忘憂之物

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ヤンキー的な気合主義が蔓延している~精神科医の斎藤環氏に聞く~

2013年03月19日 | 過去記事



ヤンキー的な気合主義が蔓延している~精神科医の斎藤環氏に聞く~

<日本社会にヤンキー文化が拡大しているという精神科医の斎藤環氏。今回の安倍晋三政権も、ヤンキー特有の「気合入れれば何とかなる」という空気に支持されていると指摘し、話題となっている>












「寅さんシリーズ」で「おいちゃん役」をやった俳優の下條正巳は、日本統治時代の釜山で生まれた。それから日本に戻り、終戦してすぐに男の子が生まれる。名前を「アトム」とした。理由は日本でも名前・苗字の順に呼ぶようになり、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考えたからだった。それでAで始まる名前にしたとか。要するに「アメリカになる」と思った。それから原子力の意味となる「アトム」。今後は核技術が平和利用されるだろうという思いも込めた。

いまで言うところの「DQNネーム」だが、そのアトムの同級生には「ウランちゃん」もいたらしく、名字が「賀来(かく)」だった。漢字を換えれば「核・ウラン」になる。坂本龍一や山本太郎がひっくり返りそうだが、手塚治虫の「鉄腕アトム」はそのあとのことというから面白い。ま、いずれにしてもヘンな名前だ。

このネットスラングの「DQN」はむかし「ヤンキー」だった。嘉門達夫も「ヤンキーの兄ちゃんの歌」とかヒットも出した。この「ヤンキー」とは元々、アメリカ北東部に住む白人に対する蔑称だ。戦中戦後も「メリケン」と同じく、日本人がアメリカ人を指す際に用いた。一応、書いておくと「メリケン」はAmericanの転訛。そう聞こえたからそう呼んだだけのことだ。

要するに「支那(China)」と同じ。「チャンコロ」もそう。「中国人」を倅に発音させると、ちゃんと「ヂォングォレン」と聞こえる。とくに馬鹿にした意味はないのだが、これを蔑称だから止めろとか言う人もいる。メリケンサックとかメリケン波止場、メリケン粉に怒るアメリカ人もいないし、それを蔑視しているとか騒ぐ阿呆もいないが、ちゃんと「世界の中心の国」である「中国」と呼びなさい、という阿呆は国会にもいる。民主党の幹事長も「支那」がダメだと「居丈高」に言っていたが、支那やChinaを「シナ」と呼ぶのは別に普通だ。愛人を「モナ」と呼ぶのと同じ、だってそれが本名、正式名称だ。

また、だからといって朝鮮人は「チョン」に安心しないほうが良い。べつにそう聞こえたわけでもない。ちゃんと江戸時代から馬鹿にしている。意味はそのまま「馬鹿」とか「半端」になる。「西洋道中膝栗毛」にも<馬鹿だのチョンだの野呂間だの>と出てくる。意味はそのまま受け取ってくれて構わない。堂々たる蔑称である。


ま、ともかく「ヤンキー」である。日本ではこれが不良少年、チンピラを指す「ヤンキー」にもなった。どちらもガラが悪く、行儀が悪く、頭が悪くて素行が悪い。民主党がらみでいうと横峯良郎とか松本龍みたいな、ヤクザになり損ねた連中のことだ。相手を威圧することで自分を強く見せる、という特徴も同じだから違和感もないが、朝日新聞でもお馴染み、斎藤環とかいう怪しい精神科医が「安倍政権はヤンキー」とか言っている。少々驚いた。他に悪口もないのか。

<安倍さんの親学への親和性、子育てに対する考え方や家族の絆を大切にするという発想がヤンキー的です>だそうだ。この精神科医は「絆」にもケチをつけたいらしく<みんな絆という言葉に弱いですから。そもそもは拘束や動きを束縛するという意味を持つ絆という言葉が、特に震災を契機にして麗しいもの、なくてはならないものという言葉に変わっていく様は奇妙ですが>とか馬鹿にする。東北の復興を願う「絆」はヤンキーか。「絆」という言葉が元々、馬や犬をつなぐ木のことを指した言葉だとしても、いま、我々が使う場合の「絆」はまったく意味が違っている。極論すれば「元来の意味を知らずに」使っている。いま使う意味での「絆」という概念が周知されてずいぶん経つ。つまりいま、我々が「家族の絆」と言ったところで、子供を馬や牛のように扱うつもりか、と非難されたら「はぁ?」となる。こういうイチャモンこそ「ヤンキー的」ではないか。

