阿含宗不良会員の呟き

阿含宗不良会員の呟きです。 神仏と開祖を信じ修行してるつもり。
宗務局は知らんけど。不良会員なんで(笑)。

阿含宗 ウソ話 松平容保「謂れ無き朝敵の汚名」ちゃんと「謂れ」は有ります。

2024年09月06日 08時44分12秒 | 日記
 一部の人達が会津藩松平容保について語る時、必ずと言って良いほど出てくる「謂れ無き朝敵の汚名」という言葉。ウソと言うしかありません。「謂れ」はちゃんと有ります。
 
 幕末維新動乱犠牲者のご供養を重要なテーマの一つとしていた先年の会津若松での大柴燈護摩供が無事行満した後に書こうかと思いながら、護摩供とも阿含宗とも関係が薄いのと、正直言って面倒臭いのとで書かなかったことが幾つかあります。先日の「新政府が会津藩を斗南に転封し旧会津藩士に困窮生活を強いた」という話はウソという主旨の記事もそうなのですが、其れを書いたついでと言っては何ですが、別な話を書こうと思います。
 
 一部の人達が会津藩松平容保について語る時、必ずと言って良いほど出てくる「謂れ無き朝敵の汚名」という言葉。ウソと言うしかありません。「謂れ」はちゃんと有ります。

 慶應三年十二月九日の王政復古の大号令(最近は「王政復古のクーデター」という言い方もします)で京都守護職・京都所司代が廃止され、京都守護職だった松平容保らにはその後2回にわたり帰国命令が出されます。しかし容保はこれに従いませんでした。彼の主君である徳川慶喜公は、王政復古の大号令の3日前に其の情報を得ていましたが何も行動を起こしませんでした。黙認したわけです。そして側近であるはずの容保や桑名藩松平定敬(さだあき)にはこの事を伝えていません。其の後、慶喜公自身から容保らに朝命に従い帰国するよう促す行動をとっていますが、容保は動きませんでした。
 慶喜公は容保ら対薩摩強硬派が帝のお膝元の京都で新政府側と大きな衝突を起こす事を危惧し、彼らを連れて大坂城に移動します。
 慶喜公に同情的な福井藩松平春嶽たちの運動が奏功して、慶喜公を新政府の議定職に就けることが慶應三年十二月下旬に事実上決定し「軽装で(つまり、兵を引き連れず本人とお供だけで)上洛せよ」との勅命(天皇の命令)が下ります。慶喜公本人はそれに従うつもりでいました。
 しかし、対薩摩強硬派の容保らが“大兵を率いて上洛し薩摩を一掃すべし”と執拗に主張したせいで、慶喜公はついウッカリ「勝手にせよ」と言ってしまいます。
 結果、旧幕府軍は京都に向けて進軍し新政府軍との間で鳥羽伏見の戦いが勃発します。
 慶喜公が新政府に参加するせっかくのチャンスに松平容保らが口を挟み、結果、天皇の命令に逆らうという最悪の形でブチ壊しにしてしまったわけです。気の毒にも慶喜公は、大坂に引っ込んだのは詐謀に基づくものであると見做された事や帰国命令が出されていた会津らを先頭に立てて旧幕府軍を京都へ進軍させた事などを理由に朝敵認定されてしまいます。そして彼の第一の側近である松平容保も一緒に朝敵とされたのです。
 「鳥羽伏見の戦いで薩長新政府が勝利したので、負けた徳川慶喜や松平容保らが朝敵とされたのだ。勝てば官軍、負ければ賊軍ということだ」という人も多いでしょう。確かに其の通りです。もし鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が勝っていたら、朝廷は手の平を返して旧幕府軍を官軍認定し薩長討伐命令を出していたでしょう。朝廷とかお公家さんというのはそういうものです。
 ですが、容保の言動には鳥羽伏見の戦いの結果が出る前から既に問題があります。
 先ずは、2度に及ぶ朝廷からの帰国命令の無視です。「そんなモノは薩長らのクーデターの結果出た命令だから本物の勅命とは言えない。勅命を無視したことにはならない」と強弁することは可能かも知れません。しかし其の「クーデター」には福井藩松平春嶽ら旧幕府側と言ってよい人物達も関係しており、また容保の主君である慶喜公も其れを黙認し(そして容保らには其の事を伝えず)、帰国命令についても、積極的支持かは知りませんが、少なくとも追認し従う事を促しているのです。これで“勅命を無視したことにはならない”と言ったら、其れは無理があります。
 さらに、松平春嶽たちによって慶喜公に伝えられた“新政府の議定として迎えるから軽装で上洛せよ”という帝の意向に容保は明白に逆らっています。慶喜公が「辞官納地」を実行するまでは公の新政府参加は認められない(実行したなら認める)という薩摩の姿勢に抗いながら春嶽達が強い周旋活動によって引き出した慶喜公にとって有利なこの勅命まで「本当の勅命ではない」とは言えないでしょう。容保は慶喜公が其れに素直に従う事を認めず、大軍を京都へ送り込んでの討薩を主張し、元々は新政府と戦う気も帝に逆らう気も1ミリも無かった公に勅命に反する行為を強要し、結果、新政府軍との戦争という重大な事態を招いたのです。
 そして、容保は自ら引き起こした其の戦争に負け主君と己が朝敵とされる結果に陥ったわけです。
 会津に帰った後の容保は、新政府軍に対して降伏する姿勢を見せず、徹底抗戦の姿勢を貫いています。(「会津は再三恭順の意を示したが、新政府はハナから会津を赦す気は無く攻めた」という話はウソです。
 これで「謂れ無き朝敵の汚名」などとトボけられたのでは、困ります。

