31歳女性が家で餓死したニュースのコメントがすごい。
日本人って、お金に困っても「くれ」って言えない、
人に迷惑を掛けることに引け目を感じる、申し訳ないって思うのが日本人。
とか、
こういう人に生活保護を支給するべきだ
とか、
まだ若いのに、仕事あるだろうに
とか、
動けない精神病だった、こういう人にこそ生活保護を
とか、
家族がいたのに、なんで?理解できない
とか、
かわいそう、合掌
とか。
同情するなら、
お金とか仕事を黙ってくれんのかよと思う。
面接でも世間体でも、なんでも、
人物面とやらを計られて、
コミュニケーション能力ある人求めるとかいって、
コミュニケーション能力のない人ともコミュニケーションとれるのが、
コミュニケーション能力の高い人じゃないのかと思う。
社内の人間がコミュニケーション能力がないのに、
コミュニケーション能力があっても、
コミュニケーションなんてとれないだろうって。
求められる人物像のところに、
コミュニケーション能力ってあると、
イラッとする。
家族がいる人には、
家族が理想の状態じゃない人からしたら、
意味解んないし、ただかわいそうなだけ、
白い目で見る対象なんだろうな。
あったかい家庭に包まれて、
他人のことは理解できないと非難できるところがすごいなと思う。
天国から地獄を見て、
辛いんですか?って言っているようなものだ。
私だって、
理解できないほどに幸せな家庭に、
困っているときに助けてくれる家庭や親族に生まれたかったよ。
同級生だった友達のお母さんは、
離婚した家の子とはつき合っちゃいけませんって言っていたらしい。
そういう考えの人って一定数いるよね。
幸福な家庭の人は、
幸福じゃない家庭をいくらでも白い目で見れる。
私は小さい頃は幸福な家庭だった。
それで小さいながら、
同じクラスの子や幼なじみの家庭が、
離婚したり、大変だったりするのを聞くと、
裕福じゃないけど、
両親が離婚していないことが幸せだなと思っていた。
それだけが取り柄だった。
幼なじみの間には、
裕福で大きな一軒家に住んでいる子もいれば、
親が離婚を繰り返している子もいた。
愛情があって結婚しあったんじゃないの?
思いやりとかないの?という感覚、
わからなくない。
けれど、人間はそのときどきで生きてしまう生き物もいるものだ。
意見が食い違ってきたから別れたんだ。
同じ肉親同士でも、
傷つけあうことを言う人種がいるんだ。
傷つけられるから、傷つけるんだ。
そこから離れたいのに、傷つくのをさけたいのに、
肉親だから離れられないんだ。
だから傷つけて攻撃して、自分を守るしかないんだ。
やがて、それも疲れて、
離れるんだ。
両親が最初から最後まで愛し合った家庭に生まれた人には、
わからないことだろう。
私だって、両親が最初から最後まで愛し合って、
子供にも愛情を持って接してくれる人だったらよかったと思うよ。
生まれる場所は選べないからね。
生活保護をこういう人にこそ受けてほしいっていったり、
こういう遠慮するのが日本人とかいって、
かわいそうとかいうけれど、
この結果が満足なんだろう。
これで31歳女性が生活保護を受けていたら、
今度は非難するだろう、
生活保護を受けるだけの気力があるなら働けとか、
まだ若いんだからとか、
いくらでも非難するだろう。
うつ病だったのか、そうじゃないのかということを論点にするのも、
違うと思う。
それって、うつ病と認定されるされないの瀬戸際の人がいるってことだよね。
またそこで、同情できたりできなかったり、
救われたり救われなかったりするんだろう。
何でも、なりかけの状態は苦しい。
人それぞれとかいう割には、
社会はそれを受け入れていない。
世界に1つだけの花って曲がすばらしいっていう割には、
社会はそれを認めていない。
ストレスに強い人、
睡眠をたくさんとれば元気になる人、
虚弱体質な人、
筋肉がつきにくい人、
繊細な人、
いろんな人がいるだろうけど、
少なくとも企業はそれを受け入れない。
儲けられる強固な人材だけを受け入れる。
そういう人たちは、
どうやって生計を立てればいいんだろう?
どうやって生計を立てているんだろう?
