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朝日記181007 教育勅語と現代語訳をネットで提供してくれてと今日の絵

2018-10-06 23:49:23 | 絵画と哲学

朝日記181007 教育勅語と現代語訳をネットで提供してくれてと今日の絵

教育勅語と現代語訳をネットで提供してくれましたので ご参考まで掲載します。

きょうは、これを取り上げます。

今日の絵は(骨組み)です。

http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm

chusan.info

教育勅語と現代語訳

 

 徒然こと1 倫理と道徳の区分について

  教育勅語と現代語訳を読ませていただきました。私の感想と意見をつらつら述べさせていただきます。 系統的に述べるのではないのでどこかのトラップにハマっておしまいになるかもしれません。まず感じたのは、倫理観と道徳観の区分の問題です。これをいったん区分して、考え、そのつぎに人間個人としてもつ倫理と、共存する人間相互の道徳へとの論理展開をしないと、結局、堂々巡りとなります。我々(日本)の思考伝統はそれを区分できないとしてこれまで放棄してきたように思います。結論はどうなるか私はこの時点ではおぼつかないですが、近代社会というに焦点をあて西側での思考展開を取り上げてみます。ひとつの例としては、英国の思想家Thomas Hobbesを見ました。彼は人間個人がもつ生存の権利を自然権と呼んだとおもいます。これの根拠は、宗教観との接点が避けられません。哲学的には超越(つまり神)として、人間自由と理性を天から賦与されたものと設定し、ここで一たん、思考の境界を設定します。その前提を共有した価値の上に、人間系を考えて行こうとするものです。すんなりこれが共有できるか、歴史的な闘争があったとみます。 この前提は、宗教改革を経て、人間の生存の権利、個人の自由を倫理として主張し論理化したと考えられす。その意味では、倫理が第一前提とみます。そして、つぎに他との共存のための約束事が不可避として、その考え方を道徳として考え、試行錯誤しながら人間相互の行動規範化したと言えます。当然、人を殺めたり、理不尽な暴力侵害は、掟として置かれることになります。この流れのなかの「法」の必然性が、共同体やその延長線上の国の概念になりましょう。個人の持つ主権の部分的を共同体を形成してこれに譲渡としての国(権力体)です。これらは論理と力の結合体同志の血を流した経過があったと理解します。そして君主国家にしても共和国家にしても、基本は、個人からの権利譲渡とその契約としての国家というのが近代国家の理念であるといえます。したがって当然、個人(民)にも国にともども契約による権利があれば義務があります。しかし、基本主権は個人(民)ですがから、価値のベース(拠点)は個人です。その意志方法として選挙のある立憲国家とみます。 だんだん話が硬くなってきました(忠孝仁義についてはつぎに書きます)

 

 徒然こと2 「忠ー孝ー仁ー義」と「義ー仁ー孝ー忠」

  教育勅語をそういう視点で読んだみますと、忠ー孝ー仁ー義と見ました。いまこれを、君主または国体への「忠」、親族部族への「孝」、同族仲間(社会)としての「仁」、天の理(あるいは超越)との関係「義」とみることにします。 この四項目で、個人から国家までを覆う倫理と道徳命題体が構成されますから、これの適否を論ずるのは難しいとおもいます。すべて正しいといえましょう。ただし命題としてです。これを日本人は如何に考えてきたかが大切なところです。(私は知識として、自信がありません) 明治開国で、列強の帝国主義の侵攻、植民主義の潮流のなかで、国の体制(国体)としての価値としてプロシャ帝国をモデルとして 「忠ー孝ー仁ー義」を採用したことになります。因みに、明治憲法よりも教育勅語の方が先にあって、憲法を構成するための国家統一理念としてなったと考えます。 今の視点での適否の問題が、論ぜられるところですが、その時代の理性と力によっての決着であったともいえます。これへの論議は、さらにあるべきと考えたとしてもです。 ここではこの、忠ー孝ー仁ー義についての理念としての論理構成についてもう一度考えてみるh必要がありそうです。 西洋近代化のなかでの市民の自由と理性が出発であるとすると、どうしても倫理と道徳の区分が前提になると考えます。よくいわれるまず、自分は如何に考えるか、そして社会としての順になります。そのような視点でみると西側からの価値の順位は 「義ー仁ー孝ー忠」と上と逆の順になりそうです。つまり「義」の部分が 倫理(超越(神))と自分の関係、あとは「仁ー孝」が道徳、「忠」は社会契約と見えます。

 

