忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

腐ったミカンはともかく、タイは頭から腐る

2011年03月30日 | 過去記事

妻の職場の友人で「おかつ」と呼ばれる女性がいる。名字からのあだ名であるが、彼女は太っているから、私はその妹に「おハム」と名付けた。それでめでたく「ハムカツ姉妹」だと笑ったら、えらく気に入ったようで、互いに「カツ・ハム」と呼びあっている。喜んでもらえて光栄だが、先日、その姉のほう、すなわち「カツ」のほうが職場で怒っていたらしい。

原因は旦那だ。テレビを見ていると、旦那が「岩手県が被害に遭ったのは小沢なんか当選させているからだ。天罰だ」とやったそうだ。あんた、言って良いことと悪いことがあるデブ~!ということで夫婦喧嘩になった。ま、どこにでも不謹慎な言葉を吐く人はいる。

私の今の職場でも当然のようにいる。認知症の利用者さんが問いかけに答えない、ということで「放射能か?放射能でやられたんか?」とからかっていた。私は呆気に取られて茫然としたが、周囲は大爆笑だった。相変わらず、レベルの低さが窺える。

阪神淡路の震災でも「犠牲者数」で賭けに興じる馬鹿者がいた。「3000人超えた!」とかやって喜んでいるのがいた。私の部下だったら膝でも入れて悶絶させるのだが、それは商人さん、すなわちテナントさんだったから、私は「それ、何か面白いですか?」として、話の腰を折るのが精一杯だった。雰囲気が白けたのはともかく、その商人さんの雇われ職人が「んじゃ、店長さんよ、あんたは毛布でも送ったのか?」と問うてきたのには参った。

要するに偽善者だと言いたいわけだ。自分の身内が死んだわけでもないのに、何を良い人ぶって悲しんでいるふりなんかするのかと、テレビで被害状況を見ても、今日、あんたは家で晩飯を喰うのだろうと、明日も普通に仕事をして、終われば酒も飲むだろうと、それなら自分らと同じじゃないかと、救助活動もしないのに文句言うな、ということだ。

私はその5つ6つ年上の職人さんに対し「自分が面白くないと感じるのは自分の勝手でしょ?面白くない話だから、何が面白いのか聞いたんです。それに、そんなに面白いんだったら、明日のチラシにでも載せますか?死者行方不明者3000人突破セールとか?たぶん、近隣のお客さんも面白くないと思いますが?そういう面白くない話は家の中で、その話を面白いと思ってくれる仲間とだけでやったほうがいいですよ?」などと言ったところで商人さんが「まあまあ」ときた。危ないところだった。言い返されたらわからなかった。



私が言いたいのはデリカシーの問題だ。

見ず知らずの家が葬式やっていても悲しくなることはない。といって、嬉しくなるわけでもない。しかし、その家の前で馬鹿騒ぎしたりはしない。隣近所なら「ご愁傷さまでした」くらいは言うことになっている。はっきり言って、災害などを喩えて「天罰」だの「神風」だの「天の恵み」だのという人らはデリカシーが無い。懐かしいが「社長マン」レベルだ。

社長マンは以前、私の母親が心臓のバイパス手術を受けた際、どうにか助かりました、と報告した私に「さて、それでよかったと喜ぶのはどうかな?」として、年老いた親の面倒をみる大変さを説くほどの阿呆だった。地震や台風などの災害に遭い、辛うじて一命を取り留めた避難者に「さて、助かったほうがよかったのかな?」と言えばどれほどの阿呆なのかもわかるが、もっと阿呆なのはあの「揺れ」やら津波の「うねり」をみてテンションを上げ、俺たちはもっと揺さぶるぜ!とか、我々の行動力の「うねり」のようだ!とか抜かす阿呆である。もはや、死んだ方がいいぜよ。


デリカシーのない人間とは、その浅慮を自覚せず、ともかく「思いついたこと」を言いたくて仕方がない。周囲には「耳に心地よい連中」を揃えているから、誰も注意してくれたりしない。また、これは社長マンもそうだったが、単なるデリカシーの欠如をして「オレ様はなんでもはっきり言ってしまうのだ」と勘違いして悦に入る。しかしながら、それは決して、相手を選ばず常に正論を吐く、というものではなく、己の保身に影響することなら、瞬時にして何も言えなくなる。ウソでも何でも吐く。指針も大義も関係なく、いつでもどこでもだれとでも、耳に格好良い言葉を吐きながら、何も言い返せない相手を連れて歩く。ま、最低の部類に属する人間だ。こんなのが経営者や政治家になるから、この世は少しだけ病んでいる。止めた方がいいぜよ。




