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結婚と意識の世界、スウェーデンボルグのメッセージ

2018年12月02日 | 精神世界
先日の、スウェーデンボルグの転生輪廻のお話、如何だったでしょうか。日本の仏教の中興の祖、源信が、氏の過去世の一つであったとは、意外な感じもすると同時に、仏教の教えの大きな課題の一つ、転生輪廻が話題である事も納得がいく気もします。日本の仏教の転生輪廻の概念の誤りについて、修正しておきたいお気持ちも、あるのかも知れません。今回は、豊富な霊界での見聞を元にした、結婚というテーマで語られているメッセージです。結婚という、人間同士の関わり合いと、そこにある意識の違いを、次元と絡めて説明されています。


(ここから)

スウェーデンボルグです。今日は、皆さんは、多少、奇異に感じられるかもしれませんが「霊界と結婚」という話をしておきたいと思います。

結婚ということの意味、霊界における結婚の意味などについても、私は生前、書物を著わしたこともあります。ですが今回は、そうした知識を持っていない方を対象に、現時点での私の研究をご紹介したいと思うのです。

まず、「霊界と結婚」という題ですが、霊界について詳しい方は、これを、まことに不思議な感覚で受けとめられるかも知れません。結婚は肉体を持っているときだけにあるのであって、霊になってからも結婚が果たしてあるのだろうかと、それを不思議に思われると思うのです。

そこで、私が調べてきた霊界の結婚論について、語ってみたいと思うのです。おそらく皆さんの多くは、この意見に賛同され、来世への希望を持つようになるのではないかと思います。

まず、霊界といわれる世界も、非常に広大無辺であることを、断わっておかねばなりません。その世界は、幾層、幾十層にも分かれていて、細かく細分化すると、いったい何十階層に分かれているかが分かりません。それほど、多くの層が出来ております。

今、地上の或るところでは、霊界を四次元から九次元までに分類して、大まかな説明をしているように聞いています。ただ、私が実際に体験した霊界ということから見れば、もっともっと、二十層、三十層、あるいは、それ以上にも分かれているのではないか、と推定されるのです。

さて、そうした多層構造になっているのが霊界のありさまであることを前提として、その中の、男女の霊のあり方について語ってみたいと思います。

まず、肉体を去っても、男女があるのか、ということに関しては、非常に不思議な感じを抱かれる方が多いでしょう。男女の差は、肉体器官の差であって、霊的な差ではないのではないか、そう考える方も多いでしょう。確かに、それなりの根拠があります。女性が、地上で子供を産むということのために、母親としての機能を特ちます。そのために、父親となるべき男性と、全く違った肉体的形状をしている。このように考えることが出来ましょう。

従って、霊界では、もう子供も産まないというのであれば、女性にとっての乳房も、また、女性的な他の諸器官も必要がないだろうし、また男性は、父親としての機能を果たすべき部分も必要はないのではないか、このように考えられる方が多いのではないかと思います。

ただ、これは、まだ人間というものを、肉体的な外形から捉えているからではないかと思われるのです。つまり、それは、肉体的外形によって、魂の本来の姿を類推しているのではないでしょうか。ですが、実際は、男性的なるもの、女性的なるものとは、必ずしも肉体的外観によって規定されるものではないのです。

それは、もっともっと大きな問題です。もっともっと大きな、理念的な、あるいは精神的な課題としてあるものなのです。精神的課題として、例えば、男性的なるものとは、いったい何であるか、こう考えてみると、明らかに、ここに、一つの精神的要素として、積極的なるもの、というものがあります。あるいは、力強きもの、荒々しきもの、陽性なもの、こういう要素があると思います。これに対して、女性霊の特徴は何であるかというと、消極的とも言えるであろうし、あるいは優美ともいえるであろうし、また、繊細さ、感受性の強さ、美しさ、こういった特徴が、女性霊としての特徴でもある、といい得るのではないかと思うのです。

こうしてみると、男女の基本的特性というべきものは、地上を去った世界にも、やはり、あると考えざるを得ません。そして、霊界においても、高次の霊界は別として、まだまだ人間的意識の残っている低位霊界、あるいは、中位霊界においては、男女は、形態上も男女としての特徴を外側に出していると言えましょう。

