
1963年8月12~15日 博多-(国鉄)-飯野-えびの高原拍-韓国岳-獅子戸岳-
新燃岳-中岳-高千穂河原泊-霧島神宮駅-南宮埼-青島-(国鉄・夜行)-博多


13日えびの高原から大浪池に登るつもりだったが、迷いい、薮の中でふらふらになる。前日作ったおにぎりを食べて進むと韓国岳の登山道に出たので元気も出て頂上まで一気に登る。縦走路に入り八幡大山岳部OBの人達について行く。獅子戸までどうにか追ったが、先はもうだめ。新燃付近までは仲間と追いつ抜かれつして中岳でいっしょになる。霧が少し出る。仲間から少し遅れて心細い思いになる。夕方どうにか高千穂河原に着いた時は非常に嬉しかった。ウルサイ!と(他のキャンパー)にどななれ予定の花火を中止する。濃いコーヒーを飲んだため夜中に何度も目がさめる。

新燃岳にはA君(左)の次に着く。

1964年3月22日~28 登山旅行 博多-(国鉄・夜行)-桜島-霧島神宮駅(うどん屋泊)-
雨・高千穂河原泊-翌朝-高千穂峰-中岳-新燃岳-獅子戸岳-韓国岳-えびの高原泊-小林駅-
宮崎駅-子供の国(ヒッチハイク)サボテン公園-うど神宮-平和台-別府-親戚の家泊-博多

国鉄・博多駅から鹿児島経由で博多駅まで1000円弱の1枚の切符での超貧乏旅行。馬鹿
もいいところで鹿児島に朝到着して登山禁止とは知らずに桜島に登るつもりだった!


霧島神宮駅に夕方ついてうどんは食べたんだと思うが、写真左の親切な
おかみさんのはからいで店先に寝袋で泊めさせてもらった。

翌朝は駅のベンチで飯盒炊飯しての簡易食堂!今ではこんなことは許されないだろうね。

高千穂河原からの早朝7~8人くらいで競って、抜群の登りで皆を引き離して一番に頂上に着いたはいいが、その後のエネルギーを使い果たしていたのかな?
25日、高千穂を下り縦走に入るとリュックが重いため全然ファイト出ず。リュックの交換もしたが効きめなく中岳に着いた時はもうバテ気味。新燃岳で飯盒にふりかけご飯を食う。写真撮る意欲など全然なし。獅子戸、韓国では友達が写真を撮ってくれたが、その間ずっと寝転んだまま。高千穂峰、韓国岳では樹氷が見られた。えびの高原の飯を僕が受け持ったがゴッチンをつくる。国民宿舎の風呂に入る。

