夢敗れた後おかしくなった。考えがまとまらない、自分に自信が無い、
益々「NO」と言えなくなっていった。
その年は「笑顔君」の学校のPTA役員になっていた。
役員をまっとうすることなく途中降板することになってしまった。
うつ状態、不安状態で薬をたくさん飲んでいたから子どもの送迎が
不可能になった。
行く時は子供を乗せているから車の運転は可能でも、
家路に着くまでが自分ひとり道は間違える、信号赤でも行こうとする私。
未だ、最初は頭回らなくても体力は未だあったので無理していた。
3ヵ月後眩暈が頻繁にやって来て車の運転が不可能になった。
二人の子ども送り先は正反対の方向、他の家族に負担がかかり始めた。
笑顔君の送迎は父親が24時間勤務明けや休日に、
その他の日は自立支援センターにお願いしていた。
それでもヘルパーさんの都合が悪い日などは早退したり遅刻したりして
私の母が日程君の送迎を優先して私の母がするようになった。
私がうつになる前は家族でよく出かけていたがそれも出来なくなると
日程君が脱走するようになった。いなくなって姿が見えるのに追いつけなっかた。
幾度も幾度もいなくなってしまった。捜索願デビューも果たし私達はよれよれになった。
そうして、私はとうとう笑顔君の世話が出来なくなってしまい私の母の負担も増大して
初めて支援費を使うことを決心し福祉センター、支援センターにすがることになった。
障碍児が2人もいて何の支援も受けていないことに驚かれた。
そして、現在「笑顔君は措置入所して併設の養護学校に」
日程君はショートステイの利用やガイドヘルパーさんと学校のお迎えとプールにと
忙しく楽しい毎日を送っている。この連休もお願いした。