こうしてみると、男なるものの霊、女なるものの霊は、明らかにあるといってよいでしょう。たとえその霊が、人間的姿をとっていない場合であったとしても、自らにその霊が近づいて来た時に、これは男性霊であるか、女性霊であるかということは、霊人にとっては割合簡単に判るのです。それは、霊的意識体から発せられる、その波動によって感じられるのです。

女性霊と接した時には、柔らかい感じを受けます。たとえ、その姿が見えなくても、たとえ、その姿が球体のようになっていたとしても、他のものに変化していたとしても、女性霊からは何かしら柔らかいものを感じますし、霊となっても、ある種の女性霊は、色気さえ漂わせているといってもよいかもしれません。

他方、男性霊の場合は、やはり、力強さ、積極性というものを前面に出して来ているように思いますから、その霊と会った瞬間、すれちがった瞬間に、男性霊であることが分かります。皆さんの多くは、いま私が話していることの意味が、よく解らないのではないかと思います。すれちがった時とか、出会った時とか、「人間的な姿をとっていなくても」という言葉を発すると、いったいどのような世界であるのか、これがさっぱり分らないいと思います。

それは、確かにその通りでありましょう。この、霊界という所は、死後二百年以上こちらにいる私であっても、なかなか現在でも、容易には分らないのです。それだけの広大無辺な世界であって、いたるところで、全く新しい光景というものに出会います。

同じ世界の中に他の霊がいたとしても、そのことに気づかずに過ごしている人も相当いるのです。この意味が分かるでしょうか。霊界というのは、三次元的な縦・横・高さの世界ではなく、直感と直感が引き合う世界、直覚と直覚とが引き合う世界、また、霊感と霊感とが、お互いの存在を主張し合う世界でもあるのです。

そうしてみると、距離的に見れば、極めて近い所にいる霊存在どうしてあっても、お互いの関心事が全く違っていれば、互いに、相手の存在を知覚しないままに通り過ぎる、ということは、よくあることなのです。

それは、あなた方に解るように、視覚的にいうとするならば、霊と霊とがぶつかり、衝突するということもあるのですが、それでも、お互いに気がつかずに通り過ぎてゆくことがあるのです。こんなことは、地上の人間には分からないでしょうが、例えば、幽霊というものが出てきたら、壁を難なく通り抜けて出てくる、また消えてゆくというように言われていることぐらいはご存じでしょう。

これと同じように、霊界においては、霊人と霊人は、互いにに衝突しても、気がつかないですれ違ってゆくということが、幾らでも可能なのです。相手の存在を認めた時だけ、初めて、相手は存在という形式に入るのであって、相手の存在を認めない時には、存在が、まるでないのと同じなのです。

従って、一日のうち何度も、他の霊人の身体の中を横切っていることなど、よくあることです。そしてお互いどうし、気がつかないでいることが多いのです。

また、もう一つ、この霊界の秘密を明かすとするならば、見ている世界が同じである保証が、どこにもないということなのです。例えば私の目には赤茶けた砂漠に見える霊的世界であっても、その世界に住んでいる人から見れば、緑の生い茂った世界のように見える場合もあるのです。これはまことに不思議ですが、その霊人が思っている心象風景そのものに見える、と言ってよいのです。

例えば私は、かなりの高位霊界において、かなりのものを実体験し、その環境になじんでいますから、私が、通常の霊界、あるいは幽界と言われるような世界に来て、そこの精霊たちと交わったとしても、私には、その世界が、それほど美しいものには決して見えないのです。

私から見れば、どちらかといえば、雑然とした町に見えたり、あるいは、雑草の生えた公園とか草原に見えるものが、この、幽界なら幽界、狭義の霊界なら霊界という所に住んでいる人たちから見れば、限りなく美しく見えるらしいのです。どうも、そういうように見えるらしいということが判っています。

これは、ちょうど、自分の生活圏が違えば、違ったように世の中が見えるのと、恐らく同じでしょう。日本のような都会に住んでいる人であるならば、発展途上国に行けば、その姿が、いかにも悲惨に見えると思います。

非衛生的な生活をしており、食糧事情も悪く、いかにも、これは大変な所だという感じがするのですが、逆に、発展途上の国の方から見れば、生まれ育った時から、そういう生活に慣れていたわけであって、決して特別に困っている風情はないし、また、日本人から見れば、濁った水で御飯を炊いたり、濁った水で洗濯をしたり、沐浴をしたりということで、まことに不思議に感じられるのですが、これが、残念ながら、彼らにはそうは感じられない。

