うろうろとする日々

メダルはだれのおかげ?

最近知ったのだが、オリンピックでメダルを取った選手が関係者にメダルをかけさせて写真をとらせるようなことが行われていたらしい。

その中で起こったのが名古屋市の河村市長のできごとだったのだろう。河村市長は有名人でテレビなどでも流れたから非難されたがこんなことは普通に行われているのかもしれない。

どうやらそれは政治家だけではなく、高校時代の監督に報告にいってメダルをかけさせたりすることも行われているらしい。

20代後半の選手。しかも大学になってからは全く別の監督の指導を受けていて実業団でも別のコーチであったとしたら、高校時代の監督の教えってそこまで絶対的なものなのだろうかという気がする。女子バスケットボールで言えば、確かに桜花学園や札幌山の手の選手が目立ったが、その学校に行った選手はほかにも多いので、その監督の力でオリンピックにいったとまでいえるのだろうか。野球などもありそうですね。

わたしが感じる問題は、選手側ではない。そういうときにメダルをかけて写真を撮らせる監督の側です。

市長であれば、人気取りというインセンティブははっきりする。しかし、監督はなんだろう。もちろん喜びを分かち合うのはいいと思います。しかし、メダルをかけてもらって写真をとらせるところまでいくと、なんだか、大学や実業団に有力選手を入れる際に何かしらの”お礼”が必要とかいうのもまあそうなのだろうなあという気がする。

選手は監督の”もの”ですか?

日本のスポーツ指導者が手弁当でやっているなどの事情もあるでしょう。手弁当といいつつ、結局カリスマになればそれなりの名誉やお金が入ってくるしくみ。そんなのでいいのかなあという気がします。

きっとカリスマにはメダルをかけてる写真などはカリスマを強化するためにも役立つのでうれしいものなんでしょう。

まあこれはスポーツだけではなく吹奏楽なども同じ構造なのかもしれません。手弁当でやる部活はそのようなことになりがちで、いま政府が進めている民間の力での部活もそのようなことが跋扈する温床にならないか非常に危惧されます。

監督も卒業したらもうひとりの人間として教え子を認めたらどうでしょうか。

繰り返しますが選手の側が監督に感謝して喜ぼうという”気持ち”は自然なものだと思います。

だけど、監督の側は選手の努力を認めて、自分がかけるものじゃないということをわきまえるべきじゃないですか?ということです。それが教育者じゃないの、と思いますが日本はそうじゃないんですね。

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