gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

進路が真実味をもってせまるとき

2013-03-21 09:18:12 | 無題
私は高校は進学校と呼べる程のところじゃなかった。


塾とか行っていなかったし、

小学校のころから塾に通って進学高校へ行った人たちは、

将来すごい大学へ行って、

きっと上場企業へいくんだろうなぁと思っていた。


それは羨望と、悔しさの混じったものだった。

それを糧にしてかなんか、

進学校ではない高校にいながらも、

私はまじめに学校生活を送った。

試験前はそれなりに勉強もした。

受験のときのため―という考えは、そのときはあまりなかった。

でも、いざ進路をどうしようという時期になったとき、

自分のやってきたことによって、今いる立ち居値なら、

ある程度は選べることに気づいた。

やりたいことや、興味のあることに考えを巡らせ、

資料を見たりした。

そこで、はっと気づいた。

より上(とよばれる方)に行けば、

その後の進路の選択又が、より自由になるんだと。


私の周りにいた大人たちは、

大人になった今なら当たり前に思えることも、

教えてくれなかった。


勉強をした方がいいとか、

あなたの学力ならこことか、

漠然だったり、機械的だったりした。

そんな論理立てて、社会の、実社会の現状というものを、

教えてくれた人はいなかった。


ただ、母が大学へ行った方がいいということだけは、

ぎゃーぎゃーと騒いでいたから、

一時期、進学しない(―ちょっと前の時代なら、それもありの時代だった。

でも私の時代にはもう進学するのが当たり前というか、そうした方が得策の時代になっていた。)

ことを視野に入れて、

「進学しないかな」と軽くまだ言ってみた段階の私は、

「そんなの絶対にダメ!」と騒いだ母に驚いて、

進学するのは絶対を視野に入れた。


母はそのときには、もうお金を出すのをすごく渋る人だったし、

たしか幼稚園ぐらいのときに、大学ってなに?という話をした際に、

行っても行かなくてもどっちでもいいみたいな話だった気がしたから、

そんなにいうなんて、意外に感じた。


専門学校は就職に有利とか、手に職がつくという言葉から、

専門学校も視野に入れてよいことになったが、

母は、できたら大学へ行ってほしいと行っていた。


しかしこれは、あとから実体験として社会に出て感じるのは、

専門学校=就職に有利というわけではないということだ。

デザイナーだって、慶應出身の有名な人がいるだろう。

しかも企画から関わりたいとなったら、

それこそ、大学を出ている人の方がそのポジションに流れで就きやすいのだ。

そして慶應ぐらい出る人なら、

企画の人としての総合的な幅広い見解から、

実際に手を動かす人が必要な技術も独学でなんとか身につけてしまうてらいがある。

そんなわけで、慶応の人という学科が全く違うところから、

デザイナー&企画もやりますみたいな超有名人ができてしまうのだ。


なによりも、専門学校の授業の質は、

カリキュラムと、その教える先生の意欲もさることながら、

学ぶ本人が、なぜこの課題が出されているのかという、

課題の意図を汲み取り、それを解釈した上で、

どのように仕上げればいいのか、

そして、この課題で自分は何を身につけて行くことを目標とするのか。


くだらないような容易い課題から、

先生の気まぐれのような難解な課題まで、

目的意識を持って取り組むことが大事なのだ。


しかし高校を出たばかりの18歳ぐらいは、

―といってもこれは年齢のせいではなく、

まわりの環境がお金をかせぐという現実社会が見直に鳴く、

大人が教えないためだが。―

その課題がなにを意味しているのか、わからない。

自分の行きたい業界のことも調べてみるが、ふんわりとしか伝わって来ない。

まるでおとぎ話が見え隠れするみたいに。

だから課題と、社会に出てからこれがなにに役に立つのか、

またこんなくだらない課題を、社会に出てからどう活かせばいいのか、

考える余地もないのだ。


課題と社会は結びつかない。

高校の数学が実社会で結びつかないであろうとおぼろげに感じる感覚のように。


しかし、社会や、その業界を知っている人ならわかる。

くだらない基礎学習や、基礎訓練。

自分はもう知っている、ソフトの使い方の授業時間で、

自分はなにを目標にして、その時間を有意義化すればいいのか。

捉え方や、ちょっとした意識の違いで、

くだらない授業も、社会に出たときに役立つ技術に、

おもしろい授業も、ただその場だけ点を取れればいいというものにするのではなく、

実社会に出たときも活用できるものに、

なるのだ。


学生時代、出された課題をとりあえず点が取れるものを目指して取り組んだことはないだろうか?

また、締め切りがありながら、ダラダラとしてしまったことはないだろうか?

はたまた、合格点が取れればいいやと、

他人には見せられないけどというものを提出したことはないだろうか?

学生はこれが多い。


課題1つ、1つをまるで売っているもののようなクオリティを目指して作れば、

基礎課題だったとしても、

なにかのときにポートフォリオに載せられる。


もちろんその後の課題も、そのような勢いで取り組むのだから、

あとの方の制作物の方がクオリティも上がり、

最初の頃つくったものなんて、載せたくないやと、

自分の評価の目が言うのだが。

たまたまプロダクトデザイン的なことを、

基礎のときにやったけど、自分はグラフィック専攻だから、

その後はプロダクトデザイン的なことは課題でやっていないとする。

けれど、卒業間近になって、プロダクトへ就職したいとなったとき、

その課題でやったプロダクトデザイン的制作物を、

ポートフォリオに載せられるのである。


そんの初期の稚拙なものなど、載せるべきでないという意見もあるだろうが、

稚拙かどうかはやってみないとわからないわけだし、

就職に向けて、課題もこなしつつ就活の準備をする忙しさの中では、

1つでも助けになる作品が、自分の手元に既にある状態が、

非常に助かるのだ。


卒業間近の専門学生の中には、

課題も載せられないし、でもやる気もそんな出ないし、

急にやる気出てきたけど、もう時間的に絶対無理><;