生まれた時から川は濁っていた、そして、生まれた時から人々はその水で炊事をし、洗濯をし、沐浴をしていた。こういうことになれば、全く違和感がない。こういうように言えましょう。

このように、人間は、より高次なものを知ってしまうと、低次なものが、かすんで見えるということが、よくあるのです。同じように、高級霊界において、その生活を満喫している霊人にとっては、低位霊界における生活は、どうもしっくり来ないことは、想像に難くないことと思います。

そうしたことは、決して外見だけのことではないのです。彼らの考え方、信条についても同じようなことが言えます。則ち、その世界にいる人たちは幸福感を持っているわけですが、彼らの幸福感は、私たちから見ると、とても、ちっぽけで、とても取るに足らないもので、とても刹那的なものに見えるのですが、その世界にいる人にとっては、その幸福が結構最高級であるかのように見えて、それに囚われることがあるのです。まるで、最高級の幸福感、そのように感じられるのです。

例えば、私たち高位霊界にある者にとっては、力ずくで、人を自分の意のままにさせて、それでうれしい、ということはありませんが、極めて下の次元の世界においては、自分の念でもって人を自由に出来るということを、最上の悦びと感じている者もおります。

また、これのみならず、霊界には、もはや地上のような物質はないにもかかわらず、色んな物質を造り出して、そして、その売買などに熱を上げている者もあります。地上の生活が、どうしても忘れがたいと、そうした現象が起きてくるのです。また、これ以外にも、変わった点は随分あります。私たちから見れば、下次元の人間は、その人相は様々に見えますし、その人たちの長所・短所が極めてよく分かるわけですが、同次元の人には、なかなか、よく分らないらしいということが言えるのです。

同次元の人にとってみれば、全て自分と同じような知力や、認識力があるように感じられるわけです。そして、何ら他と違っていない、という感覚に打たれることが多いのです。

そこで、私たちは、降りて行って様々なことを話し、「こういうふうにした方がよいのではないか」というアドバイスをすることが多いのですが、その意味が、彼らには解らないということがよくあります。彼らには、なにゆえに、そのようなアドバイスがなされるのか、その意味が分らないのです。

このように、どのような霊人も、自らの認識力と理解力の及ぶ範囲の世界の中で生きていると言えるのです。

さて、それでは、この、結婚という問題は、どういうふうに捉えられているのだろうかということです。地上の人間の中には、明らかに、結婚欲というものがありますから、霊界にも、それがあるということは、不思議でも何でもないと言ってよいでしょう。

まず、私たちの目から見れば、神の意に反した、暗い世界、寒い世界だと思われる地獄でさえ、結婚に類したものはあります。それは、正式に両者が愛し合って結婚した、という感じではないでしょうが、あるものへの恐怖心、脅し、こうしたもので、むりやり結婚という事態になった男女の霊というものがよくあるのです。

この、むりやり結婚するという形での男女の生活は、ふた通りのパターンがありますが、ひとつは、男性が女性を隷属的立場において、そして、自分の私用に供するという形です。まれには、逆に、女性が男性を下僕として使うような関係も、あることはあります。

ただ、地獄の世界においては、どうしても力の関係だけで物ごとを見ている、ということが言えると思います。本当に相手に良かれと思って、相手を生かしながらやっている、ということはない、ということです。

さて、もう一つ、さらに詳しい話をしておきたいと思います。地獄では、結婚というものが、そのような一種の支配欲の論理のもとでなされているということが、明らかになったわけですが、地獄以外の世界ではどうなのか、こう思われる方もいるでしょう。

地獄ではない天上界部分の世界に、精霊界といわれる世界があります。この精霊界では、人々は極めて地上に似た生活をしています。そうして、その生活そのものが、本当に、地上から一歩も出ていないような感じがするのです。地上の生活に近いものになるために、そのような努力をしている、こういう世界が確かにあります。この世界においての結婚とは、では、いったいどのようなものでしょうか。

この世界における結婚は、まずお互いの共感のうえに成り立っている、ということが言えましょう。互いに感じ合う、共感し合う、こういう意味で成り立っている、と言えるのだと思います。

その、互いの共感とは、いったい何であるか。これがお分かりでしょうか。互いの共感、それは、相手を親しい者として感じ、受け入れる能力です。相手をよく知っており、相手のために何とかしてやりたいという気持ちもある、こういう人が生きている世界なわけなのです。

