私は高校は進学校と呼べる程のところじゃなかった。
塾とか行っていなかったし、
小学校のころから塾に通って進学高校へ行った人たちは、
将来すごい大学へ行って、
きっと上場企業へいくんだろうなぁと思っていた。
それは羨望と、悔しさの混じったものだった。
それを糧にしてかなんか、
進学校ではない高校にいながらも、
私はまじめに学校生活を送った。
試験前はそれなりに勉強もした。
受験のときのため―という考えは、そのときはあまりなかった。
でも、いざ進路をどうしようという時期になったとき、
自分のやってきたことによって、今いる立ち居値なら、
ある程度は選べることに気づいた。
やりたいことや、興味のあることに考えを巡らせ、
資料を見たりした。
そこで、はっと気づいた。
より上(とよばれる方)に行けば、
その後の進路の選択又が、より自由になるんだと。
私の周りにいた大人たちは、
大人になった今なら当たり前に思えることも、
教えてくれなかった。
勉強をした方がいいとか、
あなたの学力ならこことか、
漠然だったり、機械的だったりした。
そんな論理立てて、社会の、実社会の現状というものを、
教えてくれた人はいなかった。
ただ、母が大学へ行った方がいいということだけは、
ぎゃーぎゃーと騒いでいたから、
一時期、進学しない(―ちょっと前の時代なら、それもありの時代だった。
でも私の時代にはもう進学するのが当たり前というか、そうした方が得策の時代になっていた。)
ことを視野に入れて、
「進学しないかな」と軽くまだ言ってみた段階の私は、
「そんなの絶対にダメ!」と騒いだ母に驚いて、
進学するのは絶対を視野に入れた。
母はそのときには、もうお金を出すのをすごく渋る人だったし、
たしか幼稚園ぐらいのときに、大学ってなに?という話をした際に、
行っても行かなくてもどっちでもいいみたいな話だった気がしたから、
そんなにいうなんて、意外に感じた。
専門学校は就職に有利とか、手に職がつくという言葉から、
専門学校も視野に入れてよいことになったが、
母は、できたら大学へ行ってほしいと行っていた。
しかしこれは、あとから実体験として社会に出て感じるのは、
専門学校=就職に有利というわけではないということだ。
デザイナーだって、慶應出身の有名な人がいるだろう。
しかも企画から関わりたいとなったら、
それこそ、大学を出ている人の方がそのポジションに流れで就きやすいのだ。
そして慶應ぐらい出る人なら、
企画の人としての総合的な幅広い見解から、
実際に手を動かす人が必要な技術も独学でなんとか身につけてしまうてらいがある。
そんなわけで、慶応の人という学科が全く違うところから、
デザイナー&企画もやりますみたいな超有名人ができてしまうのだ。
なによりも、専門学校の授業の質は、
カリキュラムと、その教える先生の意欲もさることながら、
学ぶ本人が、なぜこの課題が出されているのかという、
課題の意図を汲み取り、それを解釈した上で、
どのように仕上げればいいのか、
そして、この課題で自分は何を身につけて行くことを目標とするのか。
くだらないような容易い課題から、
先生の気まぐれのような難解な課題まで、
目的意識を持って取り組むことが大事なのだ。
しかし高校を出たばかりの18歳ぐらいは、
―といってもこれは年齢のせいではなく、
まわりの環境がお金をかせぐという現実社会が見直に鳴く、
大人が教えないためだが。―
その課題がなにを意味しているのか、わからない。
自分の行きたい業界のことも調べてみるが、ふんわりとしか伝わって来ない。
まるでおとぎ話が見え隠れするみたいに。
だから課題と、社会に出てからこれがなにに役に立つのか、
またこんなくだらない課題を、社会に出てからどう活かせばいいのか、
考える余地もないのだ。
課題と社会は結びつかない。
高校の数学が実社会で結びつかないであろうとおぼろげに感じる感覚のように。
しかし、社会や、その業界を知っている人ならわかる。
くだらない基礎学習や、基礎訓練。
自分はもう知っている、ソフトの使い方の授業時間で、
自分はなにを目標にして、その時間を有意義化すればいいのか。
捉え方や、ちょっとした意識の違いで、
くだらない授業も、社会に出たときに役立つ技術に、
おもしろい授業も、ただその場だけ点を取れればいいというものにするのではなく、
実社会に出たときも活用できるものに、
なるのだ。
学生時代、出された課題をとりあえず点が取れるものを目指して取り組んだことはないだろうか?
また、締め切りがありながら、ダラダラとしてしまったことはないだろうか?
はたまた、合格点が取れればいいやと、
他人には見せられないけどというものを提出したことはないだろうか?
