忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

敗戦の日の朝に

2010年08月15日 | 過去記事
「だって、お盆だし」――――

という理由だけで、我が家に泊りに来ている娘と孫がまだ寝ているのを確認してから、化粧しながら掃除しながら洗濯しながらコーヒーを沸かしながら犬の餌を作りながらプリン喰いながらという「ながら達人」の妻を見ながら新聞を開く。

今月13日の産経新聞にある「朝の詩」が目に入ると、まだ寝ぼけていた心と体に電流を帯びた無数の針が突き刺さった。私は「いま座ったばかりなのに、どこいくの?コーヒーは?」とでも言いたげな妻の視線を放置して自室に戻り、もういちど、噛み締めながら何度か読んだ。相槙原市南区に住む87歳の女性からの投稿、タイトルは「お盆です」だ。



“「私は死にたいとは思わない けれども何も恐るるところなく死ぬ事はできる」

あなたはそう言って還らなかった。

今の轟音 あれはあなたの愛機だろうか

お盆です 操縦して帰って来て下さい

六十余年待ちました

でもまだ待っています”



嗚咽した。この薄ボケたような「平和な日常のありがたさ」が身に沁みた。







また、毎年のことだが、とくにこの時期のテレビは見ない。それも山田バーを閉めてから、また、ますます見なくなった。先日、部屋の模様替えをした際、ついに我が部屋からTVチューナーが消えた。家には知らぬ間に「DVDが観られる装置とモニター画面」はパソコンも入れて数か所あるが、テレビ放送を視聴するにはリビングのテレビを見る他ない。

更に、そのテレビは普段から妻が占拠しており、我が家唯一の「民法放送を視聴できる装置」は「吉本新喜劇」や「花より男子」や「すちっち」や「コジコジ」の録画を見ていることになる。しかも、かなりの確率で「途中で寝てしまう」妻は、何度も何度も最初から見ることになる。「ワイドショー」など映り込む時間はない。ザマミロである。

ということで、気付けば家族の誰も「テレビ放送を見ていない日」が少なくない。昨日もTBSで特別ドラマをやっていたようだが、これも努めて見ないようにした。まあ、孫が騒ぐから、それどころではなかったのだが、ともかく、この時期だけはテレビ屋の流す毒電波など、頭の中に「情報」としても入れたくないのだ。不愉快が過ぎるのである。


今も昔もテレビでは「繰り返してはならない」という。そのために「忘れてはならない」ともいう。朝日新聞の社説と同じで、もう、読まなくてもわかるほどだ。今年の15日も朝日新聞はちゃんと<戦後65年にあたって考えるべきは、戦争を二度と繰り返さないという原点の確認とともに、「戦後」を問い直すことではないだろうか>と書いている。

来年はこの「65年」を「66年」に変えるだけでいい。安モンの小学生の夏休みの宿題、工作などと同じレベルだ。しかし、朝日新聞が可愛らしくないのは、そのあとに<冷戦下、西側の一員として安全保障と外交を米国に頼り、経済優先路線をひた走るという「昭和システム」は、確かに成功モデルだった。だが、時代が大きく変化した後も、私たちはそこから踏み出そうとはしなかった>などと他人事のように書いているところだ。放火魔に「火の不始末」を叱られているようで気分が悪い。



ま、ところで、朝日新聞に教えてもらわなくとも、今年は「戦後65年」である。広島の平和公園にある慰霊碑に刻んでいるように「過ちは繰り返しませぬ」と相変わらずのメディアはやるが、それを改めて問い直すとすれば、だ。



「繰り返してはならぬ」こととはなにか?と問えば、それは戦争だ!と答えるだろう。「忘れてはならぬ」こととはなにか?という問いには、それは戦争の悲惨さだ!とでもいうのだろう。それはそれで結構なことだが、ここにひとつ、大きな視点が欠落していることもわかる。頭のおかしい「戦争反対屋さん」における論理矛盾、破綻と換言してもいい。すなわち、今更に過ぎるが、日本の売国メディアのいう「戦争反対」など、その売国の手段のひとつに過ぎないということだ。

「繰り返さずに忘れないため」に行うべきは「なぜ起こったのか」を調査し「どうすれば防げるのか」を研究する他ない。原発事故であれ、伝染病であれ、飢餓であれ、自然災害であれ、およそ大量の人間を死に至らしめる「出来事」というものは、そういった人類の英知によって克服されたり、あるいは未然に防がれたりもしている。「人類の危機」を包含する「出来事」で放擲されているのは戦争と共産主義くらいなものである。