この世界においては、もはや、支配・服従という関係はありません。そうではなくて、もう少し、親近感という言葉でも表わせるような結婚観があります。この世界では、気に入った男女の霊は、一緒に生活をします。もちろん、いちばん多いものは、地上時代に夫婦であった者が、共にこちらの世界に還ってきて、そして、一緒に生活をするという例です。

こういう霊は数多くおります。夫婦単位で生活をしているのです。たいてい、自分の伴侶が地上を旅立った時に、いちはやく、追いかけるようにして死んで行った人です。配偶者が亡くなって一年、あるいは、三年以内に亡くなるような魂は、よく、霊界でも、片方が追いかけて来て、一緒に生活をしていることが多いと言えましょう。

この一段上の世界は、恐らく五次元霊界と言ってもよい世界であると思います。この世界においては、多少、霊界の結婚の意味合いが違っております。この霊界での結婚とは、二つの要素を充たしているものです。

一つは、純粋に愛というものの意味が考えられ始めている、ということです。純粋に愛というものが考えられ始めているのです。その「愛とは何か」ということを知る契機として恋愛がある、ということです。

この意味において、この世界での恋愛は、単に夫婦の間にだけ起きるのではなくて、霊人としての恋愛、というものがあります。もちろん、たいていの場合、相手は異性であります。これに対して、同性に対する愛というものもあるでしょうが、それは、恋愛感情とは区別をされた、親愛の情ともいうべきものです。あるいは、友情ともいうべきものとして理解されております。

さて、こうした、愛とは何かが分かる段階となって、そして、もう一つの要素は何かということですが、お互いに励まし合う、ということを知っているのです。互いに相手を励まし合い、引き立て合う、ということを知っている。そういう霊人の存在です。この世界においては、相手がいるということが、自分を向上させる原理になりかかっているわけであります。

さらに、これより上の段階で、霊的結婚というものが、あるかどうか。これは、六次元の世界に入って来るわけですが、この世界になると、いわゆる、結婚的形態をとることは、極めて稀となります。極めて稀で、なかなか、そういうことはしないで、各人が、自分の個性に応じた職業に励んでいることが多いと言えましょう。

けれども、ごく稀にではありますが、本当の意味での霊的結婚は、なされることがあります。それは何であるかというと、霊的合体、ともいうべきものなのです。二つの、個性ある霊が一体となって、合体霊となることがあるのです。まことに不思議です。二人で一人になっている。こういう合体霊というものがあります。

これも、霊界の結婚のありかたですが、この、大抵の場合は男女であることが多いのですが、男女の、愛の絆が非常に強いために、誰も、これを切り離すことが出来ない。そして、二人で一組という形での結婚生活をしているのです。

だから、その霊は「彼」であり「彼女」であるのです。「彼女」であり「彼」である。私たちは、そうした結婚霊に話しかける時には、「あなた方」という呼びかけをすることが多いです。「あなた方は」と言います。一人でいるより、二人で一つとなっていたほうが、お互いに愛し合うことが出来てよいというわけです。

もちろん、こちらの世界での結婚ですから、男女の性的な問題というものは殆んどありません。あるとしても、それは、ごくごく下次元の世界に限られたものであって、六次元と言われるような世界における結婚現象において、男女の性的結合という意味合いは、なくなってきます。

そうではなくて、魂と魂の結合であり、お互いが他人であることが許されないような強い気持ちがある場合に、こういうようになります。お互自らの個性を追求し、探求するよりも、別々のものとして行くよりも、一体としてありたい、一日中、一緒にいたい、ずっと永く一緒にいたい、こういう感じで一体となっているのです。

七次元の世界、菩薩の世界以降で、結婚ということが果たしてあるのか、ということですが、原則としては、極めて難しい、と言っておいて、間違いがないでしょう。

なぜかというに、菩薩の世界においては、確かに、地上的には人間の姿をとって生活をしていることもありますが、彼らの生活時間の大半は、むしろ人間的姿ではない、他の姿をしていることが多いからです。

これを、地上の方は、そう簡単に理解することは出来ないかも知れませんが、色んな表現形態をとって、他の者として現われることもあれば、あるいは、念としてだけ、エネルギー体としてだけ存在することもある。こういうことが非常に多いのです。

