ある時代との対話

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ある時代との対話④

2021-07-02 16:50:00 | 日記




当時、社会主義圏の崩壊という事態の前で、僕のチッポケなマルクス主義は動揺した。批判的であったとはいえソ連始め東ドイツ、東欧圏の社会主義体制が脆いビルディングか何かのように崩れていったのだ。動揺しない方がおかしい。それを社会主義は歴史的必然とした自称前衛の方がよほどおかしかったのだと思う。あの時点で少しは社会主義の見直しを図れば良かったように思うが、冷戦崩壊の後、数年もするとそれもいえる雰囲気ではなくなった。


僕はこの当時、政治的にではなく思想的に真底動揺した。当時はマルクス主義の凋落の後を受けてフランス現代思想が思想界を賑わし、また、ハイデガー全集の刊行も始まりハイデガーやフッサールの現象学も書店の棚を賑していた。そんな時に岩波文庫で出ていたハイデガーの「存在と時間」を書店の書棚で何気なく手に取り読み始めた。そして、買い求めた。が、一度目は簡単に挫折した。岩波文庫の「存在と時間」は桑木務というひとの翻訳でドイツ語と日本語が混じったようなひどい翻訳だった。それで今度は中公から出ていた原佑訳の「存在と時間」を読んだ。これは、読み通すことが出来た。やはり、一回読めばわかるという本でもなくその後何回も読み直すことになった。


「資本論」、「精神現象学」や「存在と時間」もそうだが、この種の大著は後でバラすがそもそも曰くつきの作品が多く、それでなくても読み通すだけでも大変なのに、途中までしか完成していなかったり、異本があったりとややこしい本が多い。しかし、僕はプロセスが大切だと思う。専門的な学者でもない限り、この種の本を何回も読める時間もなく、一回読めばわかる本でもないが、大著を読むことを通して一つの主題を追いかけたことそのことが大切だと思う。それに例えば、「存在と時間」を読んで「存在とは何か」ということがわかるかというと、わからない。なぜなら「存在と時間」は、「存在とは何か」という問いに行き着く前に何らかのハイデガーの都合で終わっているからである。つまり、「存在と時間」は序文で「存在とは何か」と問いながら、この問いに答えるはずの後半部が書かれずじまいに終わった欠陥品なのである。



そのことは、「資本論」も同様で、2巻、3巻はマルクス死後エンゲルスが編集したもので、またマルクスはその草稿を完成させていなかった。しかも、第3巻の原稿が最も古く1865年までぐらいに書かれ、続いて2巻、そして、第1巻という具合に書かれた。ただ、2巻については何回もマルクスは手直しをしたようであるが、刊行までには至らなかった。2巻、3巻を読んだ方はお分かりだと思うが、2巻では急に文体そのものが変わる、しかも最後の拡大再生産表式では中途半端に終わっている。それも計算が合わない。3巻はエンゲルスも相当苦労して編集したようだが、繰り返しも多く、また、最後の原稿はここで途切れている………で、え!と思った方もおられると思うが「資本論」も完成したとは言いにくい。しかも、また詳しくお話ししたいと思うが、一巻にもマルクスの手で刊行された資本論とエンゲルスがマルクス死後編集し決定版になった現行版、資本論という、おおきくわけると二つの資本論がある。なかなかこんな手の込んだ本を一回でわかるはずもないが、にもかかわらずやはり読むこと自体は無駄ではないし、そこで苦労して学んだことは身についていると思う。


話しが脱線して恐縮だが、社会主義の崩壊という事態の中でハイデガー哲学に出会い、「存在と時間」を読み始めたが、当時の日本のハイデガー哲学者の本なども参考にしながら読み進めるとハイデガーが20世紀最大の哲学者と言ってもおかしくない哲学者であったという事実にもかかわらず、ハイデガーがナチに加担していたということをどう考えるのかという問題に直面した。僕の中でこの問題が今でも解決したわけではない。しかし、ハイデガーの哲学にだけ話しを絞って述べてみれば、ハイデガーは西欧哲学史をひっくり返そうとしていたようである。その問題意識は僕の私見だが、マルクスのそれとどこか重なると思われる。





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