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朝日記200809  KateElwoodさん「個人としての同定、外向きの行動:日本とカナダでのinner selfについて」と今日の絵

2020-08-09 13:44:37 | 社会システム科学

 

朝日記200809  KateElwoodさん「個人としての同定、外向きの行動:日本とカナダでのinner selfについて」と今日の絵

 

今日の絵は dryed fishes adventureです。

dryed fishes adventure

Inner selfという英語に出会う。英字新聞の論説のなかで 個人としての同定、外向きの行動;inner selfで日本とカナダでのとらえ方についてというものである。論説の内容が示唆的であるので以下で紹介しておきたい。この種の文章を紹介するときに筆者の習慣として用語についてのに確認をしている。座右の哲学辞典[1]での用語検索ではInner Sinnやinner perceptionが目に入り、多分この辺かなと見当をつける。項目「自我」でひくと Ich(独)、Ego(ラテン)、Self(英)、moi(仏)であった。西洋思想の根底がデカルト以来、主観と客観の二元論を土台としてその上での主観側の存在を思考する主体存在としての自分個人を位置づける。そしてそこからすべて、出発する態度、これがinner selfであろう。際立って西洋近代の基本意識である。該事典ではInner selfという概念は古来ではそのコミュニティの中に共有埋没されたものとして、現在の意識の独立根源主体としては分離されていないのだとあえて解説を加わえているのが印象的であった。これは東洋という異なる人類史のながれに乗っていま西洋的価値観を制度的に導入しているこの日本において、特に個人としての現れ方への用心深い記述配慮であるともいえる。

以下はKate Elwoodという文化人類学者の「自分自身の同定」をどのように確認し行動をとるかについて、トロント大学と東京大学での学生の意識調査の報告である。言語で「自分自身」という表現をして、定義して理解したつもりでも根底のところですれ違ってしまうことは多い。このようなところに目を付けたのは優れて炯眼である。多分彼女は落胆した部分を柔らかく語っているのであるが。まずは御覧じろ!

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個人としての同定、外向きの行動:日本とカナダでのinner selfについて

Personal identity, outward action: The inner self in Japanese and Canada

By Kate Elwood, from Cultural Conundrums, Thursday,August 6, 2020, The Japan News

内容紹介:

この論説の著者であるElwood氏は文化心理学者であるが、あるとき日本女性と結婚したカナダ人の友人から日本人のもつinner self(ここでは「自己意識」と言っておく)は 欧米のそれと微妙なずれがあるが如何に考えるかという問いがあったがながらく放置いたがあらためて注視したい誘惑に駆られたという。 

それは文化心理学者Romin Tafarodi 等がトロント大学と東京大学の学生をそれぞれ100名を対象に inner selfに関する調査を行ったその結果に刺激をうけたという動機であったという。

調査の被試験者には、事前にふたつの課題が課せられた。それは最近において遭遇した経験や事態について、自分のinner selfと一致していたものをひとつ書き出す。もうひとつは、経験や事態が自分のinner selfと異なっていたものをひとつ上げて書き出す。

質問は10項で、回答は Yes ,No, not decidedの三つを選ぶことであった。

回答結果全体を通じて、特徴的であったのは カナダの学生が inner selfについてすでに内的思考経験がありその意味を確信していることであった。

しかし次の質問では 彼らの答えは割れた;

“自分の一貫性と異なる事態や経験をしているときに自分に対して悪く感じるか?”

 カナダの学生の50%が肯定的であった。日本の学生の58%が肯定的で、特に一貫性についてのつよい拘りを示した。一方、86%のカナダの学生はこの質問にyesをマークした。これに対して、もうひとつの質問;

“自分の一貫性に沿って自体や経験をしているときに自分に対して良く感じるか?”

で、日本の学生の61%がYesと答えている。

カナダの86%と日本の61%の差25%は何を意味するだろうか?

この調査の研究者側は、事前に回答者からの 事例項目を分類化して inner selfとの一貫性のあるもの8種、非一過性のもの7種をまとめて分析した。

そのなかで、特に一貫性について 利他的であることに重視するに カナダ学生は21%であった。一方、日本の学生の方は2%であった。

一方、日本学生の33%の事態や経験については発生の稀有性からみて今回の分類定義そのものを再検討する必要を示した。 興味深いのは社会的制約条件のもとでの、自分の事態や経験についてinner selfに奇異なものを感じている。カナダ学生で42%、日本学生で43%であった。

カナダ学生にあっては23%が他人を害する何かを感じている。一方日本の学生においては10%だけが事態や経験が自分のinner selfに一貫性の欠如を書いている。6%のカナダ学生が、自分があげた項目の別次元の問題としてとらえているが、日本学生はこの次元のものとして位置づける。

カナダ学生では、事態や経験についてエピソードを加えた状況で問題の落ち着けどころを見つけうると推測する。

 

質問“自分についていちばん正確に知っているのは、この世の中では自分以外の何者でもないと信じるか?”では、カナダ学生では88%がyesで、日本学生ではわずか52%がyesであった。

これについて多因子回帰解析の結果、文化の違いという最尤性が検出された。

この設問でのyesよりむしろnoの選択では、カナダ学生のそれよりも5.74倍あり、さらにyesよりundecidedで8.75倍であった。

カナダ学生では72%が、異なる事態でもまた異なる他人の状況においても、自分自身を保持することを信じることを認めた。一方、日本学生では36%にとどまった。

ここでもyesよりむしろnoの選択がカナダ学生の5.2倍であった。

 

“自分のinner selfについてのこれらの質問を通じて、自分のなかでなにか奇妙で、何か変に、あるいは馴染まない思がしたか?”

カナダ学生では74%が、設問が自分にとって馴染まないとはおもっていないのに対して、日本学生の方はわずか44%であった。逆にかなだ学生の15%がこの調査の意味に肯定的であり、一方、日本学生では42%が肯定的であった。この調査質問が奇異なものではないという答えがカナダ学生に強く日本学生の4.76倍であった。

高校を卒業して数十年になって思い返すと、あの年代は自分自身を表現する言葉を探していた。Walt Whitmanの名辞で“私は矛盾するか? よろしい、自分自身に矛盾しよう。私は大きい、すべてを包む”などを記憶するがこれは採らなかった。代わりにShakespearの言辞で“自らに真実であろう”というのがあるが今思えば自分のなかで矛盾している。一生懸命努力しているのはお互いさまである。Inner selfとはやはり文化の基盤で異なってあらわれる。だからこそ、他の文化を知ることは魅力的なことなのだとElwoodは締めくくるが、困惑をしているように受け止めるのは思い過ごしか。

しかし、自分をいちばん知るのはかならずしも自分でないというところは、この問題の特徴を鮮明に表していてあまりあるとおもう。 日本人のおおくが、西側先進国社会での制度や社会的規範の基盤として定着していると理解しているinner selfが、かならずしもそのまま肯定できない奥行きを示唆していると思えてならないのである。ひと昔なら、わらない日本人としてかれらの社会では特殊扱いであったともいえるが、世界は知性はむしろこのinner selfの文化的な奥行きに人類知へのヒントを求めているともいえるのではないかと感じている。

個人独立という意識の持ち方をかならずしも突き詰めていない。

 

[1] 廣松渉他、岩波 哲学思想事典 岩波書店 1998


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