 徒然こと3 有名な「恥の文化」、

  先日、ルース・ベネヂクトの著「菊と刀」を図書館で斜め読みしました。この本は、ある意味で日本の運命を決したほどに影響をあたえたといえます。アメリカ政府が先の大戦でドイツとの戦線に見通しができて、日本への戦勝のための戦略として日本人の倫理・道徳観の研究に急いでいた。日本の軍隊の勇敢さ、不屈さについてそれがどこからくるのかが最大の課題であったようです。文化人類学者のベネディクトの研究が、その後の戦略策定に大いに作用したようです。有名な「恥の文化」、これを日本人の倫理の源泉としたといいます。「忠ー孝ー仁ー義」のなかで、「忠」を最優先、「天皇への赤心」としてみました。もうひとつは、「孝ー仁ー義」はその社会でそれぞれの曳きだしがあって、問題ごとに区分され処理される文化がある。それは倫理と道徳との一体のもので、社会に対する「恥」を価値判断の基盤とするという観方でした。結局、天皇の存在が終戦とその後の戦略もこれが決め手という結論となったという点でこの本がいまも影響を与えています。

 

 徒然こと4  さて、そろそろ自分の主張をまとめなければなりません。

1.近代社会を選択した我々は倫理と道徳を区分して、自由と理性の価値観を確認しなければなりません。

 2.教育勅語が上げている「忠・孝・仁・義」の各項目は正しいとみるべきである。ただし、この国の社会を生きる個人としての価値である倫理と社会をいきる規範としての道徳の区分のなかで吟味され詰められて来なかったとみるべきである。これをやるべきであること。

3.道徳教育では倫理との接点(個人がもつ価値観の自由)を前提にすべきこと。

4.「義ー仁ー孝ー忠」つまり、人間としてのあり方、人間性のありかた、家族や共同体とのありかた、公共の安全・安心のありかた、これらの権利と義務。

5.道徳を教えることは、これを教育基本法等でおこなうことは正しい。ひとつのルールづくりのルールは必要である。

6.「教育勅語」は 論議のテキストとして尊重されるべきである。

 

===友人からのコメント====

畏友安部忠彦さんからのコメント (あらいやすまさ)
2018-10-07 15:07:21
おはようございます。
荒井さんの教育勅語論を拝読。

教育勅語は日本人共通の価値観を文章化したものだと思います。私は何の違和感もなく受け入れることができます。

反日勢力からすると、勤勉で優秀な日本人が「共通の価値観」を持ち社会システムがスムーズに機能することを優先することは困ったことになるのだろうと思います。

社会の安定と繁栄を望み、法を守り、全体の幸福のためなら必要に応じて身を投げ出す覚悟を皆が持っているコミュニティは理想的と思います。

今回の柴山氏の問題提起が日本の在り方を考える契機になればよいと思います。反日的な言動を繰り返すオールドメディアと反日的野党がどういう形でこれを破壊に持っていこうとするのか興味津々です。
5300

 

=====
Unknown (Unknown)
2018-10-07 15:16:30
活力があり精神の成熟した民であるということを意味することになりますかね。 ロラン・バルトというフランス人思想家が、西洋認識論装置が機能しえない次元のものとして、彼ら自身の思考停止を楽しんでいる風もあります。こちらの方は、謙虚にして、思慮深く、寡黙にして行動的なみずみずしさをなお、涵養する民であれかし。

 (骨組み)

 


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2 コメント

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畏友安部忠彦さんからのコメント (あらいやすまさ)
2018-10-07 15:07:21
おはようございます。
荒井さんの教育勅語論を拝読。

教育勅語は日本人共通の価値観を文章化したものだと思います。私は何の違和感もなく受け入れることができます。

反日勢力からすると、勤勉で優秀な日本人が「共通の価値観」を持ち社会システムがスムーズに機能することを優先することは困ったことになるのだろうと思います。

社会の安定と繁栄を望み、法を守り、全体の幸福のためなら必要に応じて身を投げ出す覚悟を皆が持っているコミュニティは理想的と思います。

今回の柴山氏の問題提起が日本の在り方を考える契機になればよいと思います。反日的な言動を繰り返すオールドメディアと反日的野党がどういう形でこれを破壊に持っていこうとするのか興味津々です。
5300
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Unknown (Unknown)
2018-10-07 15:16:30
活力があり精神の成熟した民であるということを意味することになりますかね。 ロラン・バルトというフランス人思想家が、西洋認識論装置が機能しえない次元のものとして、彼ら自身の思考停止を楽しんでいる風もあります。こちらの方は、謙虚にして、思慮深く、寡黙にして行動的なみずみずしさをなお、涵養する民であれかし。
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