大東亜戦争に限っても、あの戦争はなぜ起こったのか?どうすれば防げたのか?などという著作は右も左も含めて馬に喰わせるほどある。専門の研究者も少なくない。だから、本当はある程度、わかってきている。しかしながら、それをメディアは論じない。「過ちは繰り返しませぬ」という過ちを繰り返してばかりで65年も過ぎた。

日本にいない「戦犯」を吊るし上げ、軍国主義、国枠主義が戦争へと突き進ませたのだ!と嘘ばかりやるから、日本の周囲は危険だらけのままになった。大東亜戦争においても白人のメンツと差別意識、不景気対策と政権維持のために仕掛けてきたアメリカは、簡単に勝てるはずだった日本を相手に、アメリカ財務省から「これ以上戦争するなら石を持って行け」と言われるまで疲弊した。そしてようやく、戦後のソ連をビビらせるため、且つ、黄色い人種で人体実験するがため、白人様の脅威を擦り込むために原爆を2発も落として、やっとの思いで日本をやっつけたら共産主義が出てきて困った。そのお陰で、せっかく戦争が終わったのに、アメリカ人はまだ、朝鮮半島やベトナムで死なねばならなかった。

アメリカは馬鹿だから、その後もイラクに攻め込んだりして困っているが、そもそも、大東亜戦争にしても、日本が「白人主義」と戦っているだけだと勘違いするからそうなる。ソ連をビビらせたいなら、せっかく作ったアメリカの原子爆弾はソ連に5発くらい落とすべきだった。その帰り道に1個くらい、間違って北京に落として「そーりー」といえばよかった。ならば、世界の平和はあと200年くらい保てたかもしれない。

そして日本国内において「戦争反対」とするには、先ず、その前提として「日本の」戦争を反対せねばならないから、大東亜戦争における「なぜ起こったのか?」は最重要テーマである。そこを「日本が侵略国だったから!」という馬鹿では話にならないというのだ。それはもう陳腐に陳腐を重ねて「日本があったから」まできた。「航空機の墜落事故の原因は航空機が空を飛んだから」に等しいバカバカしさである。

また、では「どうすれば防げるのか」に至っては「日本が武器兵器を持たねばいい」という稚拙である。「伝染病の蔓延を防ぐのには息もしないこと」に等しいアホアホしさであるが、これを真面目な顔してクスリともせず、政治家や学者先生が述べておられるのが、今の日本なわけだ。目玉焼きを作るのに拳銃はいらない、というくらいアメリカ人でも知っている。しかし、襲われぬためには拳銃が必要、だということも知っている。日本はとにかく、如何なる場合でも拳銃がいらない、という。もちろん、これではコソ泥も防げていない。日本人が金に困って強盗する程度、銀行や郵便局の警備に銃の携帯を許せばいいだけだ。確実に激減する。外国人犯罪も少しだけ減るだろう。



ま、ところで、

日本人が日本の戦争のことを考えるならば、実のところ、世界で最も優れた実例、非常に心にドスンとくる教材を先人たちは残してくれている。特攻だ。


あえていう。





日本の特攻隊は日本の将来における輝く希望である。







映画「俺は君のためにこそ死にに行く」があった。井筒が見もしないで「あんな映画見るのはアホ」と抜かして、主演の俳優から「見もせずに言うのはアホ」と斬り捨てられた映画だ。この「アホアホ対決」に関しては間違いなく「井筒がアホ」で決着しているが、ま、日本映画で「特攻」を扱ったものは少なくない。しかし、多くはやはり、重くて暗い話とされる。もちろん、軽くて明るい話でないことは当然だが、これを単なる「戦争の犠牲者」として重く暗く、日本の子供に教えるのは、もっと失礼な話であると思うわけだ。

「特攻隊」のことを日本の学校で教えるとき、それはまさに「沖縄集団自決」のように扱う。この平時の日本国内において生活する子供らをして、死ぬとわかっているのに飛行機を操縦して敵艦に体当たりして死んだ人がいる、とだけ教えたのちに皇室にふれ、日の丸と君が代を出してくるやり口だ。日教組の教員は、今なら泣く泣く「これじゃ北朝鮮と同じですね!」と心にもないことを言わねばならない。心中を察し、お見舞い申し上げる。