則ち、人体的意識が、かなり薄れて来ますので、この意味において、男女の結婚ということが、かなり難しくなって来るわけです。こうなって来ると、もし、菩薩の魂どうしで霊的結合があるとすれば、これは、より一段と、大きな霊体を造って行くこと、そういう目的のみにおいて結婚がある、ということになります。

実際、そういうことが果たしてあるのか、ということですが、これは、当事者どうしが好き合って一体となる、というケースは、極めて稀だと申せましょう。それよりも、より上位にある者の意志によって、ある一定の意図があって、結婚に似た霊的結合がなされることはあります。

例えば、非常に優れた魂があるとしますが、その優れた魂は、魂的に偏った所が多くて、そのままでは、これ以上の霊的向上が望めない、という場合です。しかも、その偏って足らざる所は、教育によってそれを補おうとすると、何千、何万年、あるいは、それ以上の歳月がかかるであろうと思われるときに、この魂の欠けている部分を補って、そして、総合的な魂を造ることが、あり得るのです。

霊的存在どうしの結合といいましょうか、一種のドッキングがなされるわけであります。こうして総合的な魂となった際にどうなるのか、ということですが、やがて上の次元に上がって行くことが多いのです。

則ち、八次元の如来と言われる世界に上がって行くことが多いのです。このように、霊的向上の原理としては、一つには、各人の魂が、自己修行によって光を増大させて向上して行くパターンと、もう一つは、かなり他力的な力も加わって、別々の魂が一体となリ、総合的魂になってゆく場合、こういうことかあり得るということなのです。

ですから、霊界においては、これを、結婚という表現にして良いかどうかは分かりませんが、魂が一体となるということは非常によくあります。

さて、以上で、霊界の結婚について、概論を話してまいりましたが、この、霊界の結婚という考え方と、魂の兄弟という考え方が、どのように関係するのか、それが解らないと思われる方も多いでしょう。

ここで、まだ、魂の兄弟について知らない人に説明をするとするならば、大抵の魂は、本体と分身という組み合わせによって出来ており、本体を一とするならば、分身が五人ぐらいいる、このような霊的な集団となっており、そして、この個々の魂が、順番に地上に生まれ変わってくる、こういう理論であります。

これは、主として、六次元以下で、七次元でも適用されるかも知れませんが、そのクラスまでの魂では、こういうことが成り立っているように思います。それは、遠い昔において魂を形成したときに、そのようなグループとして、魂を創ったことがあったからです。そうした、遠い過去の記憶をひいて、現在でも、魂の兄弟という、そういうグループがなされていることが多いのです。

さて、この魂のダループと、霊界での結婚とは、いったいどう違うのか、こう思われる方がいると思いますが、実は、今は、霊的世界において、この魂の兄弟理論が、かなり崩れかかって来ているというのが真相であります。

元々は、六人で一組となっていた魂の兄弟で、近現代において地獄に堕ちる人が急増していて、分離が非常に激しくなって来ています。非常に激しくなって来て、地上に出た魂が、天上界に還って来ないで地獄界に留まっているというケースが増えてまいりました。

こうして、六人組の形式が大幅に崩れかかって来ているのです。そうして、魂の兄弟理論から言えば、一人の兄弟が地獄にいるときは、他の魂は、地上に生まれ変わって来ることが出来ないことになっているので、これであれば、とうてい、地上に生まれ変わって行くことが出来なくなってしまいます。

この意昧において、他の親縁な魂を呼び寄せて魂の兄弟を造って行く、という意味での結婚もあります。

これと違った意味での結婚も、またあります。それは、霊のなかで、もはや魂の兄弟の群れの中からはぐれて、はずれて、個性霊として生きている霊も、かなりいることは事実です。個性霊として、一体で生きている霊もおりますが、こうした霊は、非常に心細く、頼りなく思っているので、何かの時に、自分の半身となるべき魂を求めております。

こうして、霊界において好き合った者があれば、結合するということが、よくあるのです。こう考えてみると、実は、霊の世界というのは、非常にに、くっついたリ離れたり、自由自在な世界なのだな、と感じる人も多いでしょうが、まさしくそういう世界であるのです。

