このメッセージは、今から30年ほど前に、大天使ミカエルが、あるチャネラーに語られたものです。地獄は、人間の意識、想念が作り出している世界ですが、それが地上にも影響を及ぼしている、つまりアセンションを妨げている、という事で、地獄を地球からなくしていく為に、私たちが日常生活で心がけるべきことについて、ミカエルならではの視点から、非常に示唆に富んだ対応策が語られています。
(ここから)
ミカエルです。今日もまた、こうした形で、私の話を続けることが出来て、大変うれしく思います。一テーマずつの歩みは、とてもとても遅いものですが、これで、少しでも神埋が明らかになっていくということを思うと、私は、とてもうれしく思います。
さて、今日は、地獄の将来、地獄の未来ということについて話をしてみたいと思います。私たち、天使たちが最も課題としているところ、そして、あなた方地上人が、いちばん敬遠をし、また議論を避けたい部分、それが地獄だと思います。この地獄を、いったいどのようにしてゆけばよいのか。これが今後の課題として大きく立ちはだかってくるのです。
さて、地獄の未来を予言するということはたいへん難しいことです。しかし、これは私たち自身の力の問題でもあるのです。私たちは、この二十世紀末(メッセージ当時)の人類の一大幸福化運動において、決定的な勝利を収めたい、そう思うのです。地獄というものに対し、決定的な勝利を収め、そして一気に天国の世界をこの地上に確立し、そして天上界をも押し上げてみたい。このように考えているのです。
私自身は、もちろんこうした仕事は、ほぼ専任というか専門家となっております。そしてミカエルが動き始めたということで、また魔界の者たちも、そわそわと動き始めて来ているようにも思えます。
ただ、人びとよ。我を信じよ。我の再び復活する時、もはや、闇は消えていくしかない。そのように思いなさい。今回、私は、私自身の総力を結集し、ミカエルの全知恵と、全力をふりしぼって、この迷妄の大海を打ち破り、打ち抜き、そして、すばらしい世界を持ち来たらさんと、心から決意するものです。
さて、ここで私は、地獄というものに対する、私自身の考えを明らかにしておきたいと思います。
まず、地獄にも存在意味がある、と考える方も数多くいます。それは訓練所であり、教育所であり、またそれは刑務所でもある、こういうふうに考える方もいます。確かに、そういう面も結果としてあるとは言えましょう。ただ、天使が天使であるならば、また天使として生きてゆかねばならないならば、この地獄というものは、未来永劫(えいごう)に、肯定されて、よいことでは決してないということです。
その世界に生きている人たちも、かつては、私たちの仲間であったという事実、私たちと同じく楽園で楽しみ、そして地上でユートピアを創っていた人たちなのです。そうした人たちが、今、道を踏みはすして地獄に堕ちているのです。心を狂わせているのです。迷いの中にあるのです。
彼らを何とかして説得し、何とかして導くこと、そのことを努力せすして、はたして天使と言えるでしょうか。そんなもので本当に天使だと言いえるでしょうか。私はそうは思いません。それが本来の天使の姿勢だとは思わないのです。
ゆえに、私は、次のようなことを言っておきたい。やはりあなた方も天使であるならば、天使の子らであるならば、地獄をなくすことを本務とせよ。
そこは苦しみの世界です。その苦しみの世界をなくし、苦しみの底から人びとを救い上げることを願うことです。
地獄の魔王と言われる人たちは、言ってみれば病人のなかでも一番たちの悪い病人です。もし家の中に半狂乱の人がいたとするならば、それは、大変な混乱した家庭となるでしょう。まさしく(地獄は)そうした状況であるのです。
人びとよ、これより後、この病人をなくせ。この心の病人を一掃せよ。悪魔というものを地獄からなくしていくために、全精力を結集せよ。まず、みなさんがそう思うことです。そして勇気をもって行動することです。そこからユートピア創りが始まるのです。
第二に、地獄の、この地上界に及ぼしている影響というものを見てみるにつけ、まず、現在、この世紀末(メッセージ当時)の世の中で、あの世の世界を信じない人びとが増えています。そして唯物思想が増えています。また、宗教をバカにし、批判する人びとが増えていますが、こうした人びとをこそ、今、地獄の霊たちが、そそのかしているということを忘れてはならない。
正統な神理を陥れんとし、また彼らを迫害せんとする者たち、この中に、地獄霊たちに憑(つ)かれ、そしてそそのかされている者が、数多くいるという事実を、私は見逃すことができないのです。彼らが、人間としての主体的な判断でそう考えて、かつ行動するならともかく、霊たちに支配されそそのかされて、そして、そのように生きているということ―これは、まことに不自然であり、また人間として恥ずかしい在り方だと思います。
これより後、私たちは、こうした者たちの扇動(せんどう)によって、また策動(さくどう)によって、そのような大混乱が地上に起こされることを避けねばなりません。
これからは、もっともっと、世の中を本当によくしたいという思いと、世の中を、本当に明るく照らしたいという思いでもって生きてゆくことが大切になっていきます。