学生はこれが多い。
課題1つ、1つをまるで売っているもののようなクオリティを目指して作れば、
基礎課題だったとしても、
なにかのときにポートフォリオに載せられる。
もちろんその後の課題も、そのような勢いで取り組むのだから、
あとの方の制作物の方がクオリティも上がり、
最初の頃つくったものなんて、載せたくないやと、
自分の評価の目が言うのだが。
たまたまプロダクトデザイン的なことを、
基礎のときにやったけど、自分はグラフィック専攻だから、
その後はプロダクトデザイン的なことは課題でやっていないとする。
けれど、卒業間近になって、プロダクトへ就職したいとなったとき、
その課題でやったプロダクトデザイン的制作物を、
ポートフォリオに載せられるのである。
そんの初期の稚拙なものなど、載せるべきでないという意見もあるだろうが、
稚拙かどうかはやってみないとわからないわけだし、
就職に向けて、課題もこなしつつ就活の準備をする忙しさの中では、
1つでも助けになる作品が、自分の手元に既にある状態が、
非常に助かるのだ。
卒業間近の専門学生の中には、
課題も載せられないし、でもやる気もそんな出ないし、
急にやる気出てきたけど、もう時間的に絶対無理><;
みたいになっている人がいると思う。
そして先生に、どうするの?とか、
ほらやらないと、とか言われて、
しまいには若干見捨てられたように、
相手にされなくなっていく
(ちゃんと見てくれなくなる
もうダメだなこいつみたいな)
と、ああ、自分ダメなのかなぁみたいな、
そんな雰囲気に飲み込まれて、
どんどん腐っていってしまう。
そうでなく、勝ち組のように、
さっそうとポートフォリオを立派なものに仕上げ、
自己分析もして、自分の行きたい業界を絞り込める、
あのキラキラした人はなんなのかというと、
瞬時に作品を作れる天才的芸当を持っている人か、
入学当初、もしくは出遅れたとしても、間に合う段階で、
課題や、一回一回の制作するものへ対する意識が、
先に述べたように、目的あるものになっていた人だ。
だけど、
その勉強が、目指す業界で、どんな風に、どんな位置で役立つかなんて、
大変意外だか、だれも教えてくれない。
教えてくれたとしても、
「まぁ、会社によるけどね。」とか、
「今はどうかわからないけど。」といった、
大変曖昧模糊な、やはりおとぎの国の話のようにされてしまうのである。
だからなんとなく、ふわ~っと課題をこなして、
面接官に見せられる程ではないけど、
課題としては合格のできという、
ほわ~っとしたものができてしまうわけだ。
塾とか行っていなかったし、
小学校のころから塾に通って進学高校へ行った人たちは、
将来すごい大学へ行って、
きっと上場企業へいくんだろうなぁと思っていた。
それは羨望と、悔しさの混じったものだった。
それを糧にしてかなんか、
進学校ではない高校にいながらも、
私はまじめに学校生活を送った。
試験前はそれなりに勉強もした。
受験のときのため―という考えは、そのときはあまりなかった。
でも、いざ進路をどうしようという時期になったとき、
自分のやってきたことによって、今いる立ち居値なら、
ある程度は選べることに気づいた。
やりたいことや、興味のあることに考えを巡らせ、
資料を見たりした。
そこで、はっと気づいた。
より上(とよばれる方)に行けば、
その後の進路の選択又が、より自由になるんだと。
私の周りにいた大人たちは、
大人になった今なら当たり前に思えることも、
教えてくれなかった。
勉強をした方がいいとか、
あなたの学力ならこことか、
漠然だったり、機械的だったりした。
そんな論理立てて、社会の、実社会の現状というものを、
教えてくれた人はいなかった。
ただ、母が大学へ行った方がいいということだけは、
ぎゃーぎゃーと騒いでいたから、
一時期、進学しない(―ちょっと前の時代なら、それもありの時代だった。
でも私の時代にはもう進学するのが当たり前というか、そうした方が得策の時代になっていた。)
ことを視野に入れて、
「進学しないかな」と軽くまだ言ってみた段階の私は、
「そんなの絶対にダメ!」と騒いだ母に驚いて、
進学するのは絶対を視野に入れた。
母はそのときには、もうお金を出すのをすごく渋る人だったし、
たしか幼稚園ぐらいのときに、大学ってなに?という話をした際に、
行っても行かなくてもどっちでもいいみたいな話だった気がしたから、
そんなにいうなんて、意外に感じた。
専門学校は就職に有利とか、手に職がつくという言葉から、
専門学校も視野に入れてよいことになったが、
母は、できたら大学へ行ってほしいと行っていた。
しかしこれは、あとから実体験として社会に出て感じるのは、
専門学校=就職に有利というわけではないということだ。
デザイナーだって、慶應出身の有名な人がいるだろう。
しかも企画から関わりたいとなったら、