ンで、だ。

デリカシーとは「感情、心配りなどの繊細さ」などという意味でカタカナ語だ。語源やらは知らんが、なんとなく「デリケート」なんかを連想する。おそらく、そういう解釈のほうがしっくりくると思われるが、要するにデリケートな部分に触れる際「相手が傷つくかもしれない」がすっぽりと抜け落ちる。「誰かが傷つくかもしれない」など思考が及ばない。どこが、なにがデリケートなのかわからない。つまり、阿呆である。

すなわち、人間交際の原点である「相手の立場になって考える」ということが出来ない人間をいう。無論、人間とはどこまで行っても個人であるから、実際に「相手」になったりできない。ならば、そこは考えを及ばせる他ない。想像を巡らせる他ない。そうして「相手」や「誰か」の気持ちを察し、そのときに応じた立ち振る舞いをとるのが人間だ。

よく「なんと言ってよいかわからない」とか「かける言葉が見つからない」などという。これはデリカシーのある言葉で、つまり、あまりに悲惨なこと、悲しいこと、辛いこと、苦しいことなどに接したとき、人間は「相手の立場」にはなれないから、今のところ、想像が及ばないのだという心情を吐露しているのである。つまり「最低でも黙っている」というデリカシーある振舞いのことだが、これが浅慮、且つ、傲慢な人間にはわからない。

また、デリカシーのない人間が阿呆だという根拠は、普段の立ち振る舞いからもわかる。こういう人間は遠く広く考えることが出来ないから、いつも大したことを言わない、言えない。単なる「思いつき」と「閃き」の区別もつかない。社長マンは「飲酒検問情報を社員に調べさせて、それを客にマイクで放送するというのはどうだろう?携帯メールでも送るとか」とドヤ顔でやった。私が絶句していると「いや、パチンコで負けて帰る客が酒を飲む。それで捕まったら店に対する憎悪が倍になるんじゃ?お前もいつも、店からいろんな情報を発信したい、とか言ってたじゃないか」と「理由」も説明してくれた。これが50歳になろうかという、「経営哲学」という自叙伝を出そうかという経営者の頭の中だった。

今の日本は阿呆に振り回されている時間はないが、それでも現与党の幹事長は「さいたまアリーナには物資も食料もあり~な」とダジャレを決めたとか決めないとか笑われているが、笑えないのは10日ほど前「電力が不足している」と知って「ピーク時の電気代を2倍にすればいいんじゃ?」と言ってしまう阿呆さ加減である。


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110320/plc11032018240019-n1.htm
<岡田氏、計画停電ではなく電力の価格制限を>

<民主党の岡田克也幹事長は20日の「各党・政府震災対策合同会議」の実務者会合で、計画停電で制限している東京電力管内の電力供給について、計画停電に代えて価格制限を行うべきとの考えを示した。
 
岡田氏は、「計画停電は悪影響が大きいので、別の道を考えた方がいい」とした上で、「(電力消費量の)ピーク(時の使用量)カットと言っているのに、(総量規制で)そうでない時間も計画停電している。ピーク時の使用料を2倍に上げるなどの価格政策も考えるべきではないか」と述べた>





ピーク時の電力使用料金を2倍にすれば、それらの管理コストが嵩む企業は売価を見直すところも出てくる。ストックを持つことはリスクとなるから、商品も薄くなって価格が暴騰する可能性も高まる、となれば、今現在でも問題化している「買占め」なども悪化する、などということは数秒、普通の頭で考えればわかることになっている。

停電とはいえ、あくまでも「計画」に基づくわけであるから、ある程度の備えは出来るという前提で普通の頭の人は段取りをする。マスコミは町工場ばかり取材して「停電なら停電してくれよ」という工場長ばかりしゃべらせるが、その他多くの一般家庭は「中止」なら中止のほうが助かる。電力会社は提供できるならば提供することを優先させる。こんなの当たり前ではないか。