地獄に対する考え方をさらに踏み込んで整理するならば、彼らが地獄に堕ちた責任は、むろん彼ら自身にあるわけですが、しかしながら、そこにまで至らせた原因の半分は、地獄にいない私たちにもあるということを知らなくてはなりません。私たちも、やはり、間接的責任者であるということです。どうしてもどうしても、大いなる愛の心で、救いきれなかった―そのことに対して、深い深い反省を致さねばならないと思います。
これが、現在の、地獄というものに対しての私の考えであります。けれども、私は悲しく思うのですが、こうした者たちの力は、日ごとに強く強くなって来つつあるように思います。非常に強く強くなってきて、断末魔に近い悲鳴を上げながらも、何とかして、自分たちの砦(とりで)を、造り上げよう、守り抜こうとしているように思います。実に哀れでありますが、そうした自分たち独自の王国を造ろうとしています。
この地上世界は、彼らによって、全く支配されかかろうとしているのです。あなた方には華やかに見える大都会は、霊的な目で見るならば、こうした地獄の傘下(さんか)に置かれつつある、地獄の植民地となりつつあるのです。そうして都会に生きる人たちの病んだ心、蝕(むしば)まれた心に、彼らは吸血鬼のように取り憑いて、そして、この、悩みという想念の波動を吸い取り、また力を増しているのです。
したがって、多くの人びとが、もっともっと早く牧歌的生活に戻り、そして平和に幸福に暮らせる日を取り戻さねばならないと思います。
さて、ここで私は視点を変えて、一つの事実を訴えてみたいと思います。それが何であるかといえば、老荘的思想の現代的意義なのです。老荘の思想の、一番特徴的なことは「ひっかかりを作らない、執着を作らない、こだわりを持たない」ということです。
この老荘的思想というのは、ある意味で、地獄の世界の、対極をなしている部分もあるのです。天上界の主流においても向上心をもって精進しておりますが、この向上心の目標が違った時に、地獄の中での活躍となることもあります。自らの勢力を増強せんとして動く時に、そのような自己実現をする時に、そこに地獄が拡張されます。しかし、老荘的思想は地獄にはありません。地獄には、そうした無為自然の考え方、また心を調和し、とらわれないという考え方、そうしたものがないのです。私はそう思います。
ですから、現代人は、時折ふり返って、自らの立場を、もう一度考え直してみる必要があると思うのです。さて、あなた方は、それだけ、あくせくとしているが、何のためにあくせくしているのか。あくせくしてどうなったか。その結果、どれだけ幸せが増えたか。―こうしたことを考えてみる必要があると思います。
ときどき、自分の時間を止めてしまうことです。時間の流れを止めて、そしてその中で、陽だまりの中、川の澱みの中に舟を浮かべて、大自然の中の自分というものを見つめ直してみることだと思います。
ここで私が言いたいのは、いったい何であるかというと、世紀末の混乱を起こしている理由の一つは、各人の「私が私が」「俺が俺が」という野望、野心なのです。これが結局、世紀末の混乱を起こしているのです。
信じられないことに、夫と妻とが、それぞれ別々に、自らの理想を追求し、夫婦の関係が崩れ、親子であっても他人のごとく、全く別々に生きることになったり、また家族の道徳が失われ、婦人のモラルが失われ、そうなってきた理由はいったい何であるかというと、自らの理想実現という名の餌でもって、人びとの心が惑わされたという、そうした結果ではないでしょうか。
人びとは、大いなる徳を見失っているのではないでしょうか。大いなる価値を見失っているのではないでしょうか。私はそう思うのです。見せかけだけの幸福や、見せかけだけの値打ちを追うのは、もう止めねばならない時が来ているのです。
地獄霊たちの生き方を見ていると、虚栄に充ち満ちています。虚栄心に充ち満ちているのです。彼らは本当に、自己拡張欲、自己顕示欲に燃えているのです。
なぜ自己拡張欲、自己顕示欲が悪いのかと言えば、これはどういうことかと言うと、他人に自己のよさを見せつけて、そして楽しんでいる、それを喜んでいる、そういう生き方であるからです。
即ち、ここには、個々の人間がバラバラに切り離され、そして、得手勝手に生きている姿があるのです。この、個々の人間が、バラバラに得手勝手に生きている姿のことを、地獄と言うのです。
ゆえに、例えば、考えてもみてください。自己顕示欲に燃え、自己拡張欲に燃えている人に、いったい、どれだけ、多くの人への愛があるかということを。いったい、どれだけ、多くの人びとへの優しさがあるか、ということを考えて頂きたい。真の宗教とは、優しさの中に、生きることではないのか。愛の中に生きることではないのか。こうしたことを、つねづね、考えておかねばならないと思います。
そこで、私は、地獄の魔王たちから身を護るための方策を、いくつか授けたいと思うのです。彼らが人間を扇動し、支配するには、それだけの理由が要ります。彼らにとっての、好都合の理由が必ず要るのです。その一つは悩みというものです。彼らはまるでハイエナか何かのように、悩みという名の精神の腐敗臭を嗅(か)ぎつけると寄ってきます。必ず寄ってくるのです。血の臭いを嗅いだ野獣のように、悩みの臭いを嗅いで必ずやってくるのです。
従って、悩みの中に、長い時間、決していてはならない。これは鉄則であります。もし、一日のうちに悩みがあるとしても、この悩みの時間を小さくしていくこと。一日のうち、一定の時間悩めば、もう考えないでいいような、そうした生き方をしてゆくこと。これが大事です。