それこそ、大学を出ている人の方がそのポジションに流れで就きやすいのだ。
そして慶應ぐらい出る人なら、
企画の人としての総合的な幅広い見解から、
実際に手を動かす人が必要な技術も独学でなんとか身につけてしまうてらいがある。
そんなわけで、慶応の人という学科が全く違うところから、
デザイナー&企画もやりますみたいな超有名人ができてしまうのだ。
なによりも、専門学校の授業の質は、
カリキュラムと、その教える先生の意欲もさることながら、
学ぶ本人が、なぜこの課題が出されているのかという、
課題の意図を汲み取り、それを解釈した上で、
どのように仕上げればいいのか、
そして、この課題で自分は何を身につけて行くことを目標とするのか。
くだらないような容易い課題から、
先生の気まぐれのような難解な課題まで、
目的意識を持って取り組むことが大事なのだ。
しかし高校を出たばかりの18歳ぐらいは、
―といってもこれは年齢のせいではなく、
まわりの環境がお金をかせぐという現実社会が見直に鳴く、
大人が教えないためだが。―
その課題がなにを意味しているのか、わからない。
自分の行きたい業界のことも調べてみるが、ふんわりとしか伝わって来ない。
まるでおとぎ話が見え隠れするみたいに。
だから課題と、社会に出てからこれがなにに役に立つのか、
またこんなくだらない課題を、社会に出てからどう活かせばいいのか、
考える余地もないのだ。
課題と社会は結びつかない。
高校の数学が実社会で結びつかないであろうとおぼろげに感じる感覚のように。
しかし、社会や、その業界を知っている人ならわかる。
くだらない基礎学習や、基礎訓練。
自分はもう知っている、ソフトの使い方の授業時間で、
自分はなにを目標にして、その時間を有意義化すればいいのか。
捉え方や、ちょっとした意識の違いで、
くだらない授業も、社会に出たときに役立つ技術に、
おもしろい授業も、ただその場だけ点を取れればいいというものにするのではなく、
実社会に出たときも活用できるものに、
なるのだ。
学生時代、出された課題をとりあえず点が取れるものを目指して取り組んだことはないだろうか?
また、締め切りがありながら、ダラダラとしてしまったことはないだろうか?
はたまた、合格点が取れればいいやと、
他人には見せられないけどというものを提出したことはないだろうか?
学生はこれが多い。
課題1つ、1つをまるで売っているもののようなクオリティを目指して作れば、
基礎課題だったとしても、
なにかのときにポートフォリオに載せられる。
もちろんその後の課題も、そのような勢いで取り組むのだから、
あとの方の制作物の方がクオリティも上がり、
最初の頃つくったものなんて、載せたくないやと、
自分の評価の目が言うのだが。
たまたまプロダクトデザイン的なことを、
基礎のときにやったけど、自分はグラフィック専攻だから、
その後はプロダクトデザイン的なことは課題でやっていないとする。
けれど、卒業間近になって、プロダクトへ就職したいとなったとき、
その課題でやったプロダクトデザイン的制作物を、
ポートフォリオに載せられるのである。
そんの初期の稚拙なものなど、載せるべきでないという意見もあるだろうが、
稚拙かどうかはやってみないとわからないわけだし、
就職に向けて、課題もこなしつつ就活の準備をする忙しさの中では、
1つでも助けになる作品が、自分の手元に既にある状態が、
非常に助かるのだ。
卒業間近の専門学生の中には、
課題も載せられないし、でもやる気もそんな出ないし、
急にやる気出てきたけど、もう時間的に絶対無理><;
みたいになっている人がいると思う。
そして先生に、どうするの?とか、
ほらやらないと、とか言われて、
しまいには若干見捨てられたように、
相手にされなくなっていく
(ちゃんと見てくれなくなる
もうダメだなこいつみたいな)
と、ああ、自分ダメなのかなぁみたいな、
そんな雰囲気に飲み込まれて、
どんどん腐っていってしまう。
そうでなく、勝ち組のように、
さっそうとポートフォリオを立派なものに仕上げ、
自己分析もして、自分の行きたい業界を絞り込める、
あのキラキラした人はなんなのかというと、
瞬時に作品を作れる天才的芸当を持っている人か、
入学当初、もしくは出遅れたとしても、間に合う段階で、
課題や、一回一回の制作するものへ対する意識が、
先に述べたように、目的あるものになっていた人だ。
だけど、
その勉強が、目指す業界で、どんな風に、どんな位置で役立つかなんて、
大変意外だか、だれも教えてくれない。
教えてくれたとしても、
「まぁ、会社によるけどね。」とか、
「今はどうかわからないけど。」といった、
大変曖昧模糊な、やはりおとぎの国の話のようにされてしまうのである。
だからなんとなく、ふわ~っと課題をこなして、
面接官に見せられる程ではないけど、
課題としては合格のできという、
ほわ~っとしたものができてしまうわけだ。