ちなみに、この映画「俺は君のために死にに行く」には知覧飛行場が出てくる。主人公はもちろん、特攻隊の青年たちだが、映画には鹿児島県知覧町にある「富屋食堂(現在は富屋旅館)」の鳥浜トメさんが重要な役割として登場する。残念ながら、平成4年に亡くなられた。いま、天国で439名の特攻隊員の子供たちと一緒に過ごされていることだろう。

また、映画では詳しく説明されていなかったが、学徒出陣の操縦士の青年らは「特攻」について親にも告げることが許されていなかった。「軍事機密」がその理由だが、日本が嫌いな人はこれを「決心が鈍るから」とか「親に止められたら困るから」だとする。もちろん、それもあっただろうが、しかし、もう少しだけ想いを馳せてみると、これ、青年らはいずれにしても「言えなかった」んじゃなかろうか、と思うのである。それは軍上層部から「軍の機密である!」とされたほうが楽だったほどではなかったか、と思うのである。

知覧に行く直前、偶然にも加古川で父親と面会した「板津忠正さん」という生き残りの方は「今度は台湾より遠いところに行くことになった」としか言えなかったという証言を残しておられる(親と子の日本史)。

沖縄戦だけでも特攻戦没者は2620名。平均年齢は実に21.62歳。最年少は私の倅の同じ年の17歳の少年が17名。鹿児島の知覧飛行場からは439名の特攻戦没者が飛び立った。今から65年前、日本の若者は日本の風景を何度も何度も振り返りつつ大空を飛び、その2時間ほど後には沖縄の海で散っていった。その前夜、彼らは富屋食堂の机で遺書を書く。自分が特攻するとは知らぬ親や子、そして妻に向けて――――



“俺は幸福だった。この幸福を胸に秘め敵艦めがけ轟沈する。俊一を立派な子に育てゝくれ。俊一は頼んだぞ、俊一はたのんだぞ。先立つ不孝を許せ。ではさやうなら、永久にさやうなら、さやうなら。最愛なる妻へ”      
大平誠志少尉 戦死後大尉 23歳





鳥浜トメさんは、富屋食堂で過ごしてから飛び立つ特攻隊員の「最後の姿」を綴り、その遺族の方々へ送るということをされていた。そのいくつかはトメさんの死後、富屋食堂に「遺品」として送り返されてきたものもある。「トメさんの遺品」として、だ。

中島豊蔵軍曹は出撃前にトラックから転落、右腕を捻挫する負傷をした。トメさんは、せめて「腕を養生してから行きなさい」と、富屋食堂の風呂場で背中を流してやりながら言ったとある。すると、中島軍曹は「自分らが早くいかないと、日本が負ける。おばさんこそ、養生してください」と言い放ち、なんと、自転車のチューブで右腕を操縦桿に巻きつけて出撃した。中島豊蔵軍曹、19歳であった。

トメさんは、中島軍曹の出撃前夜に「この世でいちばん欲しいものはなに?」と聞いたとある。トメさんはその答えを「遺族への手紙」にこう綴っている。




“卵の吸い物にシイタケを入れてほしいといいました。思うようにしてやりました”




また、トメさんが一度だけ「皆の前で大泣きした」とされるほど、可愛がられた特攻隊員のことも書いてある。光山文博少尉(戦死後大尉)24歳である。まだ、知覧基地が「陸軍飛行学校文教所」だったころの訓練生で、トメさんは、光山少尉を台所に立たせて手伝いをさせたり、食卓を一緒に囲んだりしていた。トメさんの娘さんは、光山少尉のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたとされる。そして、その光山少尉も昭和20年5月11日午前8時、袖に日の丸を縫い付けて、沖縄の海に散っていった。



ところで、私はよく「韓国人なのに日本人のことを知っている」とか言われて照れることがある。ネットを見ても、こんな拙ブログが紹介されていたりして「朝鮮人でも反日日本人より日本人」とか評されていたりするから、正直、悪い気はしない。しかしながら、ンなこたぁない、とこの場を借りて言っておきたい。私が朝鮮人なのに、日本人のことを想っている?とんでもない。ぜんぜん、そんなことはない。私など、こんな私など遠く及ばない。