魔に打ち克つための警戒の、要所としての第二は、迷いです。悩みと迷いとは、よく似ているようですが、ここにも違いがあります。迷いは、何を意味するかというと、自分自身の未来が見えない、未来の方向が見えない、道が見えない。右すべきか、左すべきかが分からない、こういうことであります。選択肢が分らない。どの道を進むのが本当なのかが分らない―これを迷いというのです。
この迷いに際して取るべき方法は二つです。一つは悠悠自適(ゆうゆうじてき)。時の流れを忍耐して待つ、という生き方です。もう一つは、とりあえず、これぞと思う方向を、まっしぐらに歩んでみることです。まっしぐらに歩んでゆくうちに、道が開けることもある。そうした生き方があります。
ただ、こうした迷いの時に、得てして、人は試行錯誤をくり返します。そして、新たな悩みを作っていきます。迷いの結果、違った行動をとり、その結果、悩みという結果を作り出していく。これが人間の愚かな姿です。そうした時に、私が、あなた方に薦(すす)めたいことは、ときおり大きく深呼吸をし、問題の所在から、とりあえず離れて、自己というものを、もう一度見直してみる。自己というものを、澄んだ目で、澄んだ心で見直してみる。そういう必要があるのではないでしょうか、ということなのです。これも大事な生き方であると思います。
さらに、魔から身を護る際のチェックポイントの、第三としてあることは、これは執着です。迷い・悩み・執着―どれも、よく似ているようであって、少しずつ違っているところがあります。執着とは、ある物事の一点に、心が止まっていくことです。つねに、考えがそこに返っていくことをもって執着というのです。
悩みも、もちろん、執着の一つになりはするでしょうが、悩みの場合、もう少し非生産的な、心の在り方でありましょう。つねに悪しきことを考えて、心からスモッグが出ている状況のことを、悩みというならば、執着というのは、自分自身、それが善きことか悪しきことか分らないままに、ある物事にこだわって、そして、心が、その一点に止まっていることを言うのです。
ただ、大抵の場合、この執着と称されるものは、三次元的な、全く取るに足らないことに人びとの心が向くことを意味しています。よく言われるように、地位だとか名誉、金銭、評判、名声、また、外見、そういうものにこだわることを執着と言います。これ自体は、悩みとも、迷いとも言われないものでしょう。しかし、こうしたものに、心が執われていった時に、それは、そこに無限の底無し沼が展開して来るようになっていくのです。
それは、ほんの軽い気持ちで向かって行ったところが、ズブズブと深い沼の中に入り、腰まで入り、胸まで入り、抜けられなくなってくることを意味します。
この意味での執着は、おそらく地上に生きている以上、万人にあるであろうと思います。この執着は、向上心の中にも含まれているからなのです。よくならんとする心、向上せんとする心のなかにも、やはり、一部の執着はあります。そこに「ぜひともこうせねばならん。」という気持ちが強く起きた時に、それが成就すればよいが、成就しない場合、こだわりとなり、やがて執着となってゆきます。
ここで、私は、地獄霊に対抗するための考え方として、大事なこととしては、この執着に対しても、あっさりとした気持ち、さっぱりとした気持ちを持ち続ける、ということだと思います。
地獄霊の特徴は、ほとんどの人が、性格において、粘着質であるということが言えると思います。何かにこだわって離れない考え方、そういうクヨクヨする性格、執着する性格、これが地獄霊の特徴であります。
一方、地獄霊の中に、決していない性格は、サバサバとした性格、サッパリとした性格です。地獄霊にはこれがありません。こういう人たちがいないのです。サタン、魔王といわれる人たちの中で、サバサバとしている者はありません。ほとんどが、執念深い、本当に執念深く、ヘビの如く、狙った獲物は逃さないという形で、音もなく忍びより、そして、咬(か)みついてくるということが多いといえましょう。
従って、アッサリしているということも非常に大きな美徳である、ということを、私は述べておきたいと思うのです。様々な物事に対して、アッサリとしているということ、これに対して、天使の中にも多くある性格ですが、完全主義的な傾向で悩みに陥っていると、また、サタンが忍び寄ってくることになります。
完全主義という性格は、それは、いい方向に向かえば、確かに自己向上の原理とはなるわけなのですが、一方、これが完全主義という性格にこだわってくると、どうしても、自己が低く見られたくない、自己の欠点を人に見られたくない、自己を人によく見せたい、という気持ちで凝り固まっていくようになってきます。これもまた一つの執着であります。理想家肌の人には非常に多いのです。
しかし、現実に見た場合に、どこに完全なるものがありましょうか。人間にしても、動物にしても、家にしても道路にしても、建物にしても、いろんな物にしても、完全というものは、追究しても、あるものではありません。それぞれに、欠点を見る目で見れば欠点が見え、長所を見る目で見れば長所が見える、そういうものではないでしょうか。
私は、こうした地獄的な考え方から逃れて、そして、より健康に生きていくために、八割主義という考えを出してみたいと思います。大きな方向において、間違っていないのならば、八割できれば、よいではないか、そうした考え方です。十割を狙うと、それが執着となり、苦しみを生んでいきます。ただ、大きな方向として間違っていないなら、八分目をもって、よしとするという考え、これを大事にすることです。