もうがんばるのイヤだ。
すごく、すごく疲れた。
もっとがんばれと求められたりい、
叱責されるのもイヤだ。
企業に関わらなければ、
大勢の人に迷惑をかけなくて済む。
それでまずは少し楽になれた。
外国には外国の大変な点があるだろうけど、
まぁいいじゃないかとほがらかに生きていたり、
長期休暇が当たり前で旅行へ行ったり、
ワークシェアリングという風潮があったり、
自分の意見をしっかり持って発言することがよくて、
他人の意見は他人の意見と捉えて、
自分の考えを押し付けようとしない風趣も、
すべてうらやましい。
私は最近、ほめられたら、
お世辞だろうかもしれないけど、
ありがとうございますと言うことにしている。
そんなことないですよぉ~とかいうくだりがめんどくさいからだ。
それに、
ありがとうございますって言った方が自然な流れ出し、
気分もいい。
たまにネットで、
「お世辞をいったら、ありがとうございますって言われた。そこは謙遜だろ」
っていってる人を見かけるけど、
なにを求めているのかわからない。
お世辞いうことで、なんか得られるものでもあるの?と。
お世辞をいって、そんなことないですって言われることに快感でもあるの?と。
そしたら、それは随分気色悪い趣味だなと感じる。
お世辞のくだりが好きな人は、
どうかしてると思う。
近所のおばさんの世間話みたいなのも苦手だ。
どこどこさんの家は子供が何人いて、
だから何万円も手当もらったらしいわよ、
それで旅行したんだってさとか、
驚いたけど、
そんな情報知りたくなかった。
どこどこがどうしたとか、
だれがどうしたとか、
どうでもよくない?って思う。
だから、私は近所付き合いがすごく苦手だ。
根掘り葉掘り臆面もなく聞かれるのもイヤだ。
それでまた仕入れた情報を他で話されるかと思うと、
気がめいる。
だから近所の人とはなるべく挨拶だけで済ますようにしているし、
草むしりみたいなのにも、
お金を払って出ないようにしている。
コワいもん。
家の中だけが、
私の居場所。
心休める場所なんだから。
なるべく近所と関わらない方が、
家の中にいて、
ああ、こう思われているだろうなぁとか、
気に病まなくて済む。
家の中だけでも、自分の世界でいたい。
それでも気にしちゃってるんだけど。
働いているのかしらねぇとか。
家族見かけないけど、ご家族どうなっているのかしらとか。
でも、関わりあいないことで、
その意識が幾分薄らぐからいい。
関わりあっていたら、
しょっちゅう、直接本人から、どうしてるの?とか聞かれて、
それに答えて、それが白い目の反応だったら、
それを何度も頭の中でリピートして、
より気に病んでしまう。
だから近所の人とは関わりがほとんどない方が気楽でいい。
関わっちゃうと、なんでか口出ししてくるおばさんとかもいるしね。
近所ってだけで、偉そうにできるんかなと思う。
だれかの役に立ちたいという思いが、
そうさせるんだろうね。
ずっと家の中にいるから、役に立つ場所が限られてしまうからだろうね。
役に立っていると、感謝されるのも、
家族からだけだし、
家族からそれが得られていない、不十分と感じると、
よりいっそう、発散する場所がほしくなるんだろう。
近所の人とは関わりあいもたないようにしているけど、
隣の家の人(おばさん)には、
小さい頃お世話になったから、
なにかあったら助けてあげたいと思う。
小学生のとき、鍵を持たされてなくて、
家に帰ったら、親が帰ってなくて、家に入れなくて、
家の前で座って待っていたら、
隣の家の人=当時はご主人も存命されていて、
「うちで待っておいで。」と中に入れて、
リンゴを振る舞ってくれた。
ちょうど『きんちゃんの仮装大賞』があったときで、
それを見ていたみたいで、
私はその番組をそこで初めて知って、
おもしろいなぁ、おもしろいなぁって思いながら見ていたよ。
隣の家だったけど、年配の方達だったから、
緊張したけど、
そこは天国みたいだったなぁ。
お昼前なのに、家の鍵が開かなくて、
きょう早く帰るって教えたのになんでって、
さみしい思いと、
ちょっと空腹で、
ひもじい気持ちでいたから、
あったかい、ご年配夫婦に、
リンゴを差し出すというおもてなしに、
そしておもしろい番組とに、
私は感動したなぁ。
その年配のおばさんのところに、
去年だったか、娘さんが戻って来て、
同居し始めたから、
助ける機会なんてないだろうけどなぁ。
そのおばさんも、ちょっと他人に口出しするところがあるから、
