朝日記180119 共通1次試験の問題を読むこと と今日の絵
試験というのは、自分が受けるのでなければ気が楽なものです。問題を解くとなるとこれは
また別の問題で、たぶん剣術とおなじで試合に向けた鍛錬がないと多分だめであろうと思います。 限られた時間ないで処理する集中力がなまっているからです。 一方、人間の知への鍛錬からの力量をみる問題は、きっと余人にもおおくのことを語ってくれる教材とみることもできます。そういうおもいもあって、1980年ごろから、毎年この時期のたのしみとしています。特に注目しているのは、不得意な国語です。 動機は題材がおもしろく、思考の啓発になるのに、なぜに、問題が本質的な意味論ではなく、構文などについての形式論になってしまっているかを不思議におもっていたことによります。 それにしても 問題の題材は興味がつきないものがあります。今回はそのひとつをとりあげました。
、
きょうの絵は(foxie GON)と(水の精)の二つです。
(foxie GON)
徒然こと 1 共通1次試験の問題を読むこと 1(国語科)
共通一次試験はこのまえの土曜日13日からでしたね。翌朝の新聞に問題と正解が好評されますが、いつのころからか、それを見るのが、習慣になって、朝日記などでその都度、なにかを書いています。 問題を解くためではなく、読書もしくは資料として考えています。その焦点としては、苦手な国語に置いています。問題を解こうとすると、癪の虫を起こすのであくまでも読書案内としてみます。ことしは以下でした。
問1 現代文
有元典文・岡部大介 「デザインド・リアリティ -集合的達成の心理学」から一文
問2 現代文
井上荒野 小説「キュウリのいろいろ」
問3 古文
本居宣長 「石上私淑言」(いそのかみのささめごと) 問答での和歌論
問4 漢文
李トウ* 「続資治痛鑑長編」から
*トウ(壽の下に然のしたの点四つ)。
徒然こと2 問1についての感想と所見
題名 2008年大学入試センター試験 国語 第1問についての感想と所見
荒井康全 2018-1-19
この出題は、フィールド・デザイン論からの著述からの引用である。
「一般にデザインということばは、ある目的を持って意匠・考案・立案すること、つまり意図的に形づくること、その形づくられた構造を意味する、これまで、私たちはこの言葉を拡張して用いてきた」とし、それに加えて ものの形ではなく、「ひとのふるまい」と「世界のあらわれ」について用いてきたという。定義として「デザインを人工物とふるまいとの関係として表した新しい古典ノーマン氏を上げるが、そのなかでも定義がみつからない。著者は、その試みに、その考えかたを紹介して概念を提示しようとする。
さらに語源としてのデザイン、そのプロダクトとしての「人工物化」そして「秩序」への再編成へと、以下のような項目を上げて、論をすすめる。
Design,
De signare, 自然環境への刻印 to mark
空間と時間の区分 それに人間が手を加えること。
Artificialy ,
「人工物化」,「再人工物化」
「秩序」 再秩序
異なる「意味」と「価値」に再編成
(講義の意味が「記憶すべき知識群」へ)
Affordance 例 コヒーカップ;茶碗に取っ手のついたもの
著者はつぎの例をあげて人工物による便宜性Affordanceの向上による環境変化を強調していく;「知覚可能な現実を変化させ、さらに相互反映的に」新しい現実を生み出す。
自転車、電話、電子メール、・・・
これは「文化的意味と価値に満ちた世界」であり、 それはさらに文化的進化していく。
「異なる現実が知覚され、それはすでにデザイン以前と同じくふるまえるような同じ現実ではない」。
さらに例として本にページ番号をおく意味を人工物による環境による「記憶」活動の効率化や便宜性が飛躍化としてあげる。
その結果、人間社会としての新しい「ふるまい」や「あらわれ」の違いがあらわれ定着すると説明する。さらに、「人工物」環境の変化によって、そのときどきの行動のための装備は、大衆化されデフォルト化されると展開する。
これらは、人工的手段のもつ意味と価値の到達「射程距離」がかわることを意味するものであえろうか。著者は、そういう意味での環境適応への「文化心理学」の在り方を主張している。たしかに、その環境での人間行動への便宜性をふくめて適応していく配慮としてのメンタルな特有な問題はありうるであろう。
さらに、著者は、「買い物の際の精算」での計算手段の進化と、人間の社会心理への変化を主張しようとしているが、なにをいいたいのか具体的な論の展開はみせていない。
その意味で、人工物手段meanによって消滅することのない、変化をうけることのない目的endへの人間の価値意識とそれを援ける知性として、その合理性や道徳性に触れるべきであろう。著者が否定している本来の「原心理」の存在は、依然として意味をもつとみる。
一方、物理的な時・空容量の拡大による欲望や願望の変化に対応して、観念上の時・空間での人間の行為への意味や価値の変化はありうるかもしれない。進化適応という意味でかわるかもしれないが人類は共存・生存について、注意深くそれを観察して、本来の有り方への修正や補正し吸収をしていくとみる。適正なるGovernance力の要請である。
この意味で、ここでも手段meanが変わっても、価値目的end への意思能力conciousnessは基本的にかわらないという仮説を採用していくことになろう。
筆者の希望的所見としては、これまでの人類史的文明過程で、認知してきた人間としての本来的資質や特性を変えてしまうような本質的に変化がおきないと言明しておくものである。
最後に付言しておきたいことは、この論の冒頭で、著者は、自分が教鞭をとる大学であろうか、その講義を例にとっているところは、一見わかりやすいので目をひく。講義のはじめに、何を理解したかあとでテストすると宣言すると、受講側は意識を集中させさまざまな対応をとる説明する。この切り口から「意味」と「価値」からの創造としてのデザイン論を展開している。しかし、講義室で、何を話す、何を考えるという主題と趣旨を与えないまま、あとでテストするという発想はいかがなものであろうか。これから始まる講義のなかから、その「意味」と「価値」をみずから掴めとなれば、講義側は受講側にたいしてフェアではないような気がする。目前にあるものからの問題をとらえるとしても、問題の対象化への抽象化過程が必要であろう。これを行うのは経験や理論やパラダイムによる援けが必要であろう。 講義を受けることはその部分を求めているからともいえるのではないであろうか。
酷な評となるが、理念や理論についての論述展開の背景不足が、この論説の内容を浅くしているように思ったのである。その意味で、共通一次の問題の材料としては、受験生は困惑したであろうし、啓蒙性も、失礼なながらない。
もし、採用するなら、この論説のどこが問題かを、答えさせるのなら意味があるとおもう。
個人的には、設問に取り組む意味を感じない。むしろ、共通一次の国語設問は、人間思考へ有害とさえ思っているので避けている。なぜなら、折角の原文のもつ意味を、受験者の注意力や構文上のテクニックに偏重した設問になっていると判断したからであり、現に目を通してみるとその感がつよい。考えることの充実感を与えないことが、若者に国語科に魅力を与えない結果になっているのではないであろうか。 諸賢の意見を敢えて問うものである。
(水の精)
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