時々、身を焦がし、苦しみ悩んでいる時に、自分が十割を目指しているのではないかどうかを、ふリ返って考えてみることです。「八割でもよいのだ。八割でも大いなる前進だ。五分と五分で、これで、ちょうど半々であるならば、八割、九割は大成功だ。それ以上、自分の才能からいっても能力からいっても、高望みはしない。」―この八割主義を重ねていった時に、結構、また、すばらしい成果を創っていくことが可能となってゆくのです。
以上で、私が述べたかったことは、地獄霊的性格とは、いったい何であるかということでした。悩み・迷い・執着、そして、その執着は、執念にも似たもの、こうなっています。
さらに、地獄霊的なるものを挙げるとするならば、自分の力の誇示、自分の力を、どのように発揮し見せつけるか、こういうことを、いつもいつも念頭に置いている人、これが、地獄的な考え方であろうと思います。
人から、自分がどう見られようが、そんなことは全く気にしないで、淡々と生きていけるような皆さん方でありなさい。人の評価は人の評価、自分は自分として、いい仕事を積み重ねていく。そうした考え方を大事にしてゆきなさい。そうでなければ、人間として生きていって、非常に寂しいものとなってくるでしょう。
物事には両面あるでしょう。いろいろな物事に両面があり、判断に苦しむことが多いでしょう。しかしながら、いちいち、人の毀誉褒貶(きよほうへん)に心を動かしていてはどうしようもないではないですか。やはり、自分として、誠実に一歩一歩を歩んでゆくこと、これが大事だと思います。そうでなければ、本当にすばらしい生き方は、出来ないのだと思います。
ある地位に就いていたとして、今その地位をなくしたとしても何の問題もない、こういう生き方、飄々(ひょうひょう)として生きていく生き方、これを、現代に、また、大切な考えとして、取り入れていかざるをえないと思います。
以上、心の在り方を中心にして、地獄霊的性格からの脱出について述べてまいりました。さらに、私は、これだけで止まってはいけないということを言っておきたいと思います。
こうした調和を中心とし、心の平静を中心とする考えが出来たならば、これから、明るい方向に向かって歩み出ていくこと、一歩、歩み出ていくということか大事ではないかと思います。光明面に向かって歩み出ていく時に、闇が消えていく、という事実があるように思えるのです。
では、光明面に向かって歩み出ていくということは、いったいどういうことでしょうか。地獄に生きている人たちは、魂において栄養のバランスが崩れ、欠乏症になっています。ビタミンの欠乏症になっています。魂のビタミンが欠けているのです。そのビタミンを、補給していくことが大事だと思います。
このビタミンの名を何と言うのでしょうか。それを、ある時には愛と言い、慈悲と言い、そして、また、調和と言い、美と言い、また優しさ、親切さ、こうした名称で呼ぶのではないでしょうか。私は、本当に、こうした美しい言葉と、美しい思いが、この世とあの世にあふれることを希望しています。そして、まず、他の人から、そうしたものを頂けないとするならば、自分が、無限に、それを供給していく。これが大事だと思います。
無限供給の世界です。無限に、善念を供給する世界の展開、これが大事だと思うのです。世の中を変えてゆくためには、そうしなければなりません。自分が自分がという、人の目を意識することをやめて、どれだけ自分の行動が、思いが、言葉が、人びとを善くすることができたか。人びとを善ならしめることができたか。これを中心に考えていきなさい。その時、大いなる道が開けてゆくのだと思えるのです。
さて最後に、私は、この、地獄の将来ということに関して、次の二つのことを希望しておきたいと思います。
それは、地獄の将来を決めるものの、第一は、個人の心の調和の在り方を、いかに向上させるかということにあるわけです。外面的に、いくら、例えば、信奉者を増やすとか、或いは知名度を上げるとか、こういうことに努力したとしても、そこに心の向上がなかったならば、虚しいこととなってしまいます。その、心の向上を、中心に考えていくことだと思います。
第二番目に必要なことは、何であるかと言うと、この三次元の生活は、ひとときの生活である、ということを、全ての人に自覚してもらうことだと思います。これが、ひとときの生活であり、一時の宿りであり、また、ひとときの旅である、と思えばこそ、この旅を、すばらしいものとしようという気持ちが起きてくるのです。
人間は、永遠の旅人として、はるかなる昔より、はるかなる未来に向けて生きてゆくものです。この人生、今回の人生も、やはり、ひとコマにしかすぎないものです。そうであるならば、そのひとコマに、こだわりすぎることなく、すばらしい一日とするように、すばらしい旅行とするように、そうした気持ちで生きてゆくことです。それが本当に、結果としては、よいものを生み出してゆくのです。
ミカエルも、また、天上界にあって、あなた方の心を浄化し、あなた方を、はるかなる神のみもとにいざなうために、日々、努力精進しております。あなた方も、本日、私が語ったことを、よくよく胸に止め、心に止めて、自らをふり返り、正しく生きていくようにして下さい。それを願っています。その時に、地獄は、気がつかないうちになくなっていく、小さくなっていく、そういうようになるものだと思います。