26日朝 韓国岳と温泉(M君が撮影現像してくれた。)
M君この写真をどこかで見たら連絡下さい!
57年前の青春の1ページですね。
良いですねぇ。若さに溢れてる!
私が友人と「妙義山」「谷川岳」を登ったのがこの頃です。
みかど荘と読むのでしょうか。
割烹着をつけた着物姿のおかみさん
その優しさと言い全部ひっくるめて
時代を感じさせますね~。
最初の写真の表情が私の父そっくりです。
コカ・コーラの看板ってレトロ感があっていいです。
どれもこれもいい写真ですね~。
韓国岳から 高千穂の峰縦走
自分も何度も歩きましたが・・・
現在は 新燃岳の噴火活動により
両隣の 獅子戸岳や中岳も登山禁止です
したがって 縦走できず残念です。
昔(失礼)の画像の数々
テレビの特集番組を観ているよ王です
いや~ 懐かしいです
小父さん様も 好い男ですね
いまならジャニーズ入りでしょう(^o^)
駅でも登山姿なら何でも許されて・・
私も20歳前後にはせっせと山へお出かけで、今言う山ガール、なんて沢山居ましたね。
夜行日帰りは当たり前、朝は駅で朝食・歯磨きしたり(笑)
とても貴重な写真です。よくお撮りになりましたね。
私も結構モノクロの山の写真がありましたが、捨ててきました。
パソコンへ取り込んでおけばよかった、と少し反省です。
尾瀬とか磐梯山とか、女の子だけで行った写真、思い出しました。
私は山はさして登っておりませんが、キャンプ道具を持っていたので前回の中学卒業時と今回の高校1年とその春が山への足掛かりです。
>良いですねぇ。若さに溢れてる!
確か、宮崎駅だったか新婚旅行者?から急行券2枚をもらって2人が先に別府に行き、私一人で各駅停車で後を追い鶴見岳に行くつもりが最終バスも無し。駅前の交番に行って20歳くらい上の従兄の家を探してもらってお世話になったのですが、交番では「何ヶ月前も鶴見岳から遺体が運ばれてきた、そんな無謀な登山をしちゃーいかん!」とこっぴどく叱られました。
ひゃー、谷川岳の一ノ倉沢の遭難事故って大々的に報じられましたね。
剱岳とともに「怖い山」と印象だけしか持っていませんが・・・。
>みかど荘と読むのでしょうか。
そう読めますね。
この店が宿なのか?「みかど荘」の案内所って書いてあるようです。
我々が寝たのは靴を脱いで畳の上で食事をする場所だったので快適でした。
>・・・時代を感じさせますね~。
あちこちで人の情に触れたものですが、このおかみさんに礼状を書いたかな?なんて思い出すことです。
ありゃ、歴史年表ものですね(笑)
>最初の写真の表情が私の父そっくりです。
よく書いてありますね!
チャー君は私の弟かも知れませんね。
となるとreeさんは私の伯母さんか!それはないですね(笑)
>コカ・コーラの看板ってレトロ感があっていいです。
そうですか?
私がペプシコーラを初めて飲んだのが1962年の富士の裾野のジャンボリーで、その後にコカコーラを知りましたが、ペプシコーラは今やサントリー工場内での製造、ん?最寄りのミニスーパーではペプシは見かけませんね?
当時は日本の飲料メーカーがコーラもどきまで作っていましたが、家の近くのコカコーラ工場は縮小を重ねて、他の飲み物や、近々には敷地内に大きな流通倉庫を建てるようです。
私は時々、コカコーラ ゼロ 500mlを買って来て冷やしています。
夏のトレーニング後ですが・・・。
>どれもこれもいい写真ですね~。
有難うございます。
私の山好きになった原点です。
これらの写真を一番身近に感じていただけて嬉しいです。
あ~、関連コメントをよく貴兄のブログに書いていましたね(汗)
新燃岳、獅子戸岳、中岳も登山禁止なんですか!
てっきり新燃岳だと思っていました。
なにせ、アルバムの記録を読んでいると、私の登りが今遅くなったんではなく、はじめからすぐバテていたのを再認識しました。
でも山の魅力には接して来ているんですね!
そうですか、この当時は縦走されていないんですか。
>昔の画像の数々テレビの特集番組を観ているようです
私は36枚撮りのモノクロ写真の世界がずっと頭にはりついています。
ネット上の写真家で、芸術的なモノクロ写真撮り専門な方も知ってはいますが・・・。
>小父さん様も 好い男ですね。いまならジャニーズ入りでしょう
有難うございます。
いやー、もう57年遅く生まれて来ていたら、寝る間もないくらいお金が転がりこんできていたんですかね(爆)
ずっと気になる女の子も居ましたが、どなたとも口をきいたこともありませでしたよ(笑)
そうでしたかね?
そうそう60歳を過ぎて、六甲山で「山ガール」なる人たちに初めて接して、そのファッションや流行に驚きました。
>駅でも登山姿なら何でも許されて・・
はっはっは、そうでしたか!
そう言えば山陰均一周遊券を買っての一人旅で山陰を東に西に乗車していたことがあります。
大山スキー場(貸スキー)の帰りでしたが鳥取駅の冬の待合所に登山風の人がたくさん居たのですが、鉄道公安官が夜中に入って来て「どちらまで行きますか?」と一人一人尋ねるわけです。私は「明朝の始発で出雲に行きます」と答えたのですが、他の人はみんなホームレスでしてみんなブツブツ言いながら居なくなりました。
すると10~20分もすると「ポリはどこに行った?」なんて言いながらみんな戻ってくるではありませんか!トイレに行きたくなりましたが、大きなリュックも頭の上に担いで、和式トイレに入ったものでした(汗)。リュックを待合室に置いていたら無くなってしまうと思いましたね。
>夜行日帰りは当たり前、朝は駅で朝食・歯磨きしたり(笑)
立山に登った時だったか?尾根の上で登山の若者と話していたら、東京から車でやってきて車で仮眠して登山、下山したら車で東京に戻り明朝は出勤しますなんて聞いて驚きましたね。
私らは山小屋と旅籠に2泊の旅でした!(笑)
各駅停車の国鉄の4人掛けの夜行で寝るのはきついですね。
一度6人掛けで寝ましたが、通路にはぎゅうぎゅう詰めで立っていました(笑)
>とても貴重な写真です。よくお撮りになりましたね。私も結構モノクロの山の写真がありましたが、捨ててきました。
いやー、嵩張るしgooブログがずっと存在していたら残るんですが、たぶんいつか無くなるでしょうね。
私も捨てように捨てられずってところです。
>パソコンへ取り込んでおけばよかった、と少し反省です。
はじめ「アルバムをすべてそうしよう!」と思いましたが量が多すぎて諦めました。
>尾瀬とか磐梯山とか、女の子だけで行った写真、思い出しました。
いいですね~。
尾瀬くらいならまだ歩けるかも知れません。
多少の無理も若さでなんのそのって感じですか。
私は社会人になってから山歩きに興味を抱いて始めましたが、低山ばかりです。!(^^)!
1963~1964年というと、私は高3から大学に入った頃で、年中、水球に明け暮れていました。もっと青春を謳歌したかったな~という思いがあります。(>_<)
はっはっは、そんな感じですね。
でも、まだ右も左も分かっていない「ただただ出掛けたかった」頃です。
>多少の無理も若さでなんのそのって感じですか。
上の「たかさんへ」にも少し書いていますが、独り別府駅を下りて、交番で親戚を探してもらい、親戚が交番に「タクシーに乗せて着払いでよこして下さい」と言っただと思います。
親戚が「お風呂とご飯のどちらを先にする?」と聞かれてその場にへなへなへなと座り込んでしまいました。
その日ほとんど何も食べていなかったんだと思います。米と炊事用のおかずは持っていたんでしょうね。
親戚の温泉風呂に入らせてもらって、「3人で駅弁を食べなさい」とお小遣いをもらって、翌朝別府駅で逢った2人と列車の中で美味しく駅弁をいただきました(汗)
>私は高3から大学に入った頃で、年中、水球に明け暮れていました。
いや貴兄の青春の方がすばらしいと思いますよ。
息子(40歳)の3年間の高校の柔道合宿の方が未だに良かったなと思いますもの。