なぜというに、この光山文博少尉は朝鮮人だからだ。本名を「卓庚鉉(タク・ギョンヒョン)」という。日本の女優、黒田福美とやらが「夢に出てきた」という理由で「どうぞ祖国にお帰り下さい、日本は悪かったです。韓国は日本の植民地でした」と言いながら追悼碑を建てようとして、地元韓国から非難轟々を浴びたことが、どれほど阿呆なのかも分かる。韓国の政治家は「彼は志願して日本兵になった。だから相応しくない」と反対の理由を述べたが、光山少尉は靖国神社で眠りながら「だから、いらんことをするなw」と黒田福美に文句を言いたいのではなかろうか。

光山少尉は先述の映画にも出てくる。「出撃前にアリランを踊る」あの青年将校だ。日本のために日の丸縫い付けて、沖縄の海で散華したこの英霊は朝鮮人である。朝鮮出身の日本人なのである。つまり、管政権はどこに向かって何の謝罪談話を出したのか。

仙谷は「(日本は韓国人の)名前を奪った」と抜かした。実にいい加減な話だ。黒田福美は沖縄の平和の礎をみて「漢字表記が間違っている」から夢に出てきたと言っている。沖縄にある戦没者の慰霊碑には「光山文博」という日本名は何処にも刻んでいない。刻んでいるのは「卓庚鉉」という朝鮮名だ。つまり、仙谷などのど左翼には、この腐った談話が命を賭して散華した朝鮮出身の日本の英霊に対し、どれほど無礼で、どれほど不敬なのかわかっているのだろうか。名前を奪ったのではない。日本名を名乗れるようにしただけだ。それが今に残る「通名」の名残ではないか。

光山少尉は「朝鮮という故郷を持つ日本人だった」それだけだ。私が死んだあと、私に断りもなく「故郷にお帰り下さい」とか言われて半島に墓でも作られたら化けて出るのと同じだ。


昭和20年12月、知覧に上陸してきた進駐軍は「隼」や「97式戦闘機」を、わざわざ積み上げて晒してから爆破処分した。よく「特攻隊なんて命中率7%だったんでしょww」と小馬鹿にする罰当たりの無知がいるが、おい、いいか?

「レイテ戦記」によれば「沖縄戦における特攻機の命中は133機」である。被弾して至近突入した戦闘機は含まれない。また、防衛省の戦史室にある資料(沖縄・台湾・硫黄島方面・陸軍航空作戦)には、沖縄戦での連合軍に与えた成果を「撃沈26隻」「損傷368隻」としている。連合軍艦隊は約1500隻だ。実に4分の1が損傷した。しかも、高性能のレーダーを具備し、猛烈な弾幕を張り巡らせていたわけだ。私がアメリカ人なら、こんな連中と戦争なんか二度としたくない。仲良くしたい。そして、その中の勇者に「朝鮮人もいた」ということを誇りたい。




冒頭の「朝の詩」が「特攻した兵隊さんの妻」かどうかはわからない。それでも日本人の男は行ったし、日本人の女は待ったのだ。大東亜戦争から、戦争というものが「なぜ起こったのか?」そして「どうすれば防げるのか」を学ぶことはできる。また、ならば「なにをすればよいか」もわかってくる。もちろん、それは「どう生きればいいのか」でもある。



今日、敗戦の日にも「朝の詩」があった。東京都の78歳の男性だ。




“遠い遠い 戦争に負けたあの日 一三歳の僕は 母と裏山の畑へ大根蒔きに行った

国が滅びて こんなこと無駄と 僕は畑に鍬を投げた

無駄でもいいと母は額に汗を光らせて 種を蒔いた

あれ以来 僕は母から 諦めない という人生訓を学んだ”





「朝の詩」の下の記事に目をやると、大見出しで「文科省幹部『日本人にも理解広がる』朝鮮学校生に無償化“保証”」とあった。香ばしいコーヒーの匂いを運んできてくれた妻に見せると「阿呆ちゃうか!」とプンスカ怒っていた。娘も「民主党~~やめて~」と嘆いていた。まだまだ「鍬を投げてはいけない」と思い直した敗戦の日であった。



2 コメント

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Unknown (久代千代太郎)
2010-08-16 03:53:55
>aさん

そうですね、英霊には感謝するほかありません。そして、護らねばなりませんね。今を生きる我々が。
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Unknown (a)
2010-08-15 20:26:05
君のために死にに行く・・・
私たち後世の人々の為に散華した英霊達には
言葉では語り尽くせぬほどの
感謝をしております。
それが朝鮮の人であろうが
この日本を護って下さった方なら私は
靖国に会いに行きます。
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