巨大とも思えし地獄が、小さなものとなって、やがて消滅してゆく姿を、私は、いつも、いつも理想に描いています。あなた方も、そうした理想をもって生きてください。それを心からお願いして、本日の話を終わるといたしましょう。
(ここから)
ミカエルです。今日もまた、こうした形で、私の話を続けることが出来て、大変うれしく思います。一テーマずつの歩みは、とてもとても遅いものですが、これで、少しでも神埋が明らかになっていくということを思うと、私は、とてもうれしく思います。
さて、今日は、地獄の将来、地獄の未来ということについて話をしてみたいと思います。私たち、天使たちが最も課題としているところ、そして、あなた方地上人が、いちばん敬遠をし、また議論を避けたい部分、それが地獄だと思います。この地獄を、いったいどのようにしてゆけばよいのか。これが今後の課題として大きく立ちはだかってくるのです。
さて、地獄の未来を予言するということはたいへん難しいことです。しかし、これは私たち自身の力の問題でもあるのです。私たちは、この二十世紀末(メッセージ当時)の人類の一大幸福化運動において、決定的な勝利を収めたい、そう思うのです。地獄というものに対し、決定的な勝利を収め、そして一気に天国の世界をこの地上に確立し、そして天上界をも押し上げてみたい。このように考えているのです。
私自身は、もちろんこうした仕事は、ほぼ専任というか専門家となっております。そしてミカエルが動き始めたということで、また魔界の者たちも、そわそわと動き始めて来ているようにも思えます。
ただ、人びとよ。我を信じよ。我の再び復活する時、もはや、闇は消えていくしかない。そのように思いなさい。今回、私は、私自身の総力を結集し、ミカエルの全知恵と、全力をふりしぼって、この迷妄の大海を打ち破り、打ち抜き、そして、すばらしい世界を持ち来たらさんと、心から決意するものです。
さて、ここで私は、地獄というものに対する、私自身の考えを明らかにしておきたいと思います。
まず、地獄にも存在意味がある、と考える方も数多くいます。それは訓練所であり、教育所であり、またそれは刑務所でもある、こういうふうに考える方もいます。確かに、そういう面も結果としてあるとは言えましょう。ただ、天使が天使であるならば、また天使として生きてゆかねばならないならば、この地獄というものは、未来永劫(えいごう)に、肯定されて、よいことでは決してないということです。
その世界に生きている人たちも、かつては、私たちの仲間であったという事実、私たちと同じく楽園で楽しみ、そして地上でユートピアを創っていた人たちなのです。そうした人たちが、今、道を踏みはすして地獄に堕ちているのです。心を狂わせているのです。迷いの中にあるのです。
彼らを何とかして説得し、何とかして導くこと、そのことを努力せすして、はたして天使と言えるでしょうか。そんなもので本当に天使だと言いえるでしょうか。私はそうは思いません。それが本来の天使の姿勢だとは思わないのです。
ゆえに、私は、次のようなことを言っておきたい。やはりあなた方も天使であるならば、天使の子らであるならば、地獄をなくすことを本務とせよ。
そこは苦しみの世界です。その苦しみの世界をなくし、苦しみの底から人びとを救い上げることを願うことです。
地獄の魔王と言われる人たちは、言ってみれば病人のなかでも一番たちの悪い病人です。もし家の中に半狂乱の人がいたとするならば、それは、大変な混乱した家庭となるでしょう。まさしく(地獄は)そうした状況であるのです。
人びとよ、これより後、この病人をなくせ。この心の病人を一掃せよ。悪魔というものを地獄からなくしていくために、全精力を結集せよ。まず、みなさんがそう思うことです。そして勇気をもって行動することです。そこからユートピア創りが始まるのです。
第二に、地獄の、この地上界に及ぼしている影響というものを見てみるにつけ、まず、現在、この世紀末(メッセージ当時)の世の中で、あの世の世界を信じない人びとが増えています。そして唯物思想が増えています。また、宗教をバカにし、批判する人びとが増えていますが、こうした人びとをこそ、今、地獄の霊たちが、そそのかしているということを忘れてはならない。
正統な神理を陥れんとし、また彼らを迫害せんとする者たち、この中に、地獄霊たちに憑(つ)かれ、そしてそそのかされている者が、数多くいるという事実を、私は見逃すことができないのです。彼らが、人間としての主体的な判断でそう考えて、かつ行動するならともかく、霊たちに支配されそそのかされて、そして、そのように生きているということ―これは、まことに不自然であり、また人間として恥ずかしい在り方だと思います。
これより後、私たちは、こうした者たちの扇動(せんどう)によって、また策動(さくどう)によって、そのような大混乱が地上に起こされることを避けねばなりません。
これからは、もっともっと、世の中を本当によくしたいという思いと、世の中を、本当に明るく照らしたいという思いでもって生きてゆくことが大切になっていきます。
地獄に対する考え方をさらに踏み込んで整理するならば、彼らが地獄に堕ちた責任は、むろん彼ら自身にあるわけですが、しかしながら、そこにまで至らせた原因の半分は、地獄にいない私たちにもあるということを知らなくてはなりません。私たちも、やはり、間接的責任者であるということです。どうしてもどうしても、大いなる愛の心で、救いきれなかった―そのことに対して、深い深い反省を致さねばならないと思います。