みたいになっている人がいると思う。


そして先生に、どうするの?とか、

ほらやらないと、とか言われて、

しまいには若干見捨てられたように、

相手にされなくなっていく

(ちゃんと見てくれなくなる

もうダメだなこいつみたいな)

と、ああ、自分ダメなのかなぁみたいな、

そんな雰囲気に飲み込まれて、

どんどん腐っていってしまう。



そうでなく、勝ち組のように、

さっそうとポートフォリオを立派なものに仕上げ、

自己分析もして、自分の行きたい業界を絞り込める、

あのキラキラした人はなんなのかというと、

瞬時に作品を作れる天才的芸当を持っている人か、

入学当初、もしくは出遅れたとしても、間に合う段階で、

課題や、一回一回の制作するものへ対する意識が、

先に述べたように、目的あるものになっていた人だ。



だけど、

その勉強が、目指す業界で、どんな風に、どんな位置で役立つかなんて、

大変意外だか、だれも教えてくれない。

教えてくれたとしても、

「まぁ、会社によるけどね。」とか、

「今はどうかわからないけど。」といった、

大変曖昧模糊な、やはりおとぎの国の話のようにされてしまうのである。

だからなんとなく、ふわ~っと課題をこなして、

面接官に見せられる程ではないけど、

課題としては合格のできという、

ほわ~っとしたものができてしまうわけだ。




進学校→安泰とはかぎらない―同級生と友達

2013-03-21 08:10:35 | 無題
公立学区1じゃないと、

進学校と呼ばれているところでも、

一流大学へ行けるわけじゃないんだな・・・。


意外で、唖然としている。


公立学区1でも私と同じくらいか、

それ以下の大学や進路へ進んでいる人もいる。


でもやっぱり公立学区1で進学大学じゃなかった人は、

盛り返しなのか、有名どころに就職しているなぁ。


思ったより6大学へ行った人が少なくて、唖然とした。


私立の進学校へ行った人は(それ自体が多くは確認できなかったけど)

やっぱり慶應、そのあと超有名上場企業に就いてた。


女の子で花形街道を進んでいる人を見かけられなかったのが、

ちょっと残念だった。


学歴明かさないで、外国人の友達ばかりいる人は、

あやしい人に見える。

ただの外国好きというか。



でも知っているそういう人で、外国人の友達が多い人は、

慶應出て留学したりしている人だったりする。


そこそこの大学でてるなら、

大学名明かした方が、あやしさがなくていいかも。



大学で友達を作らなかったのは、もったいなかったな。

家から遠いし、他にやりたいことがあって、

友達”つき合い”で、一緒に行動するのがめんどくさくて、

お昼よく誘われたけど、別に話す訳でもない、

私が話題提供するみたいな変な状況で、

お昼休みは図書館へ行ったり、宿題を早目に終わらせたかったり、

家にまだなかったインターネットで調べものをしたかったりしたかったから、

無理に一緒にいるのをやめた。


お昼の時間になると、食堂の前で待ち伏せして、

一緒に食べよ!って言ってくるくせに、

なんにもしゃべらない。


お昼休みに話すネタもつきて―出身地がどことか、

一人暮らしはどうとか。

その人から私へ質問してくることもないし、

なんなんだろう?これ。と思った。


他にも声かけてきた2人組がいたけど、

似たような感じ。

2人が話しているのを、私は話を振られることもなく、

意見を聞かれることもなく、

2人が決めたことに合わせて次どこへいくとかなる。

はぁ?と思って、だんだんばからしくなって、

2人を避けるようになった。

お昼ご飯が終わったら、じゃぁ、用事あるからっていって、

抜け出した。

誘っといてなんなの?と。

あんたらのとりまきする暇ないんだけど。

と思った。


そんなこんなしていたら、

クラスの人になんかコソコソ言われたみたいで?

全体的にクラスの人と馴染みにくくなった。

私の方から声かけたのに、

よそよそしくなったみたいに言われてたっぽい。

その場ではどうでもよかったし、

マジで他にしたかったことに夢中になってたから、

それで、それはよかったんだけど。


もうちょっとうまいこと、

それなりの友達というか、

社会人になってからも、たまには連絡取り合えるような、

そんな友達―Facebook上でたまに見かける友達同士…

みたいなのが、ほしかったなぁと思った。


でもそのときは、友達つき合いも、めんどくさくなっていた。



趣味ないからなぁ。

友達つくるのって難しい。

有名+一芸=悪い面は見えないみたい

2013-03-21 04:48:19 | 無題
なんで、あんな意地の悪い生徒会長が、

みんなから人気があったかわかった。


小さい頃(7歳)からその楽器をはじめて、

幼い頃より数多くの舞台TVで演奏活動を開始していたからだ。

だから、クラスでは知る人ぞ知る存在で、

取り巻きもいっぱいいたんだ。

大してかわいくもないのにかわいいって言われていたし。

なんだろう?気持ち悪いっって思ってたけど、

そういうことか。

すごい意地悪くて、なのに生徒会長で、そして取り巻きがいっぱいいて、

なるべく関わりたくない、嫌いだった。


一芸に秀でていて、有名人だと、

まわりがチヤホヤするよな。

なんかのスポーツとかでも、そんなにかわいくない人も、

かわいいかわいいって言われるし、

一芸に秀でているだけで、他の面は許されるっていうか、

他の悪い面はまるで見えないみたいに持ち上げる人は持ち上げるよな。

有名であれば、あるほどそうだ。



でもよかった。

人生のなかの納得いかない不可解な点が1つ解決できた。