 もし慶喜公がそんな話を聞いたら「ざけんなよ!オレたちが朝敵認定されたのは、俺も悪いけど、相当に容保のせいじゃねえか!負けたら朝敵認定される事を覚悟でやってたんだろ?!いざそうなったら、謂れ無き云々って何だよっ?!」と激オコでしょうね。
 容保には阿含宗で言う所の「逆恩の因縁」があったのかもしれませんね。)

 「謂れ無き朝敵の汚名」などと言っている人達の殆ども前述した事実関係を知っているはずです。鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争に関してのごく基本的な事実ですから、知らないはずがありません。知っていながら、「会津は被害者で“善”、薩長は加害者で“悪”」という自分らの会津観光史観、というか、私に言わせれば「会津被害者史観」を正当化する為に「謂れ無き朝敵の汚名」とか言い張っているわけです。
 困ったモノです。
 
 松平容保が孝明天皇から宸翰(しんかん。天皇直筆のお手紙)を頂いていたことをもって「だから朝敵ではない」などと言う人も居るようです。  
 では、何らかの犯罪容疑を掛けられた人物が、むかし人命救助をして警察から貰った表彰状を取り出して「コレを見ろ!俺は警察から表彰されたんだ。だから俺は犯罪者じゃない!」と言ったら、世間様は其のリクツを認めてくれますか?「いや、ソレとコレとは関係無いでしょ」で終わりです。
 “宸翰を頂いていたのだから朝敵ではない”という不思議なリクツを振り回す人達のことが、私には全く理解できません。

 余談ですが、前述した通り王政復古の大号令の3日前に慶喜公はその情報を得てえながら何の行動も起こさず黙認しました。そして、側近であったはずの会津藩松平容保・桑名藩松平定敬には其の件を伝えていません。慶喜公の真意は何処にあったのでしょうか。薩長への強硬姿勢で凝り固まり主君である慶喜公の言う事さえ素直に聞かない会津・桑名は既に彼にとって“目の上のタンコブ”となっていて、王政復古の大号令を会津・桑名と距離を置く好機として利用しようと考えたのかもしれません。コレは私の想像です。