これが、現在の、地獄というものに対しての私の考えであります。けれども、私は悲しく思うのですが、こうした者たちの力は、日ごとに強く強くなって来つつあるように思います。非常に強く強くなってきて、断末魔に近い悲鳴を上げながらも、何とかして、自分たちの砦(とりで)を、造り上げよう、守り抜こうとしているように思います。実に哀れでありますが、そうした自分たち独自の王国を造ろうとしています。
この地上世界は、彼らによって、全く支配されかかろうとしているのです。あなた方には華やかに見える大都会は、霊的な目で見るならば、こうした地獄の傘下(さんか)に置かれつつある、地獄の植民地となりつつあるのです。そうして都会に生きる人たちの病んだ心、蝕(むしば)まれた心に、彼らは吸血鬼のように取り憑いて、そして、この、悩みという想念の波動を吸い取り、また力を増しているのです。
したがって、多くの人びとが、もっともっと早く牧歌的生活に戻り、そして平和に幸福に暮らせる日を取り戻さねばならないと思います。
さて、ここで私は視点を変えて、一つの事実を訴えてみたいと思います。それが何であるかといえば、老荘的思想の現代的意義なのです。老荘の思想の、一番特徴的なことは「ひっかかりを作らない、執着を作らない、こだわりを持たない」ということです。
この老荘的思想というのは、ある意味で、地獄の世界の、対極をなしている部分もあるのです。天上界の主流においても向上心をもって精進しておりますが、この向上心の目標が違った時に、地獄の中での活躍となることもあります。自らの勢力を増強せんとして動く時に、そのような自己実現をする時に、そこに地獄が拡張されます。しかし、老荘的思想は地獄にはありません。地獄には、そうした無為自然の考え方、また心を調和し、とらわれないという考え方、そうしたものがないのです。私はそう思います。
ですから、現代人は、時折ふり返って、自らの立場を、もう一度考え直してみる必要があると思うのです。さて、あなた方は、それだけ、あくせくとしているが、何のためにあくせくしているのか。あくせくしてどうなったか。その結果、どれだけ幸せが増えたか。―こうしたことを考えてみる必要があると思います。
ときどき、自分の時間を止めてしまうことです。時間の流れを止めて、そしてその中で、陽だまりの中、川の澱みの中に舟を浮かべて、大自然の中の自分というものを見つめ直してみることだと思います。
ここで私が言いたいのは、いったい何であるかというと、世紀末の混乱を起こしている理由の一つは、各人の「私が私が」「俺が俺が」という野望、野心なのです。これが結局、世紀末の混乱を起こしているのです。
信じられないことに、夫と妻とが、それぞれ別々に、自らの理想を追求し、夫婦の関係が崩れ、親子であっても他人のごとく、全く別々に生きることになったり、また家族の道徳が失われ、婦人のモラルが失われ、そうなってきた理由はいったい何であるかというと、自らの理想実現という名の餌でもって、人びとの心が惑わされたという、そうした結果ではないでしょうか。
人びとは、大いなる徳を見失っているのではないでしょうか。大いなる価値を見失っているのではないでしょうか。私はそう思うのです。見せかけだけの幸福や、見せかけだけの値打ちを追うのは、もう止めねばならない時が来ているのです。
地獄霊たちの生き方を見ていると、虚栄に充ち満ちています。虚栄心に充ち満ちているのです。彼らは本当に、自己拡張欲、自己顕示欲に燃えているのです。
なぜ自己拡張欲、自己顕示欲が悪いのかと言えば、これはどういうことかと言うと、他人に自己のよさを見せつけて、そして楽しんでいる、それを喜んでいる、そういう生き方であるからです。
即ち、ここには、個々の人間がバラバラに切り離され、そして、得手勝手に生きている姿があるのです。この、個々の人間が、バラバラに得手勝手に生きている姿のことを、地獄と言うのです。
ゆえに、例えば、考えてもみてください。自己顕示欲に燃え、自己拡張欲に燃えている人に、いったい、どれだけ、多くの人への愛があるかということを。いったい、どれだけ、多くの人びとへの優しさがあるか、ということを考えて頂きたい。真の宗教とは、優しさの中に、生きることではないのか。愛の中に生きることではないのか。こうしたことを、つねづね、考えておかねばならないと思います。
そこで、私は、地獄の魔王たちから身を護るための方策を、いくつか授けたいと思うのです。彼らが人間を扇動し、支配するには、それだけの理由が要ります。彼らにとっての、好都合の理由が必ず要るのです。その一つは悩みというものです。彼らはまるでハイエナか何かのように、悩みという名の精神の腐敗臭を嗅(か)ぎつけると寄ってきます。必ず寄ってくるのです。血の臭いを嗅いだ野獣のように、悩みの臭いを嗅いで必ずやってくるのです。
従って、悩みの中に、長い時間、決していてはならない。これは鉄則であります。もし、一日のうちに悩みがあるとしても、この悩みの時間を小さくしていくこと。一日のうち、一定の時間悩めば、もう考えないでいいような、そうした生き方をしてゆくこと。これが大事です。
魔に打ち克つための警戒の、要所としての第二は、迷いです。悩みと迷いとは、よく似ているようですが、ここにも違いがあります。迷いは、何を意味するかというと、自分自身の未来が見えない、未来の方向が見えない、道が見えない。右すべきか、左すべきかが分からない、こういうことであります。選択肢が分らない。どの道を進むのが本当なのかが分らない―これを迷いというのです。
