個人的な記録起こしであります。(興味外で構いません)
少々唐突だけれども、もはや証明できるものも残っていかないことがわかっていることから、こんなところで祖父母のこともふれてしまおうかと。
私が生まれたときには父方の祖父母は存命ではなかった。
祖父は大分から東京に出て郵政省などの政府役人をしていて、父はまず東京で生まれ育っている。
父の母(祖母)は千葉に家系がある。父がまだ6歳くらいで病死。美人ということになっている。
祖父は第二次世界大戦のころか、(広島とりやめの?)熊本に赴任になり、
父は(同窓会好きの)高校で、地方優等枠で来ていた母と出会った。
東京の家は、戦時中焼けてしまう。場所はサントリーホールのあたりとあとで言っていたが定かではない。今ではまったく記憶を入れ替えられたようでもう父には確認がとれないが、焼けたときには住んでいなかったのだろうか。
戦中の混乱期の移動等を時系列で聞いていないが、
食事量の差で命にかかわるようなときに父のきょうだいは分けて預けられた。
父が子どものときに、祖父の実家かその関係のところである大分に住んだのだ。
その辺をちょっとだけ訪ねたことがあるが、話をしていた女性など、とても利発で感じのいい方々がおられるなと思った。戦中、意地張ってがんばっていた父の印象やエピソードだけではわからぬものだ。
その後現地訪ねて、父が「おかしい」「ここから・・・がない」となんべんも歩き倒してから、区役所に行って確認すると、消えています・・土地(住所)と名前すべてにバツがうってある。
そういうときって、頭の処理が追い付かないのか、現実的に考えられないのか、
単に、普通なら目にすることの無い記載だけへのショックしかなかったかもしれない。
父は非常時を慣れすぎているからか、反応ないものの、理由を別につけてしまおうとしていた。
私にしても、普通なら無い経験はけっこう豊富で、漠然と今度は?みたいな。
村主(庄屋っていったかな)だったんだ-以外に受け止めがわからないまま旅行は続いた。
祖父の実家のことで長くなってしまったが、
同じ熊本でも都市部とそうでないところでは、空襲や食料事情にそうとう差があったらしい。熊本で父は町中を覆った戦火から逃げ、芋のようなご馳走にはありつけなかった。
祖父は父が大学で東京にいるときに亡くなった。死因も、父がこじつけようとしていただけだったとすると、不明。
母方の私の祖父は、私の生まれた頃 倒れて、その後の半身不随の影響で口が動かせない、おとなしい祖母とともに、私とは何ら話をしていない。
(でも、祖父に描いた絵をみせてたとき、言葉にはまったく聞けなかったが指で示した箇所を見て、何を言われていたのかだいたい解ったつもり・・はあった。祖父は精巧な物を何でもセンス良く作ってしまう卓越した人だった。多くの有名どころの書や掛け軸、美術品など家財も相当多かったのに、台風や地震のときまでに殆ど盗まれて失ったという。我が家もで、さもありなんだけど。
二人とも苦しんで亡くなったし、お別れはそれぞれ心残りあまりある。正確な時期が早くから記憶できていないけれど、一番最後のおばあちゃん(祖母)で70台になったばかりの、私が中学生のとき(高校受験時)だった。)
倒れる直前には大事にしていた日本刀を騙し盗られたからショックだったのかと聞いている。
そういえば両親からは独身時代までに、盗まれた、返ってこないなどの話はよく出てきたのに、私まわりで起こる被害事は、重要なのに限って、極端に放置、無頓着というか・・であった。まあ、私も機嫌を損ねたくないから申告していない。
母方の祖母の実家もどうも大きいし、祖父の兄弟も東京(政府関係で)つながりがあるらしい。
両親とも、妙に親戚情報が家庭にはいってこない運びであった。
夫婦間の変な遠慮の応酬がおもな原因だけれども、
今にして思えば、情報が伝わらないようにされていた場面に心当たりがある。
分断される方法として、似た傾向を認めている。
私は、父の仕事の都合で関西生まれ。生まれてから2年ほどで隣の県に引越し。
出身は何県?に・・・答え方迷うって話(?)
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