚構であることが確定してます。


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