この迷いに際して取るべき方法は二つです。一つは悠悠自適(ゆうゆうじてき)。時の流れを忍耐して待つ、という生き方です。もう一つは、とりあえず、これぞと思う方向を、まっしぐらに歩んでみることです。まっしぐらに歩んでゆくうちに、道が開けることもある。そうした生き方があります。
ただ、こうした迷いの時に、得てして、人は試行錯誤をくり返します。そして、新たな悩みを作っていきます。迷いの結果、違った行動をとり、その結果、悩みという結果を作り出していく。これが人間の愚かな姿です。そうした時に、私が、あなた方に薦(すす)めたいことは、ときおり大きく深呼吸をし、問題の所在から、とりあえず離れて、自己というものを、もう一度見直してみる。自己というものを、澄んだ目で、澄んだ心で見直してみる。そういう必要があるのではないでしょうか、ということなのです。これも大事な生き方であると思います。
さらに、魔から身を護る際のチェックポイントの、第三としてあることは、これは執着です。迷い・悩み・執着―どれも、よく似ているようであって、少しずつ違っているところがあります。執着とは、ある物事の一点に、心が止まっていくことです。つねに、考えがそこに返っていくことをもって執着というのです。
悩みも、もちろん、執着の一つになりはするでしょうが、悩みの場合、もう少し非生産的な、心の在り方でありましょう。つねに悪しきことを考えて、心からスモッグが出ている状況のことを、悩みというならば、執着というのは、自分自身、それが善きことか悪しきことか分らないままに、ある物事にこだわって、そして、心が、その一点に止まっていることを言うのです。
ただ、大抵の場合、この執着と称されるものは、三次元的な、全く取るに足らないことに人びとの心が向くことを意味しています。よく言われるように、地位だとか名誉、金銭、評判、名声、また、外見、そういうものにこだわることを執着と言います。これ自体は、悩みとも、迷いとも言われないものでしょう。しかし、こうしたものに、心が執われていった時に、それは、そこに無限の底無し沼が展開して来るようになっていくのです。
それは、ほんの軽い気持ちで向かって行ったところが、ズブズブと深い沼の中に入り、腰まで入り、胸まで入り、抜けられなくなってくることを意味します。
この意味での執着は、おそらく地上に生きている以上、万人にあるであろうと思います。この執着は、向上心の中にも含まれているからなのです。よくならんとする心、向上せんとする心のなかにも、やはり、一部の執着はあります。そこに「ぜひともこうせねばならん。」という気持ちが強く起きた時に、それが成就すればよいが、成就しない場合、こだわりとなり、やがて執着となってゆきます。
ここで、私は、地獄霊に対抗するための考え方として、大事なこととしては、この執着に対しても、あっさりとした気持ち、さっぱりとした気持ちを持ち続ける、ということだと思います。
地獄霊の特徴は、ほとんどの人が、性格において、粘着質であるということが言えると思います。何かにこだわって離れない考え方、そういうクヨクヨする性格、執着する性格、これが地獄霊の特徴であります。
一方、地獄霊の中に、決していない性格は、サバサバとした性格、サッパリとした性格です。地獄霊にはこれがありません。こういう人たちがいないのです。サタン、魔王といわれる人たちの中で、サバサバとしている者はありません。ほとんどが、執念深い、本当に執念深く、ヘビの如く、狙った獲物は逃さないという形で、音もなく忍びより、そして、咬(か)みついてくるということが多いといえましょう。
従って、アッサリしているということも非常に大きな美徳である、ということを、私は述べておきたいと思うのです。様々な物事に対して、アッサリとしているということ、これに対して、天使の中にも多くある性格ですが、完全主義的な傾向で悩みに陥っていると、また、サタンが忍び寄ってくることになります。
完全主義という性格は、それは、いい方向に向かえば、確かに自己向上の原理とはなるわけなのですが、一方、これが完全主義という性格にこだわってくると、どうしても、自己が低く見られたくない、自己の欠点を人に見られたくない、自己を人によく見せたい、という気持ちで凝り固まっていくようになってきます。これもまた一つの執着であります。理想家肌の人には非常に多いのです。
しかし、現実に見た場合に、どこに完全なるものがありましょうか。人間にしても、動物にしても、家にしても道路にしても、建物にしても、いろんな物にしても、完全というものは、追究しても、あるものではありません。それぞれに、欠点を見る目で見れば欠点が見え、長所を見る目で見れば長所が見える、そういうものではないでしょうか。
私は、こうした地獄的な考え方から逃れて、そして、より健康に生きていくために、八割主義という考えを出してみたいと思います。大きな方向において、間違っていないのならば、八割できれば、よいではないか、そうした考え方です。十割を狙うと、それが執着となり、苦しみを生んでいきます。ただ、大きな方向として間違っていないなら、八分目をもって、よしとするという考え、これを大事にすることです。
時々、身を焦がし、苦しみ悩んでいる時に、自分が十割を目指しているのではないかどうかを、ふリ返って考えてみることです。「八割でもよいのだ。八割でも大いなる前進だ。五分と五分で、これで、ちょうど半々であるならば、八割、九割は大成功だ。それ以上、自分の才能からいっても能力からいっても、高望みはしない。」―この八割主義を重ねていった時に、結構、また、すばらしい成果を創っていくことが可能となってゆくのです。