ある程度、距離を置いておかないと、
口出されるようになったら困ってしまうから、
なにかのおみやげですっていって、
近所付き合い始めるみたいになるんもマズいからなぁ。
本当に窮地のときに助けられたらと思う。
でも、そんなことってないだろうから、
あのときのこと、今でも感謝していること、
伝えること、恩返しすることなんてなく、
終わってしまうんやろうなぁ。
日本人って、お金に困っても「くれ」って言えない、
人に迷惑を掛けることに引け目を感じる、申し訳ないって思うのが日本人。
とか、
こういう人に生活保護を支給するべきだ
とか、
まだ若いのに、仕事あるだろうに
とか、
動けない精神病だった、こういう人にこそ生活保護を
とか、
家族がいたのに、なんで?理解できない
とか、
かわいそう、合掌
とか。
同情するなら、
お金とか仕事を黙ってくれんのかよと思う。
面接でも世間体でも、なんでも、
人物面とやらを計られて、
コミュニケーション能力ある人求めるとかいって、
コミュニケーション能力のない人ともコミュニケーションとれるのが、
コミュニケーション能力の高い人じゃないのかと思う。
社内の人間がコミュニケーション能力がないのに、
コミュニケーション能力があっても、
コミュニケーションなんてとれないだろうって。
求められる人物像のところに、
コミュニケーション能力ってあると、
イラッとする。
家族がいる人には、
家族が理想の状態じゃない人からしたら、
意味解んないし、ただかわいそうなだけ、
白い目で見る対象なんだろうな。
あったかい家庭に包まれて、
他人のことは理解できないと非難できるところがすごいなと思う。
天国から地獄を見て、
辛いんですか?って言っているようなものだ。
私だって、
理解できないほどに幸せな家庭に、
困っているときに助けてくれる家庭や親族に生まれたかったよ。
同級生だった友達のお母さんは、
離婚した家の子とはつき合っちゃいけませんって言っていたらしい。
そういう考えの人って一定数いるよね。
幸福な家庭の人は、
幸福じゃない家庭をいくらでも白い目で見れる。
私は小さい頃は幸福な家庭だった。
それで小さいながら、
同じクラスの子や幼なじみの家庭が、
離婚したり、大変だったりするのを聞くと、
裕福じゃないけど、
両親が離婚していないことが幸せだなと思っていた。
それだけが取り柄だった。
幼なじみの間には、
裕福で大きな一軒家に住んでいる子もいれば、
親が離婚を繰り返している子もいた。
愛情があって結婚しあったんじゃないの?
思いやりとかないの?という感覚、
わからなくない。
けれど、人間はそのときどきで生きてしまう生き物もいるものだ。
意見が食い違ってきたから別れたんだ。
同じ肉親同士でも、
傷つけあうことを言う人種がいるんだ。
傷つけられるから、傷つけるんだ。
そこから離れたいのに、傷つくのをさけたいのに、
肉親だから離れられないんだ。
だから傷つけて攻撃して、自分を守るしかないんだ。
やがて、それも疲れて、
離れるんだ。
両親が最初から最後まで愛し合った家庭に生まれた人には、
わからないことだろう。
私だって、両親が最初から最後まで愛し合って、
子供にも愛情を持って接してくれる人だったらよかったと思うよ。
生まれる場所は選べないからね。
生活保護をこういう人にこそ受けてほしいっていったり、
こういう遠慮するのが日本人とかいって、
かわいそうとかいうけれど、
この結果が満足なんだろう。
これで31歳女性が生活保護を受けていたら、
今度は非難するだろう、
生活保護を受けるだけの気力があるなら働けとか、
まだ若いんだからとか、
いくらでも非難するだろう。
うつ病だったのか、そうじゃないのかということを論点にするのも、
違うと思う。
それって、うつ病と認定されるされないの瀬戸際の人がいるってことだよね。
またそこで、同情できたりできなかったり、
救われたり救われなかったりするんだろう。
何でも、なりかけの状態は苦しい。
人それぞれとかいう割には、
社会はそれを受け入れていない。
世界に1つだけの花って曲がすばらしいっていう割には、
社会はそれを認めていない。
ストレスに強い人、
睡眠をたくさんとれば元気になる人、
虚弱体質な人、
筋肉がつきにくい人、
繊細な人、
いろんな人がいるだろうけど、
少なくとも企業はそれを受け入れない。
儲けられる強固な人材だけを受け入れる。
そういう人たちは、
どうやって生計を立てればいいんだろう?
どうやって生計を立てているんだろう?