それなら「平和」だってそうだろう。元々は「和平」からなる漢語だ。意味は「和することによって平らぐ」。つまり、争っている当事者同士が「和する」ことで「平らぐ」。戦争を前提にした言葉だ。概念的には「戦争終結から次の戦争開始の間」のことを言う。「元々の意味」からすれば、いま、左巻きが花畑で唱える「平和」など、麻雀の役ほどの意味もないということだ。

この精神科医に言わせると、桜宮高校の体罰もヤンキーならAKBの丸坊主もヤンキー。それから「生活保護の切り下げ」もヤンキーだと言う。どこか良い精神科医に看てもらうか、一度、ヤンキーにしばかれることを勧める。

<生活保護費の切り下げもヤンキー的です。ヤンキーの人権意識は自己責任。つまり「義務を果たしていないやつには権利を与えるな」というもの。万人が一定の人権を持っているという天賦人権説に照らせば、生活保護は請求があれば支給するのが当たり前です。それがいつの間にか、本当に困っていて、頑張ったけれどダメだった人にしかあげることが許されないようなことになっている>

赤けりゃなんでもいいのか。ヤンキーが権利よりも義務を重んじるとは知らなかったが、頑張りもしないで<請求があれば支給するのが当たり前>の世の中なら、社会はヤンキーが支えていると言って大過ない。しかし、現実の解釈は社会に甘えて迷惑かけるのがヤンキーだ。その社会に対して餓鬼っぽく、威圧的な言動をとるのがヤンキーだ。この精神科医は何を言っているのだろう。

それから最後のほう<典型的なのは、日本における引きこもりの多さとホームレスの少なさでしょう。若年ホームレスだけ見れば1万人いない。米国には100万人、英国に25万人いるのに日本は異常に少ない。それがどこにいるかと思ったら家の中にいる。引きこもりという形で。排除された若者は家族が支えているんです、絆で>とまた「絆」を茶化しているが、この精神科医は失業率とか知らないのだろうか。その他、関連する社会福祉とか考えが及ばないのだろうか。それに就職していない国民はぜんぶがホームレスにならないとダメなのか。その引き籠りは<頑張ったけれどダメだった人>かもしれないではないか。

この精神科医はつまり、欧米諸国のホームレスは個人主義の象徴だ、と威張っている。生活保護費は<請求があれば支給するのが当たり前>にしろと言っておきながら、それを支える協調性やら社会性を否定する。意味がわからない。その「頑張りもしない個人」を支えているのが集団だろうが。アカい精神科医は<個人よりも家族、個人よりも地域、個人よりも学校。今起きている問題はすべてこのロジックに起因している>と偉そうに述べるが、義務を果たせない人の権利を保障するには共同体が必須となる。みんなが個人主義、カラスの勝手主義なら、いったい、どこのだれがその個人を支えるのか。

また、この精神科医は<あくまでも個人の権利を尊重することが最優先事項で、協調性は2番目か3番目に大事であると教育しないと、いつまでたってもヤンキー的な、個人よりも集団を優先する論理がまかり通ってしまう>と言っている。それから東北の震災における「絆」を馬鹿にする。つまり、東北の被災地で日本人が見せた「個人よりも集団を重んじる」姿、整然と順番を待ったり、譲り合ったり分けあったり、世界が驚愕した「日本人の民度」をして「ヤンキー的」だと嘆いている。これはたぶん、馬鹿と断定して差し支えないだろう。

この馬鹿は<学校で教える徳目(道徳の内容)から協調性を外すことが必要かもしれませんね。協調性だけを強調するカルチャーが、ムラ社会におけるいじめのロジックを補強している。一人だけ変わったことをするやつはいじめていいという話につながっている>とも言っている。東北の避難所、そこに「協調性」がなければどうなっていたか。治安が麻痺した被災地、そこでATMでも荒らせというか。「個人主義」を発揮して食料や水を奪えというか。弱い立場の子供や老人を押しのけ、自分だけよければいい、と「個人主義」を貫き通せというのか。それこそ蔑称とされる意味での「ヤンキー」ではないか。



ま、いずれにしても、だ。「不良少年」の意味としての「ヤンキー」の本場は大阪。大阪は私の生まれ故郷でもあるから書いておくが、大阪のヤンキーが最も嫌うのは「面白くない」奴だ。この精神科医みたいなのをいう。

教師に睨まれたり、警察に連れて行かれたり、喧嘩自慢と対決したり、駅前で襲われたりなどの「不良としてのリスク」も負わない。とはいえ、みんなが遊んでいる間に塾通いしたり、夏休みにも家に籠って勉強したり、などという「真面目くんのリスク」も放棄する。スポーツでぶっ倒れるまで練習したりもしない。時間を忘れるほど熱中する趣味もない。