と、思えば、今度は「学校のプールにガソリン貯めればいいんじゃね?」という馬鹿も出た。これも政治家だというから始末が悪い。


【東日本大地震】民主党 「ガソリンをプールに貯めようと検討した」



書くのも馬鹿らしいが、一般的にガソリンとは「第一石油類」に分類される液体燃料のことだ。引火点は-40℃で発火点は300℃とされる。しかも、怖いのは「量」である。コップ一杯分のガソリンでは燃えなくとも、これがバケツ一杯なら引火する可能性は高くなる。青空の下、学校のプールにポリタンクが並ぶところを想像して欲しい。そりゃもう、ただの爆弾だ。

また、三宅雪子は知らなかったらしいが、ガソリンスタンドでも「ガソリンの持ち帰りは出来ない」ことも常識である。これは消防法に定められた専用の携行缶であっても「ダメ」だと叱られる。ちなみに、一定量以上のガソリンの貯蔵も各市町村に届け出が必要だし、その際、もちろん危険物取扱資格も要する。なぜか?

言うまでもない。危険だからだ。ガソリンは空気があれば引火する可能性がある。静電気で引火する事故もあった。いずれにしても、だ。

「電気が足りない→料金2倍でどうよ?」
「ガソリンが足りない→学校のプールに貯めれば?」

「おかつ」の旦那さんのように、だ。こういうデリカシーのない阿呆どもは、何か思いついても自宅で嫁はん相手に言っておればいいのに、これをテレビで言ったり、人前で言ったりするから笑われる。しかし、これが現政権与党の幹事長、国対委員長だというから、この政権はガソリンプールより危ない。



http://www.asahi.com/politics/update/0329/TKY201103290428.html
<首相の原発視察「初動ミス」 野党が追及、首相は反論>



私は15日、このブログで<事実、スリーマイルアイランドの事故では「最初の3時間」が最も危険な状態だった、と現在ではわかっている>と書いた。
「狭い日本のサマータイムブルース」


それは今回の福島第一原発の事故でも同じことで、そう考えるとやはり、菅直人の「視察」は問題だった。記事を読むだけでも<首相は12日午前1時半にベントを決定し東電に指示>とあるが、その日の午前7時過ぎにヘリコプターで現地入りして50分以上「視察」したとあるからわけがわからない。<東電がベントに着手したのは、首相が原発を離れた午前9時過ぎになってからだった>というのも仕方のないことだ。菅直人がウロウロしているのに放射性物質を含む蒸気を放出するわけにもいかんだろう。

「現場の無能」は放っておけばいい。タイミングを見て切ればいい。しかし、「トップが無能」は救えない。さらには「焦った無能のトップ」やらは、その無能が無知やら無自覚と融合してメルトダウンを起こす。トラブル時には馬鹿に説明する時間も惜しい。しかし、権限を振りかざして口を差し込んでくるし、ヒマだから現場にも来る。懸命に作業する人らに話しかけたり、説明を求めたりして手を止める。屁の役にも立たないのに、現場では指揮官の顔でウロウロする。百害あって一利なし、せめて専門家の言う通りに指示命令を下していればよいものを、自分が馬鹿だと思われるのがたまらないから、わかった顔で現場を困らせる。被害は拡散し、状況は悪くなる。

「任せる」というのも決断だ。「わからない」ことや「知らないこと」はあって然るべきだが、こういう無能は「知ってなければならないこと」すら知らないから、こういう大事な時に最善足る「知らないから任せる。だが、責任は全て私が持つ」が言えない。すなわち「トップの器」ではない。これが最悪なのだ。


こういう場合、企業なら倒産するし、軍隊なら全滅する。医者なら患者は死ぬし、パイロットなら墜落させる。2009年の夏、本当に、本当に日本の有権者は大変な選択をした。


3 コメント

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こちらこそ! (二代目弥右衛門+ハゲリーマン=三田ライト)
2011-04-04 11:02:26
是非よろしくお願いします!
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Unknown (久代千代太郎)
2011-04-02 22:38:59
>二代目弥右衛門さん

「人の気持ちがよくわかる男・西日本NO1」の二代目弥右衛門さんに相談があります。

鍋でも喰いながら・・・・頼みます(泣)。
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デリカシー (二代目弥右衛門→)
2011-04-01 16:09:42
政治家にとって必要不可欠な素養は色々あるらしいですが、僕が思うに「人の気持ちがわかるかどうか」こそ不可欠だと思います。

デリカシーのない政治家は国民を傷つけるだけ。
反面教師に学びました(笑)

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