もうがんばるのイヤだ。
すごく、すごく疲れた。
もっとがんばれと求められたりい、
叱責されるのもイヤだ。
企業に関わらなければ、
大勢の人に迷惑をかけなくて済む。
それでまずは少し楽になれた。
外国には外国の大変な点があるだろうけど、
まぁいいじゃないかとほがらかに生きていたり、
長期休暇が当たり前で旅行へ行ったり、
ワークシェアリングという風潮があったり、
自分の意見をしっかり持って発言することがよくて、
他人の意見は他人の意見と捉えて、
自分の考えを押し付けようとしない風趣も、
すべてうらやましい。
私は最近、ほめられたら、
お世辞だろうかもしれないけど、
ありがとうございますと言うことにしている。
そんなことないですよぉ~とかいうくだりがめんどくさいからだ。
それに、
ありがとうございますって言った方が自然な流れ出し、
気分もいい。
たまにネットで、
「お世辞をいったら、ありがとうございますって言われた。そこは謙遜だろ」
っていってる人を見かけるけど、
なにを求めているのかわからない。
お世辞いうことで、なんか得られるものでもあるの?と。
お世辞をいって、そんなことないですって言われることに快感でもあるの?と。
そしたら、それは随分気色悪い趣味だなと感じる。
お世辞のくだりが好きな人は、
どうかしてると思う。
近所のおばさんの世間話みたいなのも苦手だ。
どこどこさんの家は子供が何人いて、
だから何万円も手当もらったらしいわよ、
それで旅行したんだってさとか、
驚いたけど、
そんな情報知りたくなかった。
どこどこがどうしたとか、
だれがどうしたとか、
どうでもよくない?って思う。
だから、私は近所付き合いがすごく苦手だ。
根掘り葉掘り臆面もなく聞かれるのもイヤだ。
それでまた仕入れた情報を他で話されるかと思うと、
気がめいる。
だから近所の人とはなるべく挨拶だけで済ますようにしているし、
草むしりみたいなのにも、
お金を払って出ないようにしている。
コワいもん。
家の中だけが、
私の居場所。
心休める場所なんだから。
なるべく近所と関わらない方が、
家の中にいて、
ああ、こう思われているだろうなぁとか、
気に病まなくて済む。
家の中だけでも、自分の世界でいたい。
それでも気にしちゃってるんだけど。
働いているのかしらねぇとか。
家族見かけないけど、ご家族どうなっているのかしらとか。
でも、関わりあいないことで、
その意識が幾分薄らぐからいい。
関わりあっていたら、
しょっちゅう、直接本人から、どうしてるの?とか聞かれて、
それに答えて、それが白い目の反応だったら、
それを何度も頭の中でリピートして、
より気に病んでしまう。
だから近所の人とは関わりがほとんどない方が気楽でいい。
関わっちゃうと、なんでか口出ししてくるおばさんとかもいるしね。
近所ってだけで、偉そうにできるんかなと思う。
だれかの役に立ちたいという思いが、
そうさせるんだろうね。
ずっと家の中にいるから、役に立つ場所が限られてしまうからだろうね。
役に立っていると、感謝されるのも、
家族からだけだし、
家族からそれが得られていない、不十分と感じると、
よりいっそう、発散する場所がほしくなるんだろう。
近所の人とは関わりあいもたないようにしているけど、
隣の家の人(おばさん)には、
小さい頃お世話になったから、
なにかあったら助けてあげたいと思う。
小学生のとき、鍵を持たされてなくて、
家に帰ったら、親が帰ってなくて、家に入れなくて、
家の前で座って待っていたら、
隣の家の人=当時はご主人も存命されていて、
「うちで待っておいで。」と中に入れて、
リンゴを振る舞ってくれた。
ちょうど『きんちゃんの仮装大賞』があったときで、
それを見ていたみたいで、
私はその番組をそこで初めて知って、
おもしろいなぁ、おもしろいなぁって思いながら見ていたよ。
隣の家だったけど、年配の方達だったから、
緊張したけど、
そこは天国みたいだったなぁ。
お昼前なのに、家の鍵が開かなくて、
きょう早く帰るって教えたのになんでって、
さみしい思いと、
ちょっと空腹で、
ひもじい気持ちでいたから、
あったかい、ご年配夫婦に、
リンゴを差し出すというおもてなしに、
そしておもしろい番組とに、
私は感動したなぁ。
その年配のおばさんのところに、
去年だったか、娘さんが戻って来て、
同居し始めたから、
助ける機会なんてないだろうけどなぁ。
そのおばさんも、ちょっと他人に口出しするところがあるから、
ある程度、距離を置いておかないと、
口出されるようになったら困ってしまうから、
なにかのおみやげですっていって、
近所付き合い始めるみたいになるんもマズいからなぁ。
本当に窮地のときに助けられたらと思う。
でも、そんなことってないだろうから、
あのときのこと、今でも感謝していること、
伝えること、恩返しすることなんてなく、
終わってしまうんやろうなぁ。