人類のための文明・思想・哲学・宗教・歴史・憲法

何が起きているのか

どうして起きたのか

それをどのように理解し

どのように対処するべきか

二千九年末・城の話

2010-03-11 10:32:17 | 日記

「権力の象徴であった江戸城 (現 皇居)に入られたのが間違いだった。その後の歴史を

見ると、間違えて政治利用みたいな形になった。江戸城に今もお住まいになるのは、お立場

上ふさわしくないのではないか。京都か広島に皇居を移すようにと恐れ多くも陛下に進言

申し上げた」 国民新党の代表は、昨年12月27日、テレビの番組で、宮中昼食会の会話

を明らかにした   問題解決のキーワードは   「一挙両得」 「三方一両損」   

どこで、近代化の最初のボタンを掛け間違えたかについての話であるが、確かに、世界の不正と

不幸のスタート(the Pandora's box)だったので、正しくされるべきである。江戸城は、太田道灌

築城(1457年)であるが、道灌の殺され方が悪く(1432~1486)相模国伊勢原で血の海。

徳川家康(1542~1616)は、関八州に封ぜられ江戸城を居城としたが、城内の日枝

神社を祭っていた。江戸城の鎮守として、川越の無量寿寺の日吉神社を勧請。徳川二代将軍

徳川秀忠(1579~1632)は、大名・朝廷・寺社を統制し、1604年から始まる江戸城

改築の際、城内の日枝神社を麹町隼町に遷座させ、庶民が参拝できるようにと配慮した。

265年間にわたる幕府による政治は、文化的権威は京都の朝廷に、政治的権威は江戸城に

それぞれあるものとして分けられるのであり、西を作り、東を作って国家を安定させた。21世紀

は、江戸城は、国民主権の象徴として、日本国民に、世界の人々に愛され、親しまれるべきである。

皇居及び宮内庁跡地には、日本国のデモクラシーの象徴としての国会議事堂が新築されるべきである。

There is a time and a place for everything.(すべての物事には時と所がある)このようにも言える。

We learn from history that we do not learn from history.  (我々が歴史を学ぶと、我々は歴史から何も

学んでいないことがわかる)Georg Hegel 何が原因で失敗したのかが全く考えられて来なかったのだ。

天皇が本当のドメインである京都に戻り、叡山にともしびがともれば日本文明復活の吉兆となる。

日本国はこの方向で日本国再生のために一度リセット(再配置)する必要があると思う国民は多数だ。

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人類史の崩壊点を観測する

2010-03-09 10:34:13 | 日記

「彼は、戦争に反対して止めさせることが出来た、ただ一人の存在であったにもかかわらず、
#
そのようにしなかったという汚点を背負っている」 (英 タイムズ)

「天皇は、自分の戦争責任問題について、公には一度も発言していないが、彼が、これを

真剣に受け止めていたことは、天皇を非難する人たちにも異論のないところである」

(独 フランクフルターアルゲマイネ)

「アジアと太平洋を踏みつけにした彼の戦争責任は厳しく問われることもなかった。

殖民地統治のさまざまな暴政についても、「いかん」の言葉を明らかにしたのみで、公式

な謝罪は表明されたことがない」 (韓国 東亜日報)

「ヒロヒトが、戦争を望まなかったというのは誤りである。彼が、望まなかったのは、

対 ソビエト戦である」 (仏 リベラシオン)

「ヒロヒトと日本、それに近隣諸国の悲劇は、国民にとっての神とされた人物が、彼が

望んでいたにもかかわらず、彼の名が常につきまとう悲惨な戦争を止めさせることが

できなかったことである」 (豪 シドニーモーニングヘラルド)

             「 昭和天皇についての世界の報道 」1989年

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沈黙の春

2010-03-05 10:09:02 | 日記

DDT (dichlorodiphtrichloroethane) の合成法は、19世紀にはすでに発明されていたが、

このDDT が有効な殺虫剤であることは、20世紀に至ってから確認された。

DDT の毒性について、1962年、米国のレイチェル・カーソン  

Rachel  Louise  Carson (1907~1964) は、「沈黙の春」という本を出版して、毒性が鳥類に強く

作用することを主張した。彼女は農業団体からひどい抑圧・圧迫を受けたが、 

レイチェルの主張は、  やがて広く認められ、1971年には、日本でも DDT の製造・使用

が禁止された。それまでは、小中学生のシラミ退治のために、頭に直接、薬剤の白い粉を

吹き付けていたのは歴史の事実    

没後の1965年に出版された「THE SENSE OF WONDER」では、幼少期に自然と直接的に関わる中で、

子どもが不思議に思ったり、感動したりすることをセンスオブワンダーと呼び、もっと知りたいという思い

が促されるとした。この作品は、姪の子どもであるロジャーを引き取り養育することになったレイチェルが

ロジャーとメインの森や海を体験したことなどをエッセーとしてまとめられたものです。「もしも私が、

全ての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子どもに、生涯

消えることのないセンスオブワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性を授けて欲しいと頼むでしょう」

「子どもが出会う事実の一つ一つが種子だとしたら、様々な情緒や豊かな感受性は、この種子を育む肥沃な

土壌です。幼い子どもの時期はこの土を耕す時です」レイチェルの主張した「センスオブワンダー」という

感性は、21世紀の自然教育や環境教育、幼児教育などの分野で注目されています。

                                       

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