以上で、私が述べたかったことは、地獄霊的性格とは、いったい何であるかということでした。悩み・迷い・執着、そして、その執着は、執念にも似たもの、こうなっています。
さらに、地獄霊的なるものを挙げるとするならば、自分の力の誇示、自分の力を、どのように発揮し見せつけるか、こういうことを、いつもいつも念頭に置いている人、これが、地獄的な考え方であろうと思います。
人から、自分がどう見られようが、そんなことは全く気にしないで、淡々と生きていけるような皆さん方でありなさい。人の評価は人の評価、自分は自分として、いい仕事を積み重ねていく。そうした考え方を大事にしてゆきなさい。そうでなければ、人間として生きていって、非常に寂しいものとなってくるでしょう。
物事には両面あるでしょう。いろいろな物事に両面があり、判断に苦しむことが多いでしょう。しかしながら、いちいち、人の毀誉褒貶(きよほうへん)に心を動かしていてはどうしようもないではないですか。やはり、自分として、誠実に一歩一歩を歩んでゆくこと、これが大事だと思います。そうでなければ、本当にすばらしい生き方は、出来ないのだと思います。
ある地位に就いていたとして、今その地位をなくしたとしても何の問題もない、こういう生き方、飄々(ひょうひょう)として生きていく生き方、これを、現代に、また、大切な考えとして、取り入れていかざるをえないと思います。
以上、心の在り方を中心にして、地獄霊的性格からの脱出について述べてまいりました。さらに、私は、これだけで止まってはいけないということを言っておきたいと思います。
こうした調和を中心とし、心の平静を中心とする考えが出来たならば、これから、明るい方向に向かって歩み出ていくこと、一歩、歩み出ていくということか大事ではないかと思います。光明面に向かって歩み出ていく時に、闇が消えていく、という事実があるように思えるのです。
では、光明面に向かって歩み出ていくということは、いったいどういうことでしょうか。地獄に生きている人たちは、魂において栄養のバランスが崩れ、欠乏症になっています。ビタミンの欠乏症になっています。魂のビタミンが欠けているのです。そのビタミンを、補給していくことが大事だと思います。
このビタミンの名を何と言うのでしょうか。それを、ある時には愛と言い、慈悲と言い、そして、また、調和と言い、美と言い、また優しさ、親切さ、こうした名称で呼ぶのではないでしょうか。私は、本当に、こうした美しい言葉と、美しい思いが、この世とあの世にあふれることを希望しています。そして、まず、他の人から、そうしたものを頂けないとするならば、自分が、無限に、それを供給していく。これが大事だと思います。
無限供給の世界です。無限に、善念を供給する世界の展開、これが大事だと思うのです。世の中を変えてゆくためには、そうしなければなりません。自分が自分がという、人の目を意識することをやめて、どれだけ自分の行動が、思いが、言葉が、人びとを善くすることができたか。人びとを善ならしめることができたか。これを中心に考えていきなさい。その時、大いなる道が開けてゆくのだと思えるのです。
さて最後に、私は、この、地獄の将来ということに関して、次の二つのことを希望しておきたいと思います。
それは、地獄の将来を決めるものの、第一は、個人の心の調和の在り方を、いかに向上させるかということにあるわけです。外面的に、いくら、例えば、信奉者を増やすとか、或いは知名度を上げるとか、こういうことに努力したとしても、そこに心の向上がなかったならば、虚しいこととなってしまいます。その、心の向上を、中心に考えていくことだと思います。
第二番目に必要なことは、何であるかと言うと、この三次元の生活は、ひとときの生活である、ということを、全ての人に自覚してもらうことだと思います。これが、ひとときの生活であり、一時の宿りであり、また、ひとときの旅である、と思えばこそ、この旅を、すばらしいものとしようという気持ちが起きてくるのです。
人間は、永遠の旅人として、はるかなる昔より、はるかなる未来に向けて生きてゆくものです。この人生、今回の人生も、やはり、ひとコマにしかすぎないものです。そうであるならば、そのひとコマに、こだわりすぎることなく、すばらしい一日とするように、すばらしい旅行とするように、そうした気持ちで生きてゆくことです。それが本当に、結果としては、よいものを生み出してゆくのです。
ミカエルも、また、天上界にあって、あなた方の心を浄化し、あなた方を、はるかなる神のみもとにいざなうために、日々、努力精進しております。あなた方も、本日、私が語ったことを、よくよく胸に止め、心に止めて、自らをふり返り、正しく生きていくようにして下さい。それを願っています。その時に、地獄は、気がつかないうちになくなっていく、小さくなっていく、そういうようになるものだと思います。
巨大とも思えし地獄が、小さなものとなって、やがて消滅してゆく姿を、私は、いつも、いつも理想に描いています。あなた方も、そうした理想をもって生きてください。それを心からお願いして、本日の話を終わるといたしましょう。
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