何事もリスクを避けながら、斜めに構えて口だけ出す。「不良っぽい」とか「真面目っぽい」を使い分けて世の中を渡ろうとする。このいずれかの「本物」に会えば押し黙る。なんの覚悟もなく、なんら信念もない。つまり、チョン。中途半端なのだ。

この精神科医は最後に<こうしたこともアゲアゲの景気のよさにかき消されていく。何だかんだ言っても景気がよくなれば国民の気分はよくなる。よくなれば弱者の存在は目に入らなくなる。安倍内閣が景気最優先と掲げたのは、目くらましとしては最高でしょう>とすべての人を馬鹿にして〆る。つまり、賢いのは自分だけ、と言いたかった。「アベノミクス」で仕掛けるほうもヤンキー。騙されるほうもヤンキー。浮かれるのもヤンキー。それで自分は朝日新聞をはじめとする、左巻きメディアのカシコイ御用先生。



昨年12月27日の朝日新聞「政治を話そう」にも登場。「小林よしのり」と並んで安倍政権を腐している。朝日のインタビューアーが「しかし安倍晋三さんはヤンキーとは縁遠い気がします」とネタを振ると<ヤンキーに憧れていたけど、ひ弱でなれなかった、という感じですかね。しかし心性はヤンキー的です>とか。あんまり頭がカシコイようには思えないが、斎藤環は「戦闘美少女の精神分析」とかいう本を書いている。オタク文化に造詣が深いらしい。もちろん、買って読むほどのアレでもないから、ちょっとパソコンで拾ってみた。要するにセーラームーンとかナウシカはなぜ「少女が戦うのか」みたいな本だ。

この理由を斎藤環はこう書いているらしい。一応、貼ってみるけど、どうせアレだから読まなくていい(笑)。馬鹿の屁理屈、間抜けの理屈だ。

<基本的にハイ・コンテクスト性を特質とする、わが国の表象文化の枠内において成立した漫画・アニメという表現形態は、無時間性、ユニゾン性、多重人格性などの要因をいっそう純化することで、きわめて伝達性の高い表象空間となり得た。こうした想像的空間は、自律的なリアリティを維持すべく、なかば必然的にセクシュアリティ表現を取り込まざるを得ない。『自律的』という意味は、それが受け手の欲望の単純な投影であることを離れて、その表象空間内で『自律』する欲望のエコノミーが成立している、ということでもある。このとき受け手の欲望がヘテロセクシュアルなものであるほど、想像的な『表現された性』はそれを乗り越え、逸脱する必要がある。漫画・アニメの多形倒錯性と、受け手の欲望の健全性というギャップは、概ねこのような視点から整理することが可能だ。戦闘美少女というイコンは、こうした多形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させうる、希有の発明である>



こんな小難しいことを並べなくても、普通の大人なら「子供相手に作ったから」とわかる。私はよく知らんが、ピカチュウを操る(?)のがオッサンだったらヘンだからだ。のび太も小学生なら桃太郎が鬼退治するのも「少年時代」だ。「対象年齢」というのは玩具にも書いてあるだろう。それと同じようなことだが、セーラームーンが20代半ばのOLだったら、それを見るほうも見せる親も困る。たぶん、斎藤環みたいなオッサンしか見ない。

それにナウシカが40代半ば、大阪のオバはんだったらどうする。「あんた、なに怯えてるんや?なんかアレやで、迷子のキツネリスみたいやんかいさ、げははははww」だったらクシャナ殿下はどうすればいい?遠い目で腐海をみながら「たとえ、どんなきっかけで生まれようが、生命はおんなじなんやで。わての死んだ婆さんも言うとったけど」で感動するのか。阿呆か。



そして油断していたら、この馬鹿精神科医はここでも日本人を腐していた。

<そもそも日本女性は幼稚である。彼女らは子ども向けの玩具を愛好し、あるいは少女のような甲高い声でしゃべる。こうした幼稚な女性に囲まれて男性も幼稚化する。一般的に日本人は精神年齢が幼く、性的対象にも未成熟や多形倒錯の要素が入り込んでしまう。日本人男性は性的な抑圧が強いので、成人女性を前にすると萎縮してしまう。彼らは意のままになる幼女にこそ安心して欲望を向けられる>

―――同じ紙面にAKB小林がいるじゃないか。問うてみたらどうか。




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