また、後ほどお話をすることになると思いますが、最近、地上に生まれ変わっている霊の内の多くは、まだ、なじみのない魂であることが多いのです。こうした異星人の魂とも言うべきものは、魂の兄弟組織が十分に出来ていない個性霊であることが多く、それゆえに、単独で生活をして行くのに不安を感じることが多いのです。

こうした霊を助ける意味で、地球出身の魂が、彼らを援助することがよくあります。こうした異星出身の魂を援助して、地球出身の魂が協力をしてやることがあります。この意味で、二人が一体となったり、三人が一体となったりして生活をして行くことがあります。

あるいは、地上では、守護霊・指導霊という言葉がありますが、地上を去った世界、霊界においても、守護霊・指導霊というのがあって、こうした、不案内な霊に対しては、守護霊や指導霊が、常にくっついて生活をしていることもあります。彼らが独り立ち出来るまで、指導をするのです。

もう一つ、まだまだ規則から外れている魂として、動物霊からの進化霊というのがあります。動物から人霊への進化というのは、極めて厳しい条件があります。よほど素晴らしい生涯を、何度かにわたって経験しなければ、動物霊が人間霊として進化して来ることはありませんが、霊界の法則の一つとして、そのような例外措置もあるわけです。

例えば、家畜のなかで、非常に人間と親しく、家族のように交わって来たもの、そして、人間になりたいと、本人が非常に強く念願しているもの、しかも、人間に対して、大いに協力をしたもの、こういう魂は、一定の割合で、次の転生において、人間に生まれ変わることも可能とされています。

ただ、そのパーセンテージは極めて低いものです。宝くじに当たるような、そのようなパーセンテージですが、家畜霊のなかには、強く、人間として生まれたいという気持ちを持っているものが多く、人間の情が移り、人間のような考え方が出来るようになるにつれて、そういう形式をとることが多いのです。

ただ、こうした霊が、文明国に生まれ変わることは極めて少なく、初めは、未開の地において、人間として生まれて来るというケースが多いといえましょう。未開地において、原始人と変わらない生活をしている霊たちが、いまだおりますが、こうした所に、まず、人間として生まれ変わって来て、基本的な生活パターンを身につけ、次第しだいに、文明地を目指して進化して来ることがあります。

このような進化霊の場合にも、魂の兄弟が成り立っていませんので、やがてどこかで、他の似かよった魂と共感し合って、自分の総合力を増してゆく方向に行く場合があります。

このように、霊界の結婚という言葉で話をしましたが、この結婚は、ある意味での、結合と、言い換えても良いでしょう。このように、魂が力を増してゆく過程において、様々な組み合わせや、取り合わせ、結合形態があるということです。これを、まず知って頂ければ幸いです。

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3 コメント

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はじめまして (ようよう)
2020-09-07 12:28:19
こらは、どなたが考えたものですか?
完全な人間視点の霊界・・
生前においてでさえ、このような視点でスエーデンボルグは語ってはいない・・

表面的なことばかりですね。
スエーデンボルグなら、結婚の「愛」の本質について語ります。生前よりも具体的に。その結婚の「愛」と、「内在する神性」との関係を、自らの内的な感覚で語るでしょう。

あなたのお話は、「比較」でしか、語られていない。それは霊ではありません。
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これをチャネリングしたのは何方でしょうか (Bay)
2021-11-04 08:13:22
興味深く拝読しましたが、これをチャネリングしたのは何方でしょうか。
大川隆法氏でしょうか、それとも貴方ご自身でしょうか。

スウェーデンボルグは、その著作『結婚愛』では、「性別が消える」などとは一切言っていません。むしろ、性別は非常に決定的なものであり、永遠に残るものだ、と言っております。

チャネリング元を明らかにしていただきたいです。
よろしくお願いいたします。
返信する
Bayさま、コメントありがとうございます。 (gw(サイト編集者))
2021-11-06 16:02:35
Bayさま、コメント、ありがとうございます。

私自身は、スウェーデンボルグの関連書籍としては、『霊界日誌』のような、氏の存命中の著書の一部を翻訳したものを何冊か読みましたが、その著作『結婚愛』という著書については存じておりません。その書籍の出版社とか、発刊された年月等の情報を頂ければ有難いです。

で、ご指摘によれば、このメッセージには、「性別が消える」という文言がある、とのことですが、私には、その部分は発見出来ませんでした。もし宜しければ、最初から言って何段落目にあるとか、お教え願えれば有難いです。

以